第158話 反転した世界4
特別クラスに戻ってきたフィーラは、力を入れて扉を開ける。
――以前よりすんなりと扉が開けられるわ。腕立て伏せの効果がでたかしら?
今は授業終了後なのでクレメンスがいるか保証はない。しかし、扉を開けてすぐ、フィーラの目にクレメンスの銀色の髪が飛び込んできた。
「あの……ダートリー様。ちょっとよろしいかしら?」
「ああ……どうした?」
クレメンスがフィーラの声に振り返る。クレメンスの入学当初より少し伸びた銀色の髪が、振り向きざまふわりと揺れた。
夏季休暇以前から授業が終わるといつもどこかへと消えてしまっていたクレメンスだったが、幸いなことにその日は教室に残っていたようだ。
「実は……タッタリアの第五王子であるハリス殿下を紹介したいのだけれど……」
フィーラの言葉を聞いたクレメンスの眉が顰められる。
「……タッタリアの王族を? 何故俺に……」
クレメンスの疑問はもっともだ。王族と縁を持ちたいという者はいるが、それでもいきなり紹介されたら警戒するのは当然のことだろう。
「それが……ハリス殿下からダートリー様に紹介して欲しいと言われて……」
フィーラは廊下へと続く扉を振り返る。ハリスには今、廊下で待っていて貰っている。ハリス一人を残してくる際かなりの注目を集めてはいたが、授業が終わっているためまだ人が少なかったのが救いだ。
しかし、タッタリアの王族であるハリスに手を引かれて特別教室まで来るところを、少なくない人数に見られている。ウォルクのようなことにならなければ良いと、フィーラは内心びくびくしていた。
その後テレンスの精霊姫候補二人からは特に何も言われてはいなかったが、視線はときどき感じていた。それだけだが、その視線が少々鬱陶しい。きっとフィーラのいないところでは色々言われているのではあるまいか。
――まあ、慣れてはいるけれどね……。
「……もういるのか」
フィーラの視線を追い、すでにハリスが壁の向こうにいるであろうことを悟ったクレメンスがげんなりとした表情をつくる。ポーカーフェイスなクレメンスにしては珍しい。やはり他国の王族と接するのは緊張するのだろう。
「ごめんなさい……。わたくしもつい先ほど紹介して欲しいと言われてそのまま連れてこられたの」
「……まあ。話を聞いてみないことにはな」
そういうとクレメンスは席を立った。
「いいの? ダートリー様」
「……もう来ているのなら仕方ない。面識はないはずなんだが、何の用なのか……」
クレメンスが教室の扉を開け、フィーラに先に行くよう促す。フィーラは扉から顔を出し、廊下で待つハリスの姿を探した。
ハリスは廊下の壁に寄りかかるように立っており、その姿を行き来する人間がちらちらと盗み見ていた。
――ハリス殿下……ポケットに手を入れているわ。この世界では初めて見たかも……。
無造作に背中に垂らしている長い金髪と相まって、まるで不良のような印象だ。ハリスは扉から顔を出したフィーラに気づき、視線をよこす。そしてすぐ後ろに立つクレメンスを見て、小さく笑った。
――クレメンスは面識はないって言っていたけど、ハリス殿下の方は知っているようね。そういえば模擬戦ではじめて会った時も、クレメンスを見て表情を変えたわ。
ハリスは寄りかかっていた身体を起こし、フィーラたちに近づいて来る。そしてフィーラの横に立つクレメンスの正面に立ち、じろじろとその顔を眺めまわした。
「……俺に何か用ですか?」
そんなハリスの行動にクレメンスは若干動揺しているようだが、それでも丁寧な姿勢は崩さない。
「ああ……やはり似ているな。お前、妹か姉はいるか?」
「……いいえ。兄が一人いますが」
「そうか。では従姉妹や親戚に、お前に似た銀髪で凍った湖のような瞳の色の者はいるか?」
「……いいえ。うちの家系で銀の髪の女性はいません」
「……そうか。勘違いだったか」
明らかに意気消沈しているらしいハリスに、お節介とは思ったが、フィーラは思わず声をかけた。
「あの……ハリス殿下? もしや誰かを探しているのですか?」
フィーラの言葉に、ハリスが反応する。フィーラを睨むような視線だが、その実、まるで縋っているかのような印象を受ける。
「ハリス殿下……?」
「……昔、ダートリーによく似た少女に出会ったんだ」
「……俺に、ですか?」
「フォルディオスに招かれた際、ある侯爵家のパーティに呼ばれたことがあった。そこで出会った少女だ」
「タッタリアの王族が、他国の侯爵家のパーティに呼ばれたのですか?」
「その家は貿易を営んでいてタッタリアの王宮とも付き合いがあったんだ。そこでまるで花のように可憐な、銀色の髪をした少女と出会った。水色の変わったドレスを着て俺にフォルディオスの料理を進めてくれた。俺はその少女を運命の相手だと思ったのに、それ以降彼女には会えていない」
ハリスはそこまで一気に話すと、小さく溜息をついた。
「まあ……」
突然はじまった小さな恋の物語に、フィーラは心が浮き立った。
「……」
しかし色めき立つフィーラとは反対にクレメンスは言葉をなくし恐縮している。
――自分に似た少女が運命の相手だと言われて、複雑な気持ちなのかしら?
はっきりいってクレメンスは女顔だ。フィーラはそのことについて言及したことはなかったが、まったく気にしていないわけではないだろう。
「……お役に立てず申し訳ありません」
クレメンスが下を向き、ハリスに告げる。
「いや。お前が気にすることではない。本当に運命ならいずれ出会うだろう」
「……」
「あの……ハリス殿下。もしその少女の特徴をもっとよく教えていただければ、お役に立てるかもしれませんわ」
「お前が?」
「人を探すには情報が多い方がよろしいでしょう? もしかしたらわたくしの知り合いにその少女のことを知っている方がいるかもしれませんわ」
フィーラの知り合いとはもちろんジークフリートとエルザだ。王族であるジークフリートや同じ侯爵家であるエルザなら、その少女のことを知っているかもしれない。
「なぜお前がそこまでするんだ? ……もしやお前……俺に惚れているのか?」
「ふぇ⁉」
ハリスのあまりの勘違いぶりに、フィーラの口からおかしな声がでる。
「そういえば、先ほども俺に触れようとしていたな。……そうか。俺のことが好きなのか」
「いいえ! 違います!」
「ではなぜ顔が赤いんだ」
――それは……無意識とはいえ頬に触れようとしていたのは事実だし、まさかクレメンスに起こったことがこんなにすぐ自分の身にも起こるとは思わなかったからよ……!
「違います! 本当に! それにわたくしには……」
そこまで口にして、フィーラははっとして口を噤む。想い人がいるという言葉が、口の先まで出かかってしまったのだ。
「わたくしには何だ? ああ、新たな婚約者でも出来たのか?」
「い、いえ……婚約者はおりませんが」
――新たな婚約者……ということはハリス殿下もわたくしとサミュエルの婚約が白紙になったことは知っているのね……。まあ、それはそうよね。他国とはいえ、王族同士の婚約話は伝わるのが早いもの。
「婚約者がいても別の人間を好きになる気持ちは止められまい。だが、お前は大層美しいが、俺には運命の相手がいるからお前の気持ちには応えられない。……悪いな」
ハリスの言葉にフィーラは口を開けて固まる。
――……告白をしてもいないのに振られてしまったわ。ど、どうすれば誤解を解くことが出来るのかしら?
フィーラは答えを求めて同じような目に合ったクレメンスを縋る気持ちで見つめる。するとクレメンスは哀れな者でも見るように眉根を下げ、ふるふると首を横に振った。
――ああ、デジャブ……。クレメンスの気持ちがわかったわ。というかこの思い込みの強さ、カディナ様と似ているわね。タッタリア共通の傾向なのかしら?
「手間を取らせたな、お前たち。もう用は済んだから俺はこれで失礼する」
そういってハリスは二人に背を向け去っていった。残されたフィーラとクレメンスはお互いに顔を見合わせ、深いため息を吐いた。
「……ダートリー様の気持ちがようやくわかったわ。なんとも言えない気持ちね」
「……俺はまだいい。あんたは誤解だとちゃんとわかっているだろう? だがハリス殿下は本気であんたが自分のことを好きだと思っているみたいだからな」
「そうね……。しかも振られてしまったわ、わたくし」
「……殿下は昔出会った少女を運命の相手だと思っていると言っていたが……」
「そうですわね。最初は素敵な話と思いましたが、そこからしてハリス殿下の思い込みの強さが現われているのかもしれません」
「……俺なんだ」
「はい?」
「……ハリス殿下の言っていた運命の相手……あれは俺なんだ」
後ろめたさからかフィーラから視線をそらしつつも重大な告白をするクレメンスに、フィーラはまたしてもしばらくのあいだ口を開けたままで固まってしまった。
「…………え? え、でも、ハリス殿下は少女と……もしかしてハリス殿下はダートリー様を少女と勘違いしたのですか? あれ? でもドレスを着ていたと……」
「……殿下が言っていたのはおそらく、母方の国の民族衣装のことだろう。母の生国はルルディアという小さな国で、男も女のような丈の長い衣装を着るんだ」
「ルルディア……。確か北にある小さな島国でしたわよね。ダートリー様のお母様はそちらの出身なのですね」
「……言い出せなかった」
両手で顔を覆い悲痛な声で呟くクレメンスに、フィーラはあわてて慰めの言葉をかける。
「それは……しょうがありませんわ! 運命の相手などと言われたら、それは勘違いだなどと言い出しにくくて当たりまえです! そもそもダートリー様を少女だと勘違いした殿下が悪いのです! ダートリー様は悪くありませんわ!」
「……フィーラ嬢。ありがとう……。だが本当にどうしたものか。俺が正直に言わなければこれからも殿下は幻を運命と思い生きていくことになってしまう」
「う……。それは……」
「今からでも本当のことを言うべきだろうか。そうすれば殿下は新しい運命を探すことが出来る」
――クレメンス……なんて優しいの……。でも本当にどうしましょう。クレメンスの言う通り真実を言った方がハリス殿下のためになるのかしら? でももし思い込みの強いハリス殿下じゃなければ、淡い初恋の思い出で済んだ話だとは思うのよね。今でも運命の相手として探しているからややこしいだけで……。
「気にしなくていいわ」
二人が悩んでいると、後ろから声がかかった。振り返るとティオネラが立っている。
「カディナ様……」
「……カディナ嬢」
「兄さまは思い込みが激しいの。わたしはすぐに男の子だってわかったのに」
「……兄さま?」
ティオネラは今確かに、ハリスのことを兄と呼んだ。
「兄さまとわたしは異父兄妹なの」
「異父兄妹?」
「母さまは兄さまを産んですぐに王に離縁されて、それからわたしを産んだのよ」
――そういえば、タッタリアは他の国に比べて離婚が成立しやすい国だったわね。それにしてもカディナ様、結構重そうな話をあっさりと口になさるわね……。
「兄さまがクレメンス・ダートリーと出会ったとき、わたしもそばにいたわ」
父親の違う兄妹同士一緒のパーティでそばにいられるのだから、そう重い話でもないのかもしれない。
――タッタリアの結婚事情って前世のノリなのかしら? 男尊女卑ぎみな国だと理解していたのだけれど……それだけでもないようね。
「……カディナ様。もしかして、そのためにダートリー様のことをわたくしに聞いてきたのですか?」
「そう。もし兄さまがクレメンス・ダートリーが男でも良いと言った場合に、恋人がいるかいないかは重要な問題だから」
「え?」
「……は?」
「兄さまは女が好きだけれど、長年想い続けた初恋の相手だとわかったら、男でも良いと言うかもしれない」
「……冗談だろう?」
「まあ、わたしの推測だけど」
心なしクレメンスの顔色が悪い。もし王族であるハリス殿下に望まれたら、同性であると言う理由で断るにしても、断るという行為自体に神経を使う。ならこのまま幻と思ってもらっていた方が良いのかもしれない。
ハリスは王族だしいつかは結婚することになるのだろうけれど、本人も婚約者がいても別の人間を好きになることはあるといっていたため、きっと割り切れるに違いない。
「……ダートリー様。わたくし真実はこのまま闇の中でも良いと思うの……」
「……そうだな」
「わたしはどっちでもいい」
妹であるティオネラからの許しが出たので、このことはハリス殿下には秘密ということでフィーラとクレメンスの意見が一致した。




