第161話 反転した世界7
授業が終わると、ステラはいつも通り学園内をぶらぶらと歩いていた。いつもはリディアスやリーディア、誰かしらと一緒だったが、ここ最近ステラはいつも一人だ。
なぜだか分からないけれど、最近は一人になりたいと思うときが多い。リディアスのこともリーディアのことも大好きだったが、なぜだか鬱陶しいと思ってしまうのだ。
「贅沢だよね、私……」
だがそれも仕方のないことだと、ステラは思っている。リディアスは王族だし、リーディアも公爵令嬢だ。前世を含めて生粋の平民であるステラと二人は感覚が違うのだ。
そんな二人といると、楽しく、その優雅さに憧れもするが、時々とても窮屈だ。
ステラは大きなため息をつき、二人のことを頭から追い払おうとかぶりを振る。そして、ふと浮かんできた別の人間のことを考えた。この世界においてのステラのライバル役、フィーラのことを。
フィーラは転生者だ。ステラはそう確信している。なぜなら、フィーラは学園に入学してから一度も、ステラに対し何の行動も起こしてこなかったからだ。
先日は自分でも制御できない激情のまま、フィーラに対しあれこれ叫んでしまった。あれではどちらが悪役かわからない。
精霊祭の本祭、祈りの場に遅れて現われたフィーラ。ステラはフィーラと目が合ったが、その瞳にステラへの敵意はなかった。
祈りの時間が終わっても手を組み、祈り続けるフィーラを見て、ステラは何故だか自分でもわからないほどに焦り、気分が悪くなってしまった。そして、どうしようもなく、フィーラに話しかけたい衝動に駆られた。
フィーラのことが、とても神聖な存在に思えたのだ。神に許しを請うように、罪の告白をするように、ステラはフィーラと話をしたいと思った。
しかしフィーラに話しかけようとしたステラだったが、祈りの邪魔をしてはいけないからと、リーディアに止められた。
その後ステラの気分は悪くなる一方で、ステラはそのままリーディアに付き添われ、セルトナーの家に向かった。そして後夜祭の時間になっても体調が戻らず、リーディアに事情を説明して貰い、後夜祭の大舞踏会を欠席することになったのだ。
ゲームでの「ステラ」は大舞踏会でテッドやエリオット、ジルベルトと踊ることになっていた。だがあまりの気分の悪さに、とてもそれどころではなくなってしまった。
ステラが寮でフィーラに叫んでしまったのは、ステラが出られなかった大舞踏会で、フィーラに後れをとったかもしれないと思ったせいもあるのだ。とにかくステラは焦っていた。
フィーラは噂で囁かれているような、癇癪持ちで我儘な少女ではない。そのことにステラはすでに気づいていた。だからこその焦りだったのかもしれない。
ステラはもう一度頭を振り、今度はフィーラの幻影を頭から追い出す。
ステラは外廊下から庭園へと足を踏み入れ、芝生の感触を楽しむ。今日は庭園にはほとんど人がいなくて、辺りはとても静かだ。そろそろ寒くなる季節。庭園に咲く花は限られているが、それでも整えられた常緑樹の庭木はその美しさで見る者の目を楽しませてくれる。
「何か……夢の中の世界みたい」
清楚で可愛らしい制服を着て、整えられた美しい庭園を散策することは、まるで夢の中の出来事のようだ。
ステラは己の白い手の平を見つめる。視界の端に映る亜麻色の髪。今は見えない瞳は、この空のように優しく、美しい青だ。
昔、自分がどんな容姿をしていたか、思い出そうとしても思い出せない。自分のことも、自分の家族も、どうやって死んだのかも……。最初の頃は、覚えていたはずなのだ。でもいつのまにか忘れてしまった。
「あれ……? 最初って……いつのことだっけ?」
ステラが前世の記憶を思い出したのは、学園に入学する二か月前くらいのことだ。ではその頃はまだ前世の自分のことを覚えていたのだろうか。
「……あれ? ……もしかして、私最初からゲームのことしか覚えていなかった?」
ステラは自分が前世、『姫騎士』というゲームをプレイしていたことをはっきりと覚えていた。自分が余暇のすべてを使うほど、入れ込んでいたゲームであることも、そのゲームの詳細も覚えていた。
けれど、自分に関して覚えていることは、今思い出してみると驚くほど少ない。
「いえ……違う。覚えていたわ、私。覚えていたはずなのに……」
そう。ステラは前世の記憶を詳細に覚えていたはずだ。なのに、いつからかそのことを忘れてしまっていた。
「嘘……。いつから……?」
ステラは必死に記憶を手繰り寄せる。目を瞑り少しでも何かを思い出そうと意識を集中する。そんなステラの瞼の裏に、光の残像が映った。驚いたステラは慌てて閉じていた目を開く。
「光……。そうよ。精霊……。あの精霊はどこ?」
ずっとステラの傍にいた、あの精霊。「ステラ」としての運命に導いた、あの精霊は今どこにいるのだろう。あの精霊を見なくなったのは、いったいいつの頃からか。
ステラはあの精霊と契約をしていない。ならばあの精霊はステラを見捨て、どこかへ行ってしまったのだろうか。
「あの子……いなくなったの?」
「あの子とは、誰のことだ?」
茫然と佇むステラに、声が掛けられた。どこかで聞いたことがあるような、でも思い出せない、そんな声。
「え? あなた……」
「記憶を操るということは、心を操ることと同じだ。君は今何を思っている?」
ステラは近づいて来る男の容姿を見て、目を見開いた。
黄金の髪に若葉色の瞳。ゲームで見たディランとそっくりだ。だが何故今、彼がここにいるのかがわからない。
ディランは確かにゲーム内ではカーティスの同僚として幾度か出てくるが、学園にいるうちはステラと邂逅する場面はなかったはずだ。
「……なんで? なんであなたがここにいるの? あなたには精霊姫になったあとでしか会えないはずなのに」
「何だそれは……? 俺たちは以前にも会っているだろう?」
ディランの言葉に、ステラが大きく目を見開く。そんな記憶はステラにはない。もしやステラが知らないだけで、ディランはステラの事を知っていたのだろうか。
あり得ないことではない。ステラは精霊姫候補なのだ。現役の聖騎士であるディランが精霊姫候補を探りに来たとしても不思議ではない。むしろ候補者がどんな人間か知りたいと思うのが人情ではないだろうか。
ここはゲームであって現実でもある。まるきりゲームと同様に事が進むとは限らないのだ。実際に、ここまでゲーム通りのことはあまり起こっていない。起こっていないから、ステラとしても攻略の仕方があまり分からなかったのだ。
しかしそれでもいい。ゲーム通りに事が進まなくとも、攻略対象はいるのだから。そう思い始めていた矢先の、ディアンとの邂逅だ。まるでそのことに腐らなかったステラへのご褒美のようだ。
「忘れているのか? いや……あれを忘れるって相当だろ」
ディランが自問自答をしている間、ステラはディランの事をじっと見つめた。ディランとはもちろん初めて会う。だが初めて会うような気がしないのは、きっとゲームでの姿を見ているからだ。
「ねえ……どうしてここにいるの? もしかして、私を迎えに来てくれたの?」
ゲーム終了後にしか会えないはずの相手が、何故か自分の目の間に現れた。これはそういうことなのかと期待しても無理はないだろう。
「……何を言っているんだ、さっきから」
「だって、あなたは攻略対象じゃないのよ? ゲームには出てくるけれど、主人公であるステラとの絡みはないはずなの」
自分の記憶にある情報を確認してステラは首を傾げる。その様子を見たディランが、眉を顰めた。
「参ったな……会話が成り立たない」
そういうとディランが顔を寄せ、ステラの瞳を覗き込んできた。間近で見る若葉色の瞳は、わずかに金の虹彩が散っている。それがいっそう瞳を輝かせていた。
「……やはり影響を受けているな」
ディランの言うことの方が、ステラには理解できない。会話はちゃんと成り立っている。ただ、ディランの知らないことをステラが知っているために、齟齬があるように感じるだけだろう。
「なあ。……君はこの世界のことを知っているんだよな?」
「何? 何言っているの? 嘘でしょ……ディランが何でそのことを知っているの?」
この世界がゲームの世界だということを知っているのは、ステラだけのはずだ。
「……嘘をついているのか、それとも本気で言っているのか判断が難しいな」
「ねえ、どうして? もしかしてあなたも転生者?」
もしそうなら、それはそれでいいかも知れない。同じ境遇の者同士、仲良くなるのも容易いはずだ。
「転生者?」
「前世の記憶を持っている人のことよ。ねえ、そうなの?」
「残念ながら違う」
「じゃあ……もしかしてフィーラから聞いたの⁉」
「いや?」
「じゃあ何で……!」
知っているのかと、そう問おうとしたステラは、フィーラの名前を出しても、それが誰であるか聞いてこないディランを不思議に思った。考えられることは一つ。すでに知っているからだ。
「ああ……そう、そうよ。ねえ、あなたフィーラのことを知っているわよね? 何で知っているの?」
「そんなことは君には関係ないだろ」
ディランが発した言葉に、ステラの感情は一瞬で沸騰する。
「関係あるわ! フィーラから何を聞いたの? 私が悪者だって話? そんなの嘘よ! 本当の悪者はフィーラなんだから!」
「お嬢さんが悪者? あのお人よしのお嬢さんがか?」
片頬をあげて笑うディランに、お前は何を馬鹿ことを言っているのだと言われた気がして、ステラの感情はさらに高ぶった。
「そうよ! フィーラは悪役令嬢なのよ! 騙されないで! ねえ、いつフィーラに会ったの? 何で私より先にフィーラに会うのよ!」」
「そんなことを言われてもな……。誰にいつ会うかなんて誰にもわからないだろ」
「……違う! 言ったでしょ! 本当ならあなたに会えるのは精霊姫になってからなのよ! なのになんでこんなに早く出てくるのよ!」
「……何だかよくわからないが、俺に会ってしまったことが問題なら、もう君の目の前には現れない、それでいいか?」
うんざりしたように息を吐くディランに、ステラの目に涙が浮かんだ。
「そうじゃない! そうじゃないの……! 何でいつもそうなの! 少しは私の言うことも聞いてよ!」
「おい、一体何を……」
「だって……だって。本来はこっちが正しいのよ。この世界が正しいの。だって私はステラなんだもの……」
「……無理やり人の記憶を歪めておきながら正しいだと?」
ディランがステラを見つめる視線は、まるでそこらの汚物を見るような視線だ。
「……ねえ、なんで? 私はステラよ? 何でそんな目でみるの?」
「君が君だから何だと言うんだ」
「どうして……? どうして優しくしてくれないの? やっぱり攻略対象じゃないから?」
「さっきも言っていたな。何だ? 攻略対象って」
「おかしいわよ。せっかく正しい世界に戻そうとしたのに……」
ディランの問いには答えず、ステラは言葉を紡ぎ続ける。
「君の言う正しい世界とは、お嬢さん……フィーラ・デル・メルディアを悪者にする世界か?」
「フィーラが悪者……? そうよ……それが本来の世界じゃない。でも、でもフィーラは………」
しかし、ステラはその言葉を発したあと拭いきれない違和感に一旦言葉を止めた。
「本来の……世界? いえ、いいえ……違う。これは……何? そんなの、私は望んでない……」
「おい、どうした?」
突然黙り込んだステラを心配したのか、ディランがステラの顔を覗き込む。今のステラは相当ひどい顔色をしているだろう。自分でも血の気が引いているのがはっきりとわかるのだ。
こちらが本来の世界。今ステラは確かに自分でそう言った。そう思った。だが、本当に、それはステラの意思だろうか?
今のこの世界が歪められた世界だということを、ステラは知っている。だが、たった今まで、そのことを忘れていた。
まるで誰かに、記憶を書き換えられたかのように。
そこまで考えたステラは、ある可能性に思い至り驚愕する。
「何で……何で私まで? 何で? 私の味方じゃなかったの? 優しくしてくれたのに……精霊姫になれるって、言ってくれたのに……みんな嘘だったの?」
「おい……」
頭を抱えるステラに、ディランが一歩近づく。だがステラはディランから逃れるように一歩身を引いた。
恋焦がれていたはずなのに、歩み寄ってくれるのを待っていたはずなのに……今のステラにはすべてが信じられない。それがたとえ恋する人だとしてもだ。
唯一、信じられるとするならば……。
「違う……」
ステラと同じ世界からやってきたであろう少女。頭の中によぎった白金色の一筋の髪の幻影を、ステラは必死に振り払う。
「違う……違うわ」
ステラはディランに背を向け、力の限り走り出した。




