第137話 前夜祭6
――思い出したわ。赤毛で、そばかす。背が高く、やせっぽち。……わたくしはあの時、ニコラスをみて、何故か『にんじん』という言葉を思いうかべた。あのときのわたくしには、まだ前世の記憶がなかったはずなのに……。やっぱり以前のわたくしにも、認識していなかっただけで薄っすらと前世の記憶はあったのかしら?
あの時のニコラスとのことを思い出してしまったら、もう彼のことが憎めなくなってしまった。否、なぜか最初から、ニコラスに対して憎いと思う気持ちは湧いてこなかった。
あの時のフィーラは、決してニコラスに対して好意的な気持ちを持っていたわけではない。むしろ安っぽい同情に似た気持ちでいたはずだ。
あの時のフィーラの不用意な発言がニコラスの心を動かしてしまったのだとしたら、フィーラにも責任があると言えはしまいか。
ニコラスのしたこと、しようとしたことは、決して許されることではない。けれど、彼をこのまま見捨てることをフィーラは良しとはできない。
――きっと、お兄様にはまた怒られてしまうわね。……わたくしは甘い。それは自覚しているわ。けれどわたくしの公爵令嬢という立場、精霊姫候補という立場が、ニコラスが正当な裁きを受けることを許さない。
前回のニコラスが受けた刑は七年という期間だったが、もし相手がフィーラでなければ、もっと短い期間で済んだはずだ。
――いえ、この世界では正当なのかしら? でも被害者によって加害者の裁きが変わるというのなら、やっぱりわたくしは納得できないわ。たとえそれが、この世界の常識なのだとしても……。
そして今度は牢破りと、さらに本人はそうとは捉えてはいないが、フィーラをかどわかしたなどという罪も増えてしまった。一体どれほどの罪になってしまうのか。
フィーラは意を決して、サミュエルに対し声をあげた。
「……サミュエル殿下。わたくしはニコラスの減刑を求めます」
フィーラの言葉に、サミュエルとニコラスが驚いてフィーラを見つめる。
「……なんだと?」
サミュエルがフィーラをねめつける。その声は普段よりも低く、まるで地を這うような響きだ。やはりサミュエルは本気で怒っているらしい。
サミュエルは普段からフィーラには厳しい態度をとるが、本気で怒ったことは実はほとんどなかった。
だが、今は違う。それを肌で感じられる。心臓が早鐘を打ったが、ここで引くわけにはいかない。
「随分とまともになったと思ったが、どうやら勘違いだったようだな。王城に忍び込み、己を攫った輩を庇うとは……。それともまさか、絆されでもしたか?」
「そうではありません。ですが……サミュエル殿下。もし、以前とこの度の被害者がわたくしではなく、たとえばもっと下位のご令嬢だとしたら、ニコラスへの刑罰はどうなりますか? 牢破りは別として……」
サミュエルがフィーラの問いに答える義務はない。だが、サミュエルは不機嫌ながらも、フィーラの問いに答えてくれた。
「……もし下位の……たとえば男爵家の令嬢などなら、ニコラスは五年ほどの牢生活で済んだだろうな」
「では、わたくしはニコラスの刑罰にそれを望みます」
サミュエルの表情がさきほどよりも険しくなる。まっすぐにフィーラを見つめる翠玉の瞳は、燃えているようだ。
「こいつは斬首だ」
「なぜ⁉」
「なぜだと? 精霊姫候補であり、この国屈指の公爵家の令嬢を二度も襲ったのだぞ?」
「今回は……襲われたわけでは……」
「しかもお前は王家の血筋、俺の従妹だ。お前にも王位継承権があることを忘れていない
か? それに、牢破りは重罪だ。こいつは複数の重罪を犯している」
――……忘れていたわ。いえ、でも……確かわたくしの順位は……えっと、何位だったかしら? 五位? 六位? そのくらいだったわよね……。わたくしに王位が回って来ることなんてないわよ。それに、襲ったといっても、今回は特に何をされたでもないのに……。確かに牢破りは重罪だけれど……。
考えた末、フィーラはサミュエルに自分の意向を告げた。
「……では、わたくしは継承権を放棄いたします」
「……ふざけるな」
サミュエルの顔はすでに見たこともないほどに険しくなっている。
「ふざけてなどおりません」
「……たとえお前が継承権を放棄したところで、こいつへの刑罰は変わらん。それとも、精霊姫候補であることまで放棄するか? だとしてもお前は公爵家の人間だ。こいつは一生牢から出られないだろう。二度も同じ間違いを犯すような輩ではな」
サミュエルの言葉は厳しいが事実だ。
フィーラの身分が変わらない限り、ニコラスは一生牢からでられないだろう。精霊姫候補であることを放棄することは、公爵家の力をもってすれば、おそらく可能だ。
もともとフィーラは補欠候補の扱いだ。むしろ、以前のように候補には相応しくないと思われることをすれば、案外簡単に承諾してもらえるかもしれない。
だが、ニコラスのために公爵家の人間であることまで放棄することはフィーラには出来ない。
――ニコラスのために、公爵家の人間であることを放棄する……。それではニコラスの背負うべき罪を、わたくしが肩代わりすることになるわ。そこまでするつもりはない。でも、斬首は……。せめて精霊姫候補の放棄なら……。
「……殿下、わたくしは精霊姫候補であることを……」
「それは駄目だ!」
「ジークフリート様?」
それまで口を挟まずに事の成り行きを見守っていたジークフリートが、はじめて声を出した。
「ジークフリート殿下、貴殿が口を出すことではない」
「いいや、サミュエル殿下。悪いがそうもいかない。……フィーラ嬢が精霊姫候補を外れることは、何があろうとも許されない。たとえそれがフィーラ嬢自身の望みだとしてもだ。……これは私の一存ではない。大聖堂の人間の中にも、私と同じ考えの者がいるということは言っておく」
「……なぜ」
ジークフリートの言葉に、フィーラは愕然とする。一体なぜ、そのようなことになってしまうのか。もともとフィーラは、一度精霊姫候補を外された身だ。なぜ、そこまでフィーラにこだわる必要があるのかがわからない。
「ほう。それをなぜ貴殿が知っているかについては、今回は問わないでおこう。しかし、精霊姫候補の辞退はよほどのことがない限りは認められていたはずだがな」
「え? そうなの?」
口に出してから、フィーラはあわてて口元をふさぐ。
――いけない。サミュエル相手に気安す過ぎだわ。
だが、サミュエルはフィーラの態度を咎める様子も気にした様子もない。
ステラに対してもそうだが、サミュエルは意外とそういった礼儀に対しては寛容なところがあるようだ。むしろロイドの方がよほど礼儀にはうるさいかも知れない。
「候補が辞退を申し出た場合、精霊教会が判断したうえで問題がなければ、その申し出は許可される。だが、その候補が辞退することに問題があるようなら、その申し出は却下される。さて、この場合の問題とは一体何だと思う?」
サミュエルの視線はフィーラに向いている。フィーラに問うているのだろう。
「え……と」
――何かしら? 問題? 献金……なわけないわよね。精霊教会に献金する貴族は多いし、その献金自体に精霊教会の運営に関しての効力はないはず。たとえ、その辞退した精霊姫候補の家がこれまで多額の献金をしていたからといって、大した問題にはならないわ。そもそもうちがしていたのは常識の範囲内での献金だと思うし……。
その問題とは何なのか。フィーラには皆目見当がつかない。フィーラは観念してサミュエルを見上げる。
「……その候補者が辞退することで起る問題。それはその候補者が精霊姫候補として有力だった場合だ。……次代の精霊姫になりうる候補の辞退を許すなど、あり得ないだろう」
サミュエルの言葉に、フィーラは言葉をなくし立ち尽くす。
――待って。今のサミュエルの言い方だと、わたくしが次代の精霊姫の有力候補ということになってしまうわ。
「サミュエル……殿下。その言い方では、わたくしが有力候補という意味になってしまいますわ」
「そう言ったつもりだが?」
「そんな……ありえません。サミュエル殿下もご存じのとおり、わたくしは一旦は候補を外された身。今になってそのようなこと……」
「一旦は外されたとしても、今のお前は間違いなく精霊姫候補だ。ありえなくなどない」
「殿下! 以前のわたくしをご存じでしょう? わたくしが精霊姫候補として有力だなどと、そんな……」
「なぜ、それほどまでに自分が精霊姫となり得るという事実を拒む?」
「……拒んでなど……。殿下、わたくしは精霊姫には相応しくありません。それは殿下もよくご存じでしょう?」
「いいや? 俺はもとから、お前が精霊姫候補を外されたことに納得はしていなかった」
「……え?」
――そんな……。サミュエルがそんなことを言うなんて……。
「それは……わたくしに流れる王家の血が濃いから……」
まさか、王家に近い血を持つ者を候補から外すなど、不敬だとでも言うつもりだろうか。
「そうではない。……だが俺は、お前が精霊姫に成り得る可能性は、十分にあると思っている」
「……」
サミュエルの言葉に、フィーラは口を開けたまま、固まってしまった。サミュエルの口からそのような言葉が出てくるとは思わなかったのだ。
――あれだけ、わたくしの被害を被っておきながら、どうしてそんなことが言えるのかしら? もしかして、サミュエルって、ものすごく器の大きい人間なの?
しかしよくよく考えてみれば、被害とはいっても、フィーラがサミュエル自身に何かをしたわけではない。もしそんなことをしていたら、さすがに公爵家の令嬢であるフィーラとてただでは済まされないだろう。
それに、フィーラの家は過去に二人の精霊姫を出している家系だ。精霊姫が血筋によって選ばれるということはないだろうが、まったく関係ないとも言い切れない。選定の基準が明らかにされてはいないため、極端に言えばどのような可能性もあり得るのだ。
驚きのあまり言葉をなくし立ち尽くすフィーラに、ジークフリートが声をかける。
「……フィーラ嬢。君が精霊姫候補に選ばれたことには、きっと意味がある。君の優しさは尊いが、君が精霊姫候補だという事実はすでに君一人の問題ではないんだ。軽はずみに辞退などという言葉を出さないでくれ」
「……ごめんなさい、ジークフリート様」
フィーラとしては軽はずみに言ったつもりはないし、やはり自分が精霊姫候補から外れたとしても何の問題もないとは思っているが、いつにないジークフリートの厳しい言葉と真剣な表情を見てこれ以上否定の言葉を重ねるのは得策ではないと判断した。
「……フィーラ。ニコラスの件に関しては、お前はこれ以上口を出すな」
「でもっ……!」
「先ほどは斬首と言ったが……お前や俺が何を言ったところで、最終的に処分を決めるのは陛下だ。陛下とも先ほどのやり取りをするつもりか?」
サミュエルの言葉に、フィーラは言いかけた言葉を飲み込んだ。ニコラスへの処罰は、この世界ではおそらく妥当なものだ。フィーラが反対するのは、前世の記憶を持っているから、そしてサミュエルの言った通り、少しだけ、ニコラスに絆されてしまったからなのかも知れない。
――わたくしが何かを言ったところで、陛下の決定を覆すことは出来ないわ。でも、判断を下す前に、わたくしの考えを述べるだけなら、許されないかしら。それすらも、不敬になるかも知れないけれど……。
自分の不甲斐なさに、フィーラは唇を噛み俯いた。フィーラの行いは、偽善以外の何物でもない。だが、たとえそれが偽善だとしても、何もしないよりはいくらかましだと思っていた。発言することで、何かが変わることだって、あるかも知れないのだ。
「……最終的に判断を下すのは陛下だ。だが、さきほどのやり取りはすべて陛下の耳に入る。お前の言葉もな」
サミュエルの言葉に、フィーラが顔をあげる。
「それに……ここまで周到に脱獄を示唆した人物の確保がなされていない現状、ニコラスは貴重な情報源だ。見せしめと実益、陛下はどちらをとるのだろうな」
確かに、脱獄を助けた犯人の情報を握っているニコラスを国がそう簡単に葬るとは思えない。きっと陛下は見せしめよりも、実益をとるのではないかとフィーラは思っている。
もし、どうしても王家の権威を保持するため見せしめをする必要があるのなら、死亡したと、世間にはそう発表すればいいだけなのだ。
さすがに、死体を民衆に晒すような過激な真似はこの世界でも行っていない。情報操作で、十分騙せるはずだ。
ただし、一度死んだとされた以上、今後のニコラスの人生は死よりも過酷なものになる可能性はある。それを罰としてニコラスに課すことと斬首されるのとでは、どちらが良いかはフィーラには判断がつかない。
だが、生きていればどうにかなることもある。
サミュエルがどういうつもりでそれをフィーラに教えてくれたのか、本当のところはわからない。呆れたのか、諦めたのか、何か思惑があるのか。それでもフィーラはサミュエルのその言葉を、フィーラに対する優しさだと受け取った。
だから、フィーラは感謝の気持ちをそのまま笑顔で表現した。
「ありがとう、サミュエル」
めずらしくも、サミュエルがわずかに目を瞠り、息を飲んだ。きっと、フィーラがサミュエルに礼を言ったことに驚いたのかもしれない。
――ああ、また驚かせちゃったわね。でも。サミュエルに対しては、わたくしも意地になっていた部分がなかったとは言えないから……。
サミュエルに対しては、もしかしたら前世を思い出してからはじめて心からの笑顔を見せたかもしれない。いつも以前の記憶が邪魔をして、サミュエルはフィーラのことを快く思っていないのではないかと思ってしまうのだ。
「さあ、フィー。殿下の言う通り、これ以上はもう君が口を出すことではない。今日はもう疲れたろう? 無理に前夜祭に戻らなくてもいい。クリスに馬車の用意をさせてあるから、屋敷へ戻りなさい」
いつの間にかフィーラの後ろに立っていたゲオルグが、フィーラの肩に手を添える。
「お父様。……いいえ。精霊姫候補としての役割は夜が終わるまでですわ。わたくし、前夜祭に戻ります」
「……そうか。では無理をしないで、気を付けるんだよ」
「ええ。わかりましたわ」
ゲオルグに挨拶をしたあと、フィーラはニコラスに近づく。
「ニコラス……。あなたがどんな罰を受けるかは、わからない。わたくしも、そんなあなたに何を言えばいいのかわからないわ」
「……お前が気にすることじゃない。お前は何も心配しなくていい」
死して償う。もしかしたらサミュエルの言った通りになるかもしれない。だが、たとえそうはならなかったとしても、フィーラが今後またニコラスに会えるかは別の問題だ。
「ニコラス。もし、もしも。もう一度会えたなら……」
フィーラはさらにニコラスに近づき、その耳の近くでそっと囁く。
「……あの言葉の意味を教えてあげる」
ニコラスが目を見開き、フィーラを見る。フィーラは泣きそうな気持を押さえこみ、精いっぱいの笑顔をニコラスに返した。
今度、本当にまたニコラスに会えるかはわからない。ニコラスは死ぬよりもつらい人生を歩むことになるかもしれない。
それでもフィーラは、ニコラスには最後まで諦めて欲しくなかった。決して、自暴自棄になどならないように、まさに目の前に人参をぶら下げたのだ。
だが、話の内容を皆に聞かれても困るため、フィーラはニコラスに耳打ちをした。近衛騎士に止められるかも知れないと思ったが、どうも彼らは見逃してくれたらしい。
「ニコラスを連れていけ」
サミュエルの言葉を受け、近衛兵がニコラスを部屋から連れ出していく。
「さあ、フィーももう行きなさい。テッド、悪いが今夜はフィーの護衛に戻ってくれないかい?」
「お任せください、ゲオルグ様」
テッドが護衛団にいたころのように、胸の前に左手をかざしゲオルグに忠誠を表す。
せっかくの前夜祭、フィーラに張り付かなくてはならないテッドには申し訳ないと思ったが、テッドの護衛を断ってしまえば結局皆に心配をかけてしまうことになるだろう。
本当はもう前夜祭には出ずに屋敷に戻って大人しくしているのが正解なのかもしれないが、やはり与えられた役目は最後まで全うしたかった。
それにきっと、屋敷に戻って大人しくしていてもニコラスのことを考えてしまうだろう。
「テッド。申し訳ないけれど、お願いね」
「はい。お任せください。……ジルベルト、お前はどうする?」
テッドの言葉に、ジルベルトへの視線が集中する。
さきほどニコラスの口からは、ジルベルトの兄の名前が出た。ジルベルトとしては、とても前夜祭に出ている心境ではないだろう。
「ジルベルト、俺についてこい。今からヴァルターも呼ぶ」
「……はい」
サミュエルの言葉に、ジルベルトは大人しく頷いた。
「ジルベルト……」
「大丈夫だ、フィーラ。兄がどう絡んでいようと、俺はもう大丈夫」
ジルベルトがフィーラを見据え力強く確約する。
「……ええ、そうね。あなたならきっと大丈夫」
そんなジルベルトが頼もしく、フィーラはジルベルトに向かって微笑んだ。
「わたくしに出来ることなら何でもするわ。何でも言って」
「ああ……ありがとう」
助けになりたいというフィーラの言葉に、ジルベルトが微笑む。
だがフィーラを映すジルベルトの瞳は、目の前のフィーラを通り越して、どこか遠くを見ているかのようだった。




