第135話 前夜祭4
王宮の一室についてすぐに、フィーラは心配して駆け寄ってきたミミアに、泣きつかれてしまった。
心配をかけたことを謝罪するフィーラに、ミミアは頭をぶんぶんと振って「無事で良かったです」と言ってくれた。
この場には、宰相補佐であるゲオルグ、前夜祭に参加していたロイド、これまた何故か参加していたジークフリート、王の代理としてサミュエルがいる。
――お父様とお兄様が揃ってしまったわ……。大丈夫かしらニコラス……。
フィーラは大人しく後ろ手に縛られたニコラスを横目で見る。ニコラスは王宮に入るとすぐにジルベルトから近衛騎士に身柄を渡され、現在は床に膝をついて座らされていた。
さきほどから、ゲオルグとロイドの機嫌は最悪だ。加えてなぜかサミュエルもいつも以上に険しい表情を浮かべ椅子に座っている。
「……あ、あの。お兄様、ジークフリート様とご一緒だったのですね……」
「……そうだね。ジークと一緒に妹の晴れ姿を見に来てみたら一向にフィーは見つからないし、挙句の果てに、ちょっと寄った父の書斎で妹が不届者にかどわかされたという報告を受けたわけだが……」
「……申し訳ありません」
「フィーが謝ることじゃない」
「はい……」
――でも、大人しくニコラスについて行ってしまったわたくしにも責任はあると思うのよね……。
「……本当に、フィーが謝ることじゃない。僕は自分の浅はかさに怒っているんだ」
「お兄様……?」
心なし、ロイドの様子はいつもより元気がないように思える。ロイドのすぐそばにいるゲオルグにしても同じような様子だ。この二人がここまで意気消沈した様子などは本当に珍しい。
ニコラスが牢から逃げ出していたという事実は、父に会ってすぐに知らされた。その際、申し訳なかったと謝られたのだが、父も兄もきっとそのことを気にしているのだろう。
「さて、本題に入ろうか。ニコラス・ソーン。お前を手引きしたのは一体何者だ? 今までどこにいた?」
サミュエルの言葉に、その場にいた全員がニコラスに注目する。
――ニコラスを手引きした人間がいるということ? ……でもそうよね。王宮の牢はとても監視の目が厳しいわ。ニコラス一人で抜け出すなんてこと実質不可能よ。
「お前がいなくなる日の夜まで、お前が牢にいることは複数の人間によって確認されている。お前一人で牢を出ることは不可能に近い。なぜなら牢にも結界が張ってあるからな」
サミュエルが繋がれたニコラスを見つめ、目を細める。まるで獲物を定めた猛獣のような鋭さだ。
「だが、最近は結界が結界の役割を果たさないことが多くて困っている。まったく糸口がつかめなくて皆関係者はやきもきしていたところだった。お前をこうして捕らえられたのは僥倖だな。お前を牢から出したのは誰だ、ニコラス・ソーン。返答次第ではお前の一族は皆お前と同じように牢へと入ることになるぞ」
「サミュエル!」
脅しともとれるサミュエルの言葉に、フィーラは非難を込めてサミュエルの名を呼んだ。
「黙れ、フィーラ。お前が口を出すことではない」
サミュエルの言葉と、投げかけられた一瞥を受け、フィーラは押し黙る。サミュエルは怒っている。かつてないほどに。
眇められた冷たい翠玉の瞳が、フィーラの意見などまったく聞き入れる気がないこと如実に表していた。
――分かっているわ……。サミュエルの言っていることはただの脅しじゃない。実際に、ありえることよ。でも……。
「サミュ……」
「俺を牢から出したのはっ‼」
フィーラにその先を言わせないとでも言うように、ニコラスが声を荒げた。フィーラは驚いてニコラスを見つめるが、ニコラスはフィーラを一瞥もしない。
「……俺を牢から出したのは、王宮に仕える文官だ」
「文官? お前はその男が文官だとなぜわかった。まさか文官の服を着ていたからとでも言うつもりではないだろうな。その男が本当に文官だったとしたら、正体を知られたお前をいつまでも生かしておくとは思えない。しかも、わざわざお前を牢から逃がして自由にさせておくことに、一体何の益がある」
「……っ!」
ニコラスが言葉に詰まり、歯を食いしばり俯く。だが、それは一瞬で、ニコラスはすぐに顔をあげ、サミュエルの目を見つめて言った。
「……その男を以前にも王宮で見たことがある」
「……ほう」
サミュエルが顎をあげ、ニコラスに話の続きを促す。
「以前、俺は従姉のエスコート役として王宮の舞踏会に出たことがある。そのとき、あの文官を王宮内で見た」
「よく覚えていたな」
「従姉がその男を知っていたんだ。学園の先輩で、憧れていたと……」
「名は覚えているか?」
「ああ。……男の名前は、アーノルド。アーノルド・コアだ」
――コア……? コアって、それはジルベルトの……。
「嘘を言うな‼」
ジルベルトがニコラスに向かって叫ぶ。今にもニコラスに掴みかからん勢いのジルベルトを、テッドが後ろから羽交い絞めにして止めていた。
「……嘘じゃない。俺を牢から出したのは、確かにあんたの兄だ。気づいたのは後になってからだったけどな」
ニコラスがジルベルトを見つめる。その表情は真剣そのもので、ジルベルトとその兄を陥れようなどといった思惑は見て取れなかった。
「なぜアーノルドがお前を牢から出した?」
「俺が知るわけがない……」
「何も聞かなかったのか? あるいはアーノルドは何も言わなかったのか?」
「聞いたさ。何で俺を助けてくれるのか。だが、あいつはその問いには答えなかったよ。あいつはただ、ここから出してやるからあとは自由にしろと俺に言っただけだ」
「自由にか……。それでお前はまたフィーラをかどわかしに王宮まで戻ってきたというわけか? 馬鹿にもほどがある。せっかく牢から出られたのなら国の外へでも逃げれば良かったではないか」
サミュエルは先ほどから、瞬きすらしていないのではないかと言うほどに、ニコラスの瞳をじっと見つめたままだ。
「お前は牢から出して貰っただけではない。王宮へ入る手引きまでして貰っているだろう。お前が着ている給仕服は脱獄者がすぐに手に入れられる物ではない。王宮への侵入を防ぐために、王宮で働くすべての使用人の服は、厳重に管理されている。とてもアーノルド一人で出来ることではない。お前を逃がした者どもは、それだけの用意が出来る者たちだと言うことだ」
――ジルベルトのお兄様一人ではない? 仲間……あるいは組織ということかしら。
「とはいえ、そう簡単だったわけでもあるまい。だというのに、苦労して逃がしたお前のすることが、女一人を奪うこととは」
「……」
それは確かにサミュエルの言う通りだ。ニコラスがフィーラのことを好いてくれているのはわかったが、自らの人生をかけてまですることだろうか。あるいは、そこまでフィーラのことを想ってくれていたということなのだろうか。
――……そうなのかしら? ニコラスは本当にそこまでわたくしのことを? ニコラスは以前のわたくしを知っていたようだけれど、もしかしたら深い関係だったなんてことはないわよね? さすがのわたくしも、そういった関係の人を忘れるわけはないと思いたいけれど……。
深い関係とは言っても、フィーラも一応は公爵令嬢だ。前世の感覚でいうところの深い関係ではもちろんないだろう。しかし、恋人未満くらいの関係であった可能性はある。そうでなければ、ニコラスがここまでフィーラにこだわる理由がわからない。
だがそのわりには、フィーラの記憶の中に、ニコラスとの思い出はない。だが、フィーラの中で、以前の記憶はとても曖昧だ。覚えてはいるけれど、靄がかかったかのように、以前体験したことのすべてを覚えているわけではない。
――実際の記憶も時が経つにつれて薄れていくものだけれど、わたくしの場合、前世の記憶を思い出しているものね。中途半端に記憶の混濁が起こっているのかもしれないわ。結局、以前のわたくしのことも前世のわたくしのことも、どちらも中途半端にしか覚えていないのよね……。
「何か言うことはないのか?」
ニコラスは黙って下を向いている。サミュエルの言葉に反論も言い訳もする気はないらしい。本当に、サミュエルの言う通り、フィーラをかどわかそうとしただけなのか、あるいはほかに目的があったのか。
――何かほかに目的があったと言われた方が、よほど納得ができるのだけれど……。
理解できないと言った表情でニコラスを見つめるフィーラを見て、ミミアが怯えを含んだ声でサミュエルに発言の許しを願い出た。
「あの……殿下。……発言してもよろしいでしょうか?」
「何だ?」
どこか悲しそうな、懇願するような瞳でミミアがフィーラを見つめる。
「フィーラお嬢様……ニコラス様は、学園に入ってからお嬢様のことを好きになったわけではないのです」
「やめろ! ミミア」
ミミアの言葉に、先ほどまで大人しくしていたニコラスが、急に暴れ出した。
「お前に止める資格はない」
叫ぶニコラスを、サミュエルが容赦なく切り捨てる。
「ごめんないさい、ニコラス様。ですが、本当に言わなくて良いのですか? このまま終わっていいのですか? ニコラス様は横暴で、いつも適当で、どうしようもない方でしたけれど、きっとフィーラお嬢様に対する想いだけは、真剣なものだったのでしょう?」
ミミアの言葉に、ニコラスが唇を噛みしめる。どうやらミミアの言っていることは本当らしい。
当のフィーラはそういわれてもやはり実感はない。今まで男性から好かれたことなどなかったため、正直大変困惑していた。
そもそも、ニコラスの口から決定的な言葉はいまだ聞いていないのだ。やはりフィーラやミミアの勘違いではないかとすら思ったのだが――。
「……そうだ」
小さな声だったが、ニコラスは確かに肯定の言葉を口にした。
「……お前は、覚えていないだろうが、俺たちは以前会っている」
ニコラスの言うように、フィーラはまるでそのときのことを覚えていない。その気持ちが顔にでていたのだろう、ニコラスは自虐的に笑った。
「……二年ほど前の事か。ケネック侯爵家のパーティで俺ははじめてお前に会ったんだ」
ケネック侯爵家のパーティ。ニコラスの言葉は、フィーラにはそんなこともあったかな、くらいの認識だ。だが、ゲオルグははっきりと覚えていた。
「……ああ、あれか。ケネック家の長男の婚約者のお披露目が目的だったな。ケネック家は確か……ソーン家の親戚か」
「ああ。そこで俺とお前ははじめて出会った。覚えていないか?」
フィーラの反応を伺うように、ニコラスが尋ねる。だが、フィーラの反応が芳しくないことを悟り、ニコラスはさら言葉を足した。
「“トガ蛇の鱗のような瞳”」
「あっ!」
「お前かっ!」
フィーラが驚き、ロイドが怒りの声をあげる。
確かに、瞳の色を言った相手はニコラスだったかもしれない。この赤毛にはなんとなくだが見覚えがある。とはいえ、その言葉を言われた相手がニコラスであると思い出しただけだ。それもなんとなく。その時にニコラスとの間に何があったのかまではやはり覚えていない。
しかし、ニコラスの言葉は相手を貶すものだ。まさかそのときにはすでにフィーラを好きだったとでも言うのだろうか。だとしたらなかなかに特異な思考回路をしている。
「……違うからな。好きになったのはその言葉を言ってしまったあとだ」
フィーラの考えていることが伝わったのか、ニコラスは否定の言葉を口にした。
「そのあと?」
「お前は、俺に言ったんだ。あなたは素敵な男の子よ、と」
「えっ!」
「フィー⁉」
驚くフィーラを、これまた驚くロイドが見つめる。ニコラスの言葉が本当だとしたら、それはフィーラから口説いたことにならないだろうか。
――ええっ! もしかしてわたくし、ニコラスのことがタイプだったとか?……ええ? そんなことないと思うのだけど……。今もぜんぜん何も感じないし。
確かに、ニコラスは抜群の二枚目というわけではないが、思っていたよりも悪い顔をしていない。
悪い顔というのは、性格の悪さが出ている顔のことだ。薬を盛って既成事実を作ろうなどという輩なのだから、もっとわかりやすい悪人顔をしていると思っていただけに、少々拍子抜けしたのは事実だ。
だが、ニコラスを見て胸がざわめくだとか、気分が高揚するなどといった現象は、フィーラには起きていない。
「……まあ、そうだろうな。お前はきっと、単なる気まぐれで言ったんだろう。だけど、俺は……」
ニコラスはとつとつと、フィーラと出会った日のことを語りだした。




