第145話 精霊祭6
「うん。その前に、伯母様。フィーラのことを知っているわよね?」
伯母はずっと以前からフィーラのことを知っている。それこそ、フィーラが生まれる前から、伯母はその存在を知っていたのだろう。
「フィーラちゃん? もちろんよ。どうしたの?」
「フィーラは変わったわよね? フィーラは伯母様が話してくれた物語のような人間じゃない。そうよね?」
幼い頃に伯母から聞いた物語。その物語の中で、フィーラは悪役として語られていた。
「……ええ。フィーラちゃんは変わったわ。今も一生懸命、変わろうとしているわ」
オリヴィアの言葉を聞いたサーシャは、ほっとして笑みをこぼした。
「……良かった。良かった伯母様……。伯母様まで変わっていたらどうしようかと思った……」
サーシャはオリヴィアの服の裾を掴んだまま、その場に座り込んでしまった。緊張の糸が切れたのだ。
「まあ。私はこれでも由緒正しい精霊姫なのよ? それよりも、あなたが干渉を受けていないことの方がびっくりよ? どうして無事だったのかしら?」
「……! 伯母様、今何が起きているか知ってたの⁉」
「ごめんなさいね。あなたを見た瞬間確信はしたけれど、気づいていないならばいきなり話しても混乱させるだけだと思って」
「……やっぱり、この世界は変わってしまっているのね。どうこがどう変わったか、なぜ私が無事だったのかはわからないけれど。……そうだわ、私だけじゃないわ、フィーラも無事よ」
「もしかして、フィーラちゃんと一緒にいたの?」
「ええ、ちょっと……」
「……そのせいかしら? あなたが無事だったのって」
「伯母様……やっぱりフィーラは、次の精霊姫なの?」
「あら……どうしてわかったの? さすが私の姪ね~」
「……ええ、ちょっと。というか伯母様⁉ なぜフィーラが⁉ それってあり得ることなの?」
「……ふふ。やっぱりこの世界は現実ってことよ。あなたに聞かせた物語は、あくまで物語なの。現実は如何様にも変わっていくのよ。それがはっきりしたわね。安心したわ~」
「今の状況で⁉」
「反転した世界は、またひっくり返せばいいのよ」
「……反転した世界?」
「でも精霊祭には、精霊の力が強くなる。それは向こうも同じなのよね」
「向こう? ねえ、何を言っているの伯母様」
「サーシャ。あなたにまた物語を聞かせてあげる。小さな頃に聞かせた物語の続きよ? フィーラちゃんだけじゃないわ。あなたの助けも必要なの。……私たちを助けてくれる?」
私たち。それはきっと、オリヴィアとフィーラのことを言っているのだろう。
己を見つめるオリヴィアの真摯な瞳に、サーシャは黙って頷いた。
サーシャは、幼い頃、オリヴィアから聞いた話を思い出していた。
幼い頃から憧れ、慕ってきた伯母のオリヴィア。
サーシャがまだ小さな頃、オリヴィアが聞かせてくれた物語を、サーシャはこれまでに何度も何度も繰り返し思い出してきた。
前世、こことは違う世界で生きていた伯母の話。人は空を自由に飛び、水の中でも息をする。それは上級精霊を持つものならばある程度は可能かも知れないが、オリヴィアの世界には、精霊はいなかったらしい。精霊の代わりになるような存在はあったらしいが、それでも随分とこちらの世界よりも進化した世界のようだった。
まるで神々の世界ね。そう言ったサーシャに、オリヴィアは苦笑したが、肯定も否定もしなかった。
だから、サーシャはずっと、オリヴィアのいた世界は神々が住む世界だと信じて来た。
オリヴィアの話では、その神々が創った世界がこの世界だという。神々が様々な人間たちの運命を覗き見るための箱庭、それがこの世界。
この世界では人間たちの配役は決められていて、多少の変化はあっても、基本は決められた運命からは逃れられないのだという。
しかしそれを覆すことができる方法がひとつだけあった。それが表と裏の異なる二つの世界の存在だ。
人間たちの運命に多様性を持たせるために、世界そのものにも表と裏を創ったというのだから、よほど神々は暇だったらしい。
そして、表と裏の二つの世界の中で、特に重要な役を与えられ人間たち。そのうちの一人が、フィーラだった。
だが、フィーラの役はあまり良い役ではない。善に対する悪。それがフィーラの役どころだった。
サーシャも実際にフィーラに会う前は、そのことに対して特別な感情はもっていなかった。物語には盛り上げ役がいなくてはならないのだ。それがフィーラだったというだけのこと。
しかし、実際に学園で物語の中に出て来た人間たちに会い、噂とは違うフィーラを見て、サーシャは急に不安になった。急に物語に現実味が帯びて来たのだ。もし、物語の通りに進めば、フィーラの未来は悲惨だ。
おそらくサーシャは、オリヴィアの語る物語を、本当の意味で信じてはいなかったのだ。理解していなかったと言い換えてもいい。オリヴィアの語る物語通りにこの世界が進んだとして、それが表の世界であるならば、フィーラ以外に目立った被害はないと思っていたからだ。
物語の中には数人魔に憑かれた人間も話だけではあったが存在した。しかし可哀想という気持ちにはなったが、それこそどうしようもないと開き直った。魔に憑かれる人間は、これまでにも少なからずいたからだ。それにはっきりと名前も分からない人間を助けることはできない。
だが、知っている人間となると話は変わってくる。しかも、相手が物語で語られているような嫌な性格ではなくなっていたのなら、なおさらだ。
理不尽だ。いつしかサーシャはフィーラの運命に対してそう思うようになっていた。
サーシャはオリヴィアから今この世界がどういう状況に置かれているのか、説明を受けた。
「今のこの世界は広範囲で人々の記憶に精霊の力の干渉を受けているの」
「精霊の……? 精霊の仕業だというの? これが?」
「ええ」
オリヴィアの言葉に、サーシャがごくりと唾を飲み込む。記憶へ干渉する精霊など、サーシャは今まで聞いたことがない。しかも、通常精霊の力が及ぶのは、数人が限度だ。しかもそれぞれ相手に直接対応しなければならない。
「……何の精霊なの? 記憶への干渉なんて、そんな危険な……」
「闇の精霊」
「闇の精霊……。闇の第一特性は、そのもの闇よね? 影や暗がりを利用して目くらましや移動が出来るけど、記憶への干渉なんて聞いたことがないわ。もしかして……第二特性なの?」
「ええ」
「……伯母様。光と闇の第二特性は明らかになっていないとされているわよね? もしかして、それは嘘なの?」
「光と闇の特性は使い方を間違えれば危険なの。そしてそのことを人々が知れば、光と闇の精霊を差別するようになってしまうわ。その精霊と契約した人間のこともね」
「誰が知っているの……? 伯母様が知っているのは、伯母様が精霊姫だから?」
「そうね。あとは、自力でそのことに気が付いた者。そして光と闇の精霊と契約している者かしら。……あとは、まあ。王族の中にもある程度のことを知っている人間はいると思うわ」
「闇の精霊と契約した者が、今の状況を作り出したと言うこと?」
「……そうとも言えるわね。記憶に干渉されることによって、恐らくフィーラちゃんに対する印象が変えられているわ。裏の世界に添うように、フィーラちゃんの印象を悪いものにしている。……物語の中ではフィーラちゃんは表の世界では国外追放、裏の世界では最後には魔に憑かれてしまうけれど……フィーラちゃんは次の精霊姫だもの。それらのことについてはもう大丈夫だと思っていたの」
「でも、裏の世界になってしまえば……それはわからないと言うこと?」
「というよりも、これから先何が起こるか予想がつかなくなってしまったわ。フィーラちゃんが次の精霊姫だということは今のところかわらないけれど、交代を強硬に推し進めたとして、今のままではかなりの人間からの反発にあうでしょうね」
オリヴィアの言葉に、サーシャは驚きつつも己の内側から闘志が湧き上がるのを感じていた。
「大丈夫よ、伯母様。誰だか知らないけど、そいつの思い通りになんてさせない」
塔から落ちる際、最後までサーシャの手を離さなかったフィーラ。小さい頃にオリヴィアから聞かされた物語の性格とはだいぶ異なっている。
学園に入り、実際のフィーラを見て、すぐにその違いにサーシャは気づいた。そのことをオリヴィアに言ったら、感慨深げに頷き、そう、と安心したように微笑んだ。
あのとき微笑んだオリヴィアの気持ちが、サーシャにはわずかだが理解できた。
以前噂で聞いたフィーラの性格は、オリヴィアから聞かされた物語の性格にそっくりだった。我儘で、癇癪持ちで、自由奔放。だが、今のフィーラは違う。フィーラは変わったのだ。
その努力を認めてほしい。変わったフィーラをちゃんと見てあげてほしい。いつしかサーシャはそう思うようになっていた。
それはきっと、サーシャが変わらなかったフィーラの未来を知っていたから、余計にそう思うのかもしれない。
フィーラが次の精霊姫だと気づいたとき、サーシャは爽快な気分になった。フィーラは自らの運命を変えたのだと、そう思った。
もう大丈夫。最初の頃はまだそう確信するまでには至らなかったけれど、今はその言葉を、声を大にして言える。
フィーラはもう大丈夫。フィーラにあんな未来はやってこない。
「私が来させないわ」
大切な友人を、あんな運命に戻したりしない。サーシャに何ができるのかはわからないけれど、何があってもフィーラの味方でいようと、サーシャはすでに決めている。
サーシャは決意を込めた瞳で、オリヴィアの瞳を見つめた。




