第156話 反転した世界2
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「一時はどうしようかと思いましたが、わたくしとの記憶を失くしていても、エルザもクレメンスも優しくてほっとしましたわ」
授業終了後、フィーラの寮の部屋をサーシャが訪れていた。
フィーラはソファの隣に腰を下ろすサーシャの目の前に、角砂糖の入った器を置く。するとサーシャは、添えられていたシュガートングで紅茶に角砂糖を四つ落とした。どうやら甘党らしい。
「……美味しいわね、この紅茶」
ティースプーンで紅茶を混ぜ、一口飲んだサーシャが感嘆の言葉を口にする。
「まあ、思っていたよりもあなたが悪しざまに言われなくて確かにほっとしたわ。それでいうとあの門番とかクリードは酷いわよね。元の性格が悪いのかしら?」
「ええ? そんなことは……あるのですか?」
フィーラはクリードとは一度しか会っていないし、言葉もろくに交わしていないため、クリードの性格うんぬんについては何も情報を持っていない。
「まあ、根っからの好青年とは言えないけれど、でも底意地が悪いわけではないわ。あなたへの先入観が少ない人ほど変化も少ないのかしら? あるいは干渉を受ける以前、あなたとの接点が多かった人とか」
「そう……なのでしょうか? わたくし、記憶への干渉がどこまで及んでいるのかによって、もしかしたらお父様やお兄様もわたくしへの態度が変わってしまっているのかもしれないと思うと、怖くて会えなかったのです」
だが、フィーラとの接点が多い者ほど変化が少ないというのなら、父や兄はあまり変わっていないのかもしれない。
「そりゃそうよね。私があなたの立場でも怖いわ。会って確認するのも手だけれど、自分から傷つきに行くこともないわ。干渉を解くまであなたはなるべく動かないほうが良いのかもしれないわね」
「ですが、干渉が解けるのがいつになるかわからない以上、いつまでも家族を避けるわけにもいきませんわ」
「ん―、まあそうよね。あなたのご家族って以前のあなたに対しても優しかったのでしょう?」
「ええ」
「だったらあまり長い間連絡がつかないと心配するかもしれないわね。まあ、あなたが精霊姫になるまでの辛抱だけれど……なるべく早く儀式が出来ればいいわね」
「そのことですが……わたくしが精霊姫になるなど、わたくしいまだに信じられません」
「そうよねえ。私もそれに気づいたときは驚いたわよ」
「そうですわよね……」
「でも驚いたけど納得できたわ。あなたってとんでもないお人よしだけど、それは美徳といえるし、話に聞いていたあなたのこともまるで子どもの我儘や癇癪だと思ったもの。ようするに純粋だったということよね」
「それは……良く捉え過ぎではないかと……」
サーシャのように好意的に見てくれる人間は少ない。ディランも同じようなことを言ってくれたが、やはり貴族の世界ではフィーラのとってきた態度は嫌厭される。
「そう? まあ、本人を知った後だから言えるのかもしれないわ。でもほかの精霊姫候補とくらべても、あなたが一番良いわ、私は」
「サーシャ……ありがとうございます」
――きっと慰めで言ってくれているのだろうけど……やっぱり嬉しいわ。
「それにしても、ステラ・マーチとリディアス殿下には驚いたわよね。二人して遅れて授業にやってくるなんて」
「……そうですわね」
二人は揃って授業に遅れて来た。授業に遅れるだけでも注目の的なのに、二人して一緒に登園するなど、何か勘ぐられても仕方のない行為だ。しかも二人は言い訳も何もせず、リディアスなどとても堂々としていた。
「やっぱりリディアス殿下はステラ・マーチの味方なのかしらね」
「……可能性はあると思います」
「あとはっきりと向こう側だと分かっているのはマークス先生ね」
「それも信じられませんが……」
マークスには特別クラスになった当初世話になった。いつもにこにことしている優しい人物だと思っていた。
「私は昔から胡散臭いと思っていたのよね。笑顔が嘘くさいのよ」
マークスのことでも思い出したのか、サーシャが眉根を寄せた。
「サーシャはマークス先生のことも以前から知っていたのですか?」
「だってあの人大聖堂付きの精霊士だもの。私昔は良く伯母様に会いに大聖堂に入り浸っていたから知っているのよ」
「大聖堂つきの精霊士なんて優秀なのですね」
マークスは最初の自己紹介のときに大聖堂から来たと言っていた。
「まあね。でも正直あの人より優秀な人はたくさんいるわ。彼はフェスタ家の人間だから、大聖堂付きになったともいえるわね」
「フェスタ家? 有名なのですか?」
「ティアベルトではあまり聞かないかしら? でも精霊士を目指す者たちやカラビナ国でフェスタ家といえば有名よ。代々続く精霊士の家系なの。フェスタ家は黒い瞳が特徴ね」
「黒い瞳……」
――黒い瞳と言えば、トーランド先生もだわ。黒髪で黒い瞳の先生の容姿はとても懐かしいと思っていたけど、あそこまで黒い瞳は日本人でもなかなかお目にかからないわね。
「トーランド先生も黒い瞳ですね」
「ローグ家はフェスタ家の分家なのよ。それでもあそこまで黒い瞳は珍しいかもね」
「お二人はご親戚でしたか……」
「マークス先生は向こう側だろうけれど、トーランド先生はこちら側よ」
「え? 何故わかるのですか?」
「伯母様に聞いたの。今トーランド先生に精霊教会を追い詰めるための手伝いをしてもらっているって」
「トーランド先生に⁉」
オリヴィアが現精霊教会の立て直しを考えていることは先日聞いた。だがそこに誰が関わっているかまではフィーラは聞いていなかったのだ。
「随分と優秀な人らしいわよ? 本家より分家の人間のほうが優秀なんて、皮肉よね」
「何だか、色々なことが同時進行しているのですね」
ステラのこと、精霊教会のこと、個人的にはいなくなったジルベルトの兄、アーノルドのことも気にかかる。
「まあ、きっと私たちが知らされていることなんてほんの一握りよ。今は色々なことが裏で動いているわ。それを指揮しているのが精霊姫である伯母様なわけだけど……あなた同じようにできる?」
「……む、無理です」
「まあ、まだ学生だしね。それにあなたが精霊姫になった暁には、私が支えるわよ。私の精霊は下級精霊だけど、絶対大聖堂付きの精霊士になるわ。大聖堂付きの精霊士はほとんどが中級精霊以上との契約者だけど、下級精霊と契約した精霊士がいないわけではないもの」
「サーシャがそばにいてくれるなら心強いわ」
フィーラの言葉にサーシャが照れ臭そうに微笑む。しかしすぐに表情を曇らせた。
「……正直に言うとね、伯母様の威光があるから私が大聖堂へ行くのはそこまで難しくないと思うのよ。だって私は精霊姫の姪だもの。私もマークスと変わらないの。いえ、もしかしたらよほど私の方が酷いかも。マークスは中級精霊持ちだけど、私は下級精霊だもんね」
「サーシャ……でもサーシャは優秀ではないですか」
サーシャは授業でも良く質問し、当てられてもちゃんと正解を答えている。教師から褒められることもしょっちゅうだ。
「そりゃ、すごく頑張ったのよ。将来伯母様の威光だけで精霊士になれたなんて思われたくないもの」
「素晴らしいわ、サーシャ。わたくしなんて将来の夢なんて何もないのよ。せいぜいのんびり暮らしたいと思っているくらいだわ」
「あなたも公爵令嬢にしては相当変わっているわよね……。それにあなたの将来はもう決まったでしょ? まさか精霊姫、辞退するとか言わないわよね?」
「……無理でしょうか?」
本音を言えばそうしたい。一連の出来事が無事済んだらその手もあるかもしれないと、フィーラは密かに思っていたのだ。
「呆れた。するつもりだったの?」
「もちろん、記憶に干渉された方たちを元に戻すために必要なことだとは理解しております。でもそれが終わったら選定のし直しとか……」
「ないわ。あるわけないでしょ。あなた以上の才能なんてないと伯母様も言っていたでしょう?」
「でもわたくし……オリヴィア様のようには出来ないわ」
前世社長をしていたというオリヴィアは、今でも統率力がある。フィーラの前世が何の仕事をしていたかは覚えてはいないが、今のフィーラを鑑みるに、統率者の能力として反映されるような仕事はしていなかったのだろう。
もちろん、それを恥とも悪いとも思ってはいない。だが、人には向き不向きというものがあるのは確かなのだ。
「ああ、もうごめん。脅し過ぎたわ。あなたにそんな苦労をさせないように、今伯母様が頑張っているのだもの。あなたは何も心配しなくていいわよ」
落ち込むフィーラを見たサーシャが慌てて訂正を入れる。
「サーシャ……」
「あなたは今のままで良いの。あなたが出来ないことは周りがするわ。そのために私たちがいるのよ。頼るのも仕事の内よ。全部一人でなんて出来ないわ」
「サーシャ……ありがとう」
――それでもやっぱりすべてを他人任せはどうなのかしら? まあ、今でも割とそれは変わらないけれど……。わたくしに出来ることって何かしら……わたくしにしか出来ないこと……。
「さ、私はもう帰るわ。明日また迎えに来るから」
残った紅茶を一気に飲み干したサーシャが、席を立つ。
「ええ、わかりました。外まで送るわ」
「ここでいいわよ。いくら寮とはいえ、あまり一人にならない方がいいわ。じゃあね」
遠慮をするサーシャを部屋の外まで見送ったフィーラが部屋に戻ろうと踵を返すと、廊下にフィーラを睨みつけるステラが立っていた。
「ステラ……様」
フィーラは周囲を見まわしたが、ステラ以外は誰もいないようだ。
――そうよね、ここは寮だもの。さすがにリディアス殿下はいないわよね……。
「フィーラ・デル・メルディア。あなた、転生者よね?」
ひとつの嘘も見逃すまいとするように、フィーラをじっと見つめながらステラが唐突に切り出した。
「……転生……者」
「とぼけないでよ! だってあなたゲームと性格違うもの。全然私の邪魔してこないし、絶対転生者でしょ!」
――どうしたのかしら……ステラ様いつもと様子が違うわ。こんな、癇癪のような言い方をする方ではないのに。
「とぼけているわけでは……。けれど、ええ。わたくしは前世の記憶を持っておりますわ」
「やっぱり! いい、精霊姫になるのは私よ! 攻略対象はみんな、私のものなんだから!」
ステラはまなじりを赤くしながら、叫んでいる。このように叫んでは、すぐにほかの誰かの耳に届いてしまうだろう。
「ステラ様、落ち着いてください。攻略対象の方たちとて人間ですわ。ここはゲームの世界かもしれませんが実際に彼らは生きているのです。心があるのですわ」
「うるさいわね!」
ステラがひと際大きく声をあげたところで、ステラの背後、廊下の曲がり角から数人の使用人が現われた。
「ステラ様……人が」
フィーラの言葉を聞き、ステラがハッとして後ろを振り返る。しかしステラはそこで怯まなかった。
「何見てるのよ!」
ステラの一喝に、使用人たちは慌てて引き返していった。
「ステラ様、本当にどうされたのですか⁉」
今のステラは明らかにいつものステラとは違う。感情の抑制がまるで出来ていない。しかも今更邪魔をしてこないだの攻略対象がどうのだの、言うことではないだろう。もし本当にそう思っているのなら、もっと最初の頃に言ってくるはずだ。
――それに……フォルディオスでの一件で、ステラ様もわたくしに前世の記憶があることに気づいたと思っていたのに……。
あるいは確信を持ったことでの、今回の言葉と態度なのだろうか。
「うるさいったら! もういいわ!」
ステラはまたフィーラ睨みつけると、そのまま去っていった。
「ステラ様……」
ステラのあまりの変わりように、フィーラはステラが帰った後も廊下でしばらくの間茫然としていた。
フィーラと別れ寮から出たサーシャは自分の寮へ向かって歩いていた。
そろそろ日が暮れる時間だったが、まだ人はまばらに歩いていた。そのうちのひとり、前から歩いて来た人物がサーシャの目の前で止まった。
「……ウォルク」
「久しぶりだね、サーシャ」
柔和な笑顔で微笑む青年に、サーシャは眉を顰める。
ウォルクの入っている普通科の寮はフィーラの入っている精霊姫専用の寮やサーシャの入っている精霊士専用の寮を通り越した先にある。ここにウォルクがいてもおかしくはない。
だがこれまでにも何度か見かけたことはあったが、ウォルクがサーシャに声をかけて来たのは初めてだ。
「見たところ君も無事なようだね。どうしてかな? フィーラも無事だろう? あの子は特別だからしょうがないとしても、君はどうして? ああ、もしかして……君は単純だから、記憶への干渉が効かなかったのかな」
にこにこと柔和な笑顔でウォルクがサーシャに詰め寄る。柔らかそうなクリーム色の髪に、深い紅茶色の瞳は幼い頃と少しも変わらない。
「相変わらず失礼な奴ね……。あんたは絶対向こう側だと思っていたわ。その性格の悪さじゃね!」
「失礼なのは君のほうだよ。僕は本当のことを言ったまでだろ? フィーラなんかと仲良くしてて良いの? あの子は最後魔に憑かれて死んじゃう子だよ?」
「フィーラは死なないわよ!」
だが、ウォルクの言っていることは本来なら正しい。今ははっきりとそうはならないとサーシャは確信しているが、オリヴィアの物語では、フィーラは最後、魔に憑かれて死んでしまうのだ。
それをウォルクが知っているということは、はっきりと自分は向こう側だと宣言しているも同然だった。
「あーあ、もうだいぶ絆されちゃったあとのようだね。君は一応僕の従姉だし、見逃してあげようと思っていたのに……」
「見逃すって何よ……。何しようとしているのよ、あなたたち!」
「僕たちの望みはステラを精霊姫にすることだよ。僕は幼い頃からステラが精霊姫になるのを待っていたんだ。ステラが精霊姫になった暁には、フィーラは邪魔者だろ? さすがに魔に憑かれて死んでしまうのは可哀想だから国外追放くらいで許してあげようかと思っていたんだ。でも、君のことについてもあくまでフィーラの味方をするっていうのなら、考えないとね」
「ウォルク……あなたたちやっぱり……」
「うん? やっぱり何かな? ああ、そうそう。ステラに手を出したらただじゃ置かないよ。伯母様にも言っておいて。……まあ、どのみちステラを攻撃しても、意味ないけどね」
「……それって……いえ。あなた何しに来たのよ」
「何って……忠告をしに来たんだよ。じゃあね、サーシャ」
サーシャに手を振りながらウォルクが去っていく。ウォルクのクリーム色の髪に夕日があたり、オレンジ色に輝いていた。
「何よ……」
ウォルクとサーシャは従姉弟だ。サーシャの母親とウォルクの母親は、オリヴィアの年の離れた異母妹だった。
オリヴィアが成人してから数年後、サーシャの母が、その後ウォルクの母が生まれている。だから現在六十近いオリヴィアとサーシャは、伯母と姪の関係だが、四十以上年が離れている。それはウォルクも同様だ。
幼い頃は、サーシャとウォルクは仲が良かった。だが、いつからかウォルクの方からサーシャを避けるようになったのだ。そして、段々サーシャの方もウォルクに会っても話しかけなくなっていった。
オリヴィアもサーシャも、今までウォルクの存在を意図的に話題にはあげなかった。ウォルクも攻略対象である以上、警戒するべき人間であったにも関わらずだ。
やはりサーシャは今でもウォルクのことを身内だと思っていたらしい。今、ウォルクの口からステラ側の人間だと告白されて、サーシャの心臓はバクバクと音を立てて鳴っている。自分でも思いがけないほどに打ちのめされてしまった。
「……ウォルクの大馬鹿」
それでも、サーシャの気持ち揺るがない。たとえウォルクを敵に回しても、サーシャがフィーラから離れることはないだろう。
きっと自分が記憶を失わなかったことは運命なのだと、サーシャは強く感じていた。




