第163話 反転した世界9
何かがおかしいと、自分の記憶に違和を見つけたのが数日前のこと。しかし何がおかしいのかがわからない。サミュエルにとってこんなことは初めてだった。
「サミュエル殿下……本当に申し訳ありません」
夕暮れ時、寮への道筋を歩くサミュエルに、ジルベルトが謝罪の言葉を口にした。
ジルベルトがサミュエルの護衛のような働きをするようになったのは、ここ数日のことだ。切欠は恐らく兄、アーノルドの件だろう。
ニコラスを牢から逃がし匿っていた者たちの仲間と思われるアーノルドは、現在行方知れずとなっている。
その件でコア家の父、長兄、ジルベルトと何度か協議をしているうちに、自然と学園内でのサミュエルの護衛のような役割を、ジルベルトがこなすようになったのだ。
幾分気を散らせて歩いていたサミュエルは、一瞬ジルベルトの謝罪が何に起因するものか掴み損ね、返事が遅れた。が、すぐにアーノルドのことだと気づき、いつも通りの答えを返す。
「……お前が謝ることではない」
「ですが……」
アーノルドが失踪しているという事実はニコラスの脱獄のとき同様世間には知らされていないが、どれだけサミュエルがお前は悪くないと言っても、ジルベルトだけではない、コア家の人間はライオネルもヴァルターも頑なに、アーノルドのしたことをコア家全体の罪として捉えている。
ライオネルなどは一時近衛騎士団長をやめるとまで言いだしたが、そこは陛下の一声で何とか踏みとどまらせることができた。
牢破りは重罪だ。それに加担したアーノルドはもちろんそれ相応の罪に問われるし、本来ならその罪を犯した者の生家にもその罪は及ぶ。
だがことがことだけに国としても今回のことに、これまでの刑罰を容易に当てはめることができないでいた。
アーノルドはコア家の生まれ。アーノルドのしたことを家全体の罪として捉えれば、王家は守護神たるコア家を失うことになってしまう。そして国の管理する牢からの脱獄は、普通の人間に出来る芸当ではない。
精霊による結界が施された牢は、下級、中級の精霊との契約者ではまず破ることが出来ない。出来るとすれば、それは上級精霊との契約者ということになる。
精霊教会に属さない精霊士はいるが、それが上級精霊との契約者ともなれば、ほぼ皆無となる。ならばニコラスを逃がした人間は教会所属の精霊士に絞れるかと言えば、教会所属の精霊士は個人の識別が出来るようになっているため、今回のことはすぐに教会所属の精霊士の仕業ではないと判明していた。
教会に所属しない上級精霊持ちの犯罪者が野放しにされている。それが知られたら、世間に少なくない動揺をもたらすことになる。ニコラスが逃げたことを内密にしたのはそう言った背景があったからだ。
「お前らが自省するのは構わんが、それを理由に手を引かれてはこちらが困る。本当に償いたいと思っているのなら、王家に仇を成した者たちを捕らえることでその意を示せ」
「……はい」
脱獄を示唆し、その手引きをしたであろうアーノルド。だがなぜニコラスを牢から出したのか、その理由はまだわかっていない。ニコラスを問いただそうにも、どうやら匿われていた間の記憶がないようだった。
匿っている場所を知らせず、匿っている間も必要以上の人間との接触を断てば、情報の流出を最小限にすることは出来る。だがニコラスはほんの些細な情報すら持っていなかった。薬を使われた可能性もある。
そしてニコラス自身の行動も意味不明だ。
ニコラスはせっかく牢から逃げることが出来たのに、また王城へと戻ってきた。そして何をするでもなく、給仕に化けてうろついていたところを、寄り子の家の娘であったミミア・カダットによって発見され捕らわれたのだ。
そこまで考え、サミュエルはまた違和に気が付いた。ニコラスを王城まで連れて来たのは、ジルベルトとメルディア公爵家の元護衛であるテッドだ。だがもう一人、その場には誰かがいたような気がして仕方がなかったのだ。
サミュエルは記憶力が良い。誰かがいたはずだ、などと言った曖昧な記憶の仕方をしたことは今まで一度もない。その場にいたはずの者を認識できていないとしたら、それはサミュエルの視界に入らなかった者か、あるいは何らかの外部の力が働いたかだ。
ニコラス同様薬の作用を疑ったが、今度はどうやってその薬をサミュエルに飲ませたのかと言う問題が残ってしまう。これでは堂々巡りだ。王太子であるサミュエルに薬を盛るなど、牢破りよりも難易度が高い。
思考に没頭するサミュエルに、ジルベルトが控えめに声をかけてきた。
「……殿下、ここ数日何か思案しておられるようですね」
ジルベルトはよく人を見ている。そのためか、まるで長年付き従った侍従のようにサミュエルの言動からその時の体調や心の状態を導き出すことに長けていた。
「ああ」
「何を……とお聞きしても?」
サミュエルはジルベルトを見つめ、そしてふと視線を逸らした。
「わからない」
サミュエルの答えに、ジルベルトが目を見開く。
「俺を取り巻く状況の何かがおかしい。漠然とした違和を感じるが、その違和の正体に一向に当たりが付けられん」
「それは……」
ジルベルトは何をどう言おうか迷っているらしい。普通ならそんな不確定な不安と同等の違和など、真剣にとりあうのは馬鹿らしいだろう。しかしそれを言っているのは王太子であるサミュエルだ。馬鹿らしいとは思っても、ジルベルトの立場としては付き合わなければならない。
しかしジルベルトはそんなサミュエルの予想を裏切り、驚くべき言葉を発した。
「俺もです……」
「……何?」
「俺も、何か頭に靄が掛かったような、すっきりしない状態が数日前から続いています。疲れから来るものと決めつけていましたが、殿下のお話を聞いて、はじめてこれは違うのかもしれないと思いました」
「……具体的にどのような状態にあるかわかるか?」
「例えば……なんですが」
そうジルベルトは前置きしてから、話はじめた。
「深い湖の中から何かが浮上しようとすると、どこからかそれを邪魔するものが現われて、その浮上しようとする何かを押さえつけている、と言った感覚でしょうか。その押さえつけられている何かは、俺自身かもしれないし、別の誰かかもしれません」
「誰か……か? なぜ人だと思う」
「時折、頭の中に過る影があります。ほんの一瞬で、一瞬後にはその影が何であったのかは忘れています。けれど、おそらくその影は人間の形をしている……」
「干渉……か」
ジルベルトの言葉から、サミュエルは記憶に干渉を受けている事態を想定した。
「干渉?」
「……一般的には知られていないことだが、精霊の中には人の精神に干渉できる力を持つものがいる。何らかの干渉を俺たちは受けているのかもしれないな」
「……それは、緊急事態では」
ジルベルトの表情がわずかな焦りを滲ませた、緊張したものになる。
王族であるサミュエル、しかもティアベルトの王太子であるサミュエルには、上級精霊の中でも力が強いものが守護としてついている。その上級精霊さえ凌ぐ精霊に干渉されていることになるのだ。
「まだ推測の域を出ていない。いや、推測ですらないかもしれん。何かもっと決定的な違和が必要だ」
数日前から始まったということで、自分とジルベルトの所見は一致している。では数日前に何があったのかといえば、思い当たる最大の事柄は精霊祭だろう。そしておそらく違和が始まったのは本祭が実行されているとき。
精霊祭には精霊の力が極限まで高まるとされている。もしサミュエルたちが受けている干渉が精霊によるものなら、実行するにはその日が一番適しているからだ。
「ジルベルト。これから王宮へ戻る。ついて来い」
サミュエルは踵を返し、学園の一画にある転移門のある塔へと向かい歩き出した。
歩いている途中、ジルベルトが何かに気が付きふいに足を止めた。
「殿下……あの二人は……」
ジルベルトの言葉に反応し、サミュエルはジルベルトと同じ方角を見る。そこにいたのは、サミュエルの従妹であるフィーラと、精霊姫の姪であるサーシャだった。
フィーラの姿を目にしたとたん、サミュエルの頭の中に次々と何かが浮かび、すぐに弾けて消えた。
さきほどジルベルトの話を聞いていたおかげで、サミュエルはその感覚を追うことが出来たが、もし話を聞いていなかったら、その現象にさえ気づけなかったかもしれない。
フィーラの姿が目に入った際に記憶に浮かんだ、いくつかの泡。その泡にはそれぞれフィーラが映りこんだ情景が浮かんではいなかっただろうか。
「あの二人は仲が良いのでしょうか?」
「いや……そんなはずはない」
そう。そんなはずはない。フィーラはクラス内で孤立している。友人がいるとの情報はサミュエルには入ってきていない。しかし二人の表情や、やりとりを見るに、明らかにただの学友とは思えない。
フィーラはサミュエルの従妹で、精霊姫候補。そして、予言に出てくる悪役の……。
サミュエルとジルベルトが二人を見つめていたのはほんの数秒、その数秒後に、いきなりフィーラが倒れた。
「……⁉」
すぐに駆けだしたサミュエルを追ってジルベルトも走り出す。そして二人が到着するよりも早く、どこからかエルザ・クロフォードが現われ、フィーラを受け止めた。
ジークフリートの従妹であるエルザ・クロフォード。そして初の女性聖騎士候補。彼女がフィーラと親しいと言う情報も、サミュエルには届いていない。
サミュエルが持つ記憶と情報とは異なる行動をとる、サーシャとエルザ。何かがおかしい。そう思う、その糸口を掴めたような気がした。
「何があった⁉」




