第159話 反転した世界5
「何それ。そんな面白いことになっていたの?」
クレメンスとフィーラの席の近くに立ち、サーシャが口元を緩ませている。
翌日、サーシャとともに教室へ現れたフィーラに、クレメンスが声をかけてきた。もともとサーシャは人見知りをしない質であったらしく、そのうえ二人とも精霊士を目指す者同士ということもあって、すぐにサーシャはクレメンスとは従来からの友人のように親しくなってしまった。
「……笑い事じゃないぞ」
「そうですわ。サーシャ」
「ふふ。ごめんごめん。でも早とちりよね、ハリス殿下も。ルルディアの民族衣装は確かに上着の丈が長いけれど、ちゃんとズボンも履いているのに」
「……俺は、昔はよく女と間違えられていたからな」
クレメンスの言葉を聞き、フィーラもサーシャも静かに口を噤む。物憂げな表情のクレメンスは今でも大変美少女だ。
――今も……とは口が裂けても言えないわね。わたくしも初対面ではクレメンスのことを美少女だと思ったもの。声を聞いて一発で男性だと気づいたけれど。
「……まあ、私もこのまま秘密にしておくのが良いと思うわ。大丈夫よ。そういう思い込みの激しい人間は、きっとすぐに次の恋にのめり込むわよ」
「そうかしら? 今までずっと初恋を引きずってきたのに?」
――いえ、でもそれだけ情熱的だということでもあるものね。サーシャの言う通りまた何かきっかけがあれば、誰かに運命的な恋をする可能性もあるのかしら。
「そうよ。そういうことでいいの。これ以上気にしてもしょうがないでしょ? それよりも、今日はダートリー様も昼食を一緒にどう?」
「……ああ、構わない」
「じゃあ、二人ともまた昼休憩にね」
そういってサーシャは自分の席に戻っていった。
フィーラたちは昼食時、ひさびさに貴族が良く使う席に座り食事をとっていた。いつもの場所が思いのほか混んでいたからだ。
「……今日は騎士科の連中が多いな」
「そうですわね。普段はあまり時間がかぶらないのに」
騎士科の生徒のほとんどは普通科や特別クラスよりも早くに食堂へ来る。身体を駆使する騎士科の生徒たちにとって、食事の時間はとても大事な休息と栄養補給の時間だ。
「……俺もいつもはあちらに座ることが多いんだ。こちらに来たのは久々だな」
――そういえば、クレメンスと食事をとるときもいつも奥の席へ座っていたけれど、文句が出たことは一度もなかったわね。
「私はフィーラと知り合ってからはじめてだったわ。ダートリー様は何で向こうに?」
「……俺の家はあまり裕福ではないからな。一応は子爵位を持ってはいるが、内情は男爵家以下のようなものだ」
貴族の階級としては最下位である男爵家以下といえば、ほぼ平民と言っているも同然だ。
「そうなの。まあ、こちらの料理は美味しいから良かったじゃない」
「……ああ」
相手に気を使わせないサーシャの言葉にクレメンスが微笑する。
――そういえば、クレメンスの家のことって、あまり聞いたことがなかったわよね。ハリス殿下と出会ったのが侯爵家のパーティってことは、少なくとも侯爵家と付き合えるだけの家格ではあるということだけれど。
爵位が同じでも、家格には微細な違いが出てくる。長く続く家や、何か功績をあげた家など、あるいは親族の家格が高い家などは、たとえ爵位が低く裕福でなくとも交友があれば益があるとみなされ尊重されるものだ。
「あら? あれってハリス殿下かしら?」
サーシャの言葉に、クレメンスが一瞬ギクリと身を震わせた。フィーラもそんなクレメンスを見て、自分のことでもないのに何故かハラハラしてしまう。だがティオネラもどちらでも構わないと言っていたのだから、ティオネラの口からバレたなどということもないはずだ。
三人が控えめに視線を送っていると、ハリスがこちらに気付き、近寄ってきた。
――ああ……見るんじゃなかったわ。わたくしの馬鹿!
三人もの人間に視線を送られれば気づくのは当たり前ではないか。
「昨日は世話になったな。俺も一緒にいいか?」
――何故一緒に……! クレメンスは大丈夫かしら?
フィーラはちらりと横目でクレメンスを見たが、クレメンスが動揺していたのは一瞬のことだったらしく、今は平然とした様子に戻っている。
「……どうぞ」
クレメンスが承諾したことで、フィーラにも断る理由がなくなった。
「お前は初めて見る顔だな」
自ら引いた椅子に優雅に腰を下ろしたハリスが、サーシャを見つめ言外に自己紹介を求める。
「サーシャ・エーデンと申しますわ。ハリス殿下。以後お見知りおきを」
サーシャが猫を被り、ハリスに向かって優雅に挨拶をする。普段の猫を被っているサーシャは、基本優等生なのだ。
「ああ。この二人といるところを見ると、お前も精霊士候補か?」
ハリスがサーシャに精霊士候補であるとあたりをつけたのは、学園内では特別クラスの王族や精霊姫候補はすでに皆顔が割れているからだ。同じ特別クラスの生徒ならば、あとは精霊士しかいない。
「はい。精霊士を目指して精進しております」
「ふうん。精霊の階級は?」
「……下級精霊ですわ」
「下級か。まあ、ほとんどの精霊士の精霊は下級かよくて中級だからな。気を落とすな」
「……ありがとうございます」
サーシャは声色も態度も変えずにハリスに礼を言う。しかしそんなサーシャの頬が細かく痙攣しているのにフィーラは気付いてしまった。
――ああ……ハリス殿下。何故そのような言い方を……。
今のハリスの言い方は嫌味というほどではないが、無神経だ。気を落とすなという言葉は、裏を返せばハリスは下級精霊では物足りないと思っているということになる。
――わざとなのか、単に馬鹿正直なのか、どちらかしら?
「……精霊士として優秀かどうかは、精霊の階級とかならずしも一致しているわけではありません」
クレメンスはサーシャを庇うかのように、強い視線でハリスを見つめる。
「そうか? 一般的に精霊士の価値は契約している精霊の階級で決まる。強い精霊と契約している者のほうが有利なのは事実だろう」
「……そうかも知れませんが、それだけではありません」
クレメンスにしては珍しく、頑なだ。
――さきほどのハリス殿下の言葉は、クレメンスにはよほど納得しがたかったのでしょうね。
「そうだろうか? 俺も昔中級精霊と契約したが、正直守護精霊としてそばにいる上級精霊の方が強いし、役に立つ」
ハリスの思いがけない言葉に、三人は驚愕する。
「ハリス殿下……精霊と契約なさっているのですか?」
「ああ……しかし俺は王族だ。いくら精霊と契約しても、精霊士を目指すわけにはいかない」
瞼を伏せるハリスの姿に、フィーラは先ほどのサーシャに向けたハリスの言葉の真意に気が付いた。
――ああ……ハリス殿下はもしかしたら精霊士になりたかったのではないかしら?
だから自分より下の階級の精霊を持ちながら精霊士になるために邁進するサーシャに対し、つい意地の悪いことを言ってしまったのだろう。
「……今からでも目指してはいかがでしょうか?」
フィーラの言葉に、ハリスだけではなく、サーシャやクレメンスまで目を見開きフィーラを見つめてくる。
「……無理だ」
「何故ですか? 何か理由が?」
ハリスは王族だが第五王子だ。タッタリアの事情はよく知らないが、第五王子ともなればある程度の自由はきくのではないだろうか。
「それをお前に話す義理はない」
――それはそうなのだけれど……。
「……でも、ハリス殿下は精霊士になりたいのではないのですか?」
「……王族に自由などない」
ハリスは頑なに拒みながらも、精霊士になりたいのかと問うたフィーラの言葉自体を否定することはない。やはりハリスは精霊士になりたかったのだろう。
「精霊士になるということは、精霊士としての仕事につくという意味だけではありませんわ、きっと」
フィーラの言葉に、俯いていたハリスが顔を上げる。
「精霊士とは本来、人と精霊と自然を繋ぎ、それらの秩序と調和を望む者。これは心の在り方だと、わたくしは思うのです。もちろん、精霊士としてその仕事につき働いている方たちは素晴らしいと思いますわ。ですが、その志を忘れて精霊士としての能力だけを求めることは、本懐を忘れています」
すぐに反論がくると思いきや、意外にもハリスはフィーラの言葉を大人しく聞いている。
「どのような仕事についていようと、ほんの些細な行動にも、精霊士としての役割を見出すことは出来ます。たとえ王宮にいようと、花に水を与えることはできますし、自然からいただいた恵を、無駄にせず活用することもできます。日常のどんな事柄からも、人は精霊と自然の恩恵を思い出すことができます。それは平民だろうと王族だろうと変わりはありません。精霊と自然の前には、すべての人は平等です。そして心は何物にも縛られることはありません」
「……話の大部分にはまあ、納得できるが、最後のは詭弁だな。実際に平民と王族とでは背負うものが違う。王族は身体だけでなく心まで国に縛られる」
「ええ。確かに平民と王族とでは背負うものは違います。ですがその縛りこそが幻なのです。心はいつでも解き放つことが出来ます。それを自分が許さないだけですわ」
「……好き勝手に生きている者に、王族の重責はわかるまい。メルディア家の我儘姫」
ハリスが眉根を寄せ、吐き捨てるように以前のフィーラの二つ名を呼ぶ。しかし、フィーラの心はその言葉を聞いても、少しも痛まなかった。
「我儘、上等ですわ。わたくしはわたくしの思うままに生きていきます。これまでも、これからも」
――ああ、やっぱりわたくしあまり変わっていなかったわね。
少々言動が大人しくなったのと、前世の記憶から常識というものを学んだだけだ。性根が変わったわけではないのだと、フィーラは自分が放った言葉で気が付いた。
「……気分が悪い」
そういうと、ハリスは席を立ってしまった。気まずい空気の中、残されたフィーラたちは顔を見合わせる。
「……気にしないでいいわよ、フィーラ」
サーシャがフィーラを庇う発言をする。どうやら気を使わせてしまったようだ。
――王族を怒らせてしまったかしら……? まあ、多分どうにかなる……わよね……?
フィーラはハリスを侮辱したわけではない。そのような言葉をフィーラは一言も発してはいない。しかしハリスが侮辱されたと思えば、さきほどのフィーラの言葉は侮辱になってしまうのだ。
「……ハリス殿下もわかっているさ」
クレメンスも静かにそう呟いた。その言葉にフィーラは胸をなでおろす。クレメンスに言われると、きっと本当にそうなのだろうと思えるから不思議だ。
「ええ……。でもわたくしちょっと無神経だったかもしれないわ」
ハリスの言う通り、王族の重責はフィーラにはわからない。先ほどのフィーラは経験したことのないものをさもそうであるかのように言ってしまった。
「いいのよ! あの人だって私に無神経だったわ」
サーシャは自分の精霊を大切にしているが、下級だと言うことを少し気にもしている。図書館で話した時に大聖堂つきの精霊士になるには下級精霊では難しいかも知れないと言っていたのだ。
「……そうだな」
腕を組みそっぽを向くサーシャに、フィーラとクレメンスは苦笑した。




