第134話 前夜祭3
ミミアに指示を出してから、テッドはジルベルトの後を追った。テッドは足が速い。すぐに先を走っていたジルベルトに追いついた。
「ジルベルト! ニコラスって、あのニコラスだよな⁉」
足を止めることなく、テッドがジルベルトに問いただす。
新しくフィーラの侍女となったミミア。ミミアが寄り親であるソーン家の息子に脅されてフィーラに睡眠薬を盛ったことは以前から聞いていた。最初は憤慨したが、よくよく事情を聞けばミミアに対しては同情できるところもあった。
何よりすでにフィーラが許し傍に置いている人間だ。そのことを思えば、テッドがどうこう言うこともできなかった。
ミミアに指示をした人間の名前を、テッドは教えて貰えなかった。事を荒立てたくないという事情もあったのかもしれないが、そこでもやはりフィーラが噂を広めることを拒んだのだと言う。
指示した者の名前を広めれば、必然的にミミアやミミアの家に迷惑がかかるからと。あまりに人が良すぎるとは思ったが、そこがフィーラの良いところでもある。テッドはフィーラの想いを汲み、それ以上の詮索はしなかった。
だが噂というものは、いつのまにやらどこからか漏れ出るものだ。テッド自身は詮索をしなかったが、結局、元の護衛仲間からその話を聞くことになったのだ。
「ああ。フィーラに懸想して、既成事実をつくろうとしたやつだ」
「は⁉ な……既成事実⁉ うおっ!」
薬を盛ったことは聞いていたが、その動機までは聞いていなかった。既成事実という思いがけない言葉に驚き、横を走るジルベルトに顔を向けてしまったテッドが張り出ていた木の根につまずく。しかし転ぶ前に体勢を整え、そのまままたジルベルトの横を走りだした。
「牢に入ったはずだったが……」
「なんでここにいるんだ! そんな奴が!」
「俺が知るわけないだろう」
牢にいるはずのニコラスがここにいるということは、通常なら考えられない。しかしミミアが寄り親の子息であるニコラスを見間違うこともないはずだ。
そしてニコラスが逃げたという情報が公開されていないということは、ニコラスが逃げたことは内密にされているのだろう。
「だが王家が管理する牢は厳しい監視がついている。ニコラスが単独で逃げられるとは思えない」
「……誰かが手引きしたってことか?」
「かもしれない。だがニコラスを牢から出すことに何の旨味があるのかがわからないな」
「……まさか、誰かがまたお嬢様を狙ったとか?」
「……フィーラは名門公爵家の令嬢で精霊姫候補だ。あり得なくはないな」
男は大きな木の根元、庭園でも隔離された場所まできて止まった。
随分と走ったように思えたが、実際にはそんな距離ではなかったようだ。この庭園には何度も来たことがある。この庭園の広さを、フィーラはある程度把握していた。
――それに、ちゃんとわたくしの速度に合わせて走ってくれたわ。
腕をずっと掴まれていたが、それにも痛みを感じることはなかった。
「フィーラ」
男が振り返り、フィーラの名を呼ぶ。
「とりあえず、あなたがどなたか聞いてもよろしいかしら?」
「……ニコラスだ。ニコラス・ソーン。……ミミアを使って、お前に薬を飲ませた男だよ」
「ニコラス……あなたが?」
想像とは異なるニコラスの姿に、フィーラは驚く。フィーラの目には、ニコラスが女性に薬を飲ませて乱暴を働こうとするような悪者には見えなかった。
フィーラは事件後も、ニコラスの顔を知る機会がなかった。
フィーラには当てはまらないが、何らかの被害にあった女性は犯人の顔を見ることすら拒否する者は多い。ニコラスはそのまま捕らえられ牢へと入れられたため、フィーラにしても顔を知る必要がなかったのだ。
いつか顔を知る機会が訪れるとしたら、ニコラスが牢から出るときだっただろう。それでも、たとえ牢から出たとしても、一度要注意人物として公爵家に睨まれたニコラスがフィーラに近づくようなことにはならなかったはずなのだ。
――でも、今ここにいるということは、すでに牢から出ているのよね? 確か七年は牢に入ると聞いたけれど……。でもお父様もお兄様も何も言っていなかったわ。……もしかして逃げて来た、とか?
国が管理する牢から逃げ出すなど、にわかには信じられないが、実際に目の前にいる以上はその信じられないことが起きたということだ。
――あるいは減刑された? それでもお父様が言うわよね?
「フィーラ。お前は精霊姫になれなかったらどうする?」
考え事をしていたフィーラに、ニコラスが唐突に切り出した。
「え? 精霊姫に?」
なぜニコラスがそんなことを聞くのかフィーラには見当もつかない。
「サミュエル殿下の婚約者候補ではなくなったお前が精霊姫になれなかった場合、お前はどうなる?」
本来ならフィーラに応える義務などないが、ここで答えなければきっと話が進まないだろう。
仕方なしに、フィーラは精霊姫になれなかった場合の己の状況をニコラスへと答える。幸い、日ごろから考えていたことだったので、時間をとることなく答えることが出来た。
「そうですわね……。精霊姫になれなかったとしたら、父の薦めるお相手の元に嫁ぐか、一生独身でいるのも良いかと思っておりますが……」
「独身? 公爵令嬢のお前がか?」
「これからの時代はそういうのもありかも知れませんわよ?」
言ってはみたものの、この世界で一生を独身で過ごす女性は多くはない。ニコラスの言うように、いくら父と兄が許しても、公爵令嬢であるフィーラが独身を通すことはおそらく難しいだろう。
「そうか……」
ニコラスはそのまま黙り込んでしまった。一体何を考えているのか、何がしたいのかまったくわからない。
「……どうしてそんなことを聞くのですか?」
「……もし、俺があんな事件を起こさなければ……。あんたは伯爵家に嫁いで来てくれたか?」
「伯爵家……それはあなたの家ということ?」
「……そうだ」
ニコラスの瞳は真剣だ。からかいや冗談で聞いているのではない。真剣に、その答えを求めている。
「……そうですわね。わたくしのような瑕疵とは言わないまでも、悪い噂のある令嬢を迎えてくださるのなら、子爵家だろうと男爵家だろうと、わたくしは嫁いだかも知れませんわ」
一般的に考えるならば、公爵家の令嬢が子爵家や男爵家に嫁ぐのはあまり歓迎されない。
それは嫁ぐ側だけでなく嫁がれる側にも言えることだ。高位の貴族と低位の貴族とでは生活様式や考え方に差異がある。男爵家に至っては、男爵家と公爵家の取り合わせでは、男爵家と平民との間のほうが上手くいく場合もあるくらいだ。
しかし、フィーラの場合はまた少し事情が異なる。前世の記憶を思い出したフィーラは、この世界に無理やり当てはめるならば、恐らく男爵家や子爵家辺りに相当する感覚が強くなっている。前世での一般的な平民とこの世界の平民は少々異なるのだ。
男爵家や子爵家などは使用人の数もそれほど多くない。しかし、それでも家事や育児などは使用人に任せることが一般的だ。そのあたりはフィーラの感覚は平民よりだが、生活の水準で言うのならば、前世のそれはこの世界での男爵や子爵に相当するのではないだろうかとフィーラは思っていた。
もちろん技術的なことでは高位貴族や、はては王族ですら敵わない水準の生活をしていたが、やはり高位の貴族の生活は、前世の生活から見ても、正に世界が違う生活と言えた。
――こんな広大な敷地とお屋敷を持つなんて、前世の資産家でも難しいのではないかしら? 使用人もかなりの数だし……。でも、やっぱり独り身で過ごすのが一番気が楽だとは思うのだけれどね。
この世界での結婚は、身分関係なく前世に比べて圧倒的に女性に不利な要素が多い。貴族であれば使用人がいるため、家事などはしなくても良くなるが、ある意味自由がなくなってしまう。平民であれば前世とは比較にならないほど、肉体的な労働をしいられることになるだろう。
――わたくしって記憶が戻る以前も今も基本怠惰だし、社交界に出るのも億劫だわ。左団扇の生活って、実際するとなったら貴族でも意外と難しいと思うのよね。貴族には一応義務があるもの。……どこか田舎の領地で気の合う数人の使用人とゆったりと暮らしたいわ。アンとかアルマとかナラとか……。あ、ミミアもいたわね。
「……そう。そうか。……俺は自分で有り得たかも知れない未来を閉ざしたんだな」
「あの……」
あまりにも悲し気なニコラスの様子に、フィーラはいたたまれなくなった。しかし何と声をかければ良いのかもわからない。
フィーラがしばらくの間逡巡していると、すぐ近くで己を呼ぶ声が聞こえた。
「フィーラ!」
突然フィーラの目の前に騎士科の制服を着たジルベルトが現われた。
「ジルベルト? どうして……」
「お嬢様!」
ジルベルトのすぐ後ろから、テッドの姿も現れる。
「テッドまで……どうしてここが分かったの?」
「ミミア・カダットが教えてくれた。君がニコラスに連れられていったと」
「ミミア⁉ ここに来ているの?」
――妙に遠慮をしていたから心配していたけれど……。良かったわ。来られたのね。
アンたちのことだから、どうにか都合をつけてくれると思っていたが、どうやら無事来られたようだ。
「ニコラス・ソーン。なぜお前がここにいる」
ジルベルトはフィーラの前に立ち、ニコラスからフィーラの姿を隠す。
「……ジルベルト・コア。お前はいつもフィーラの騎士気取りだな」
「お前はいつもフィーラを力尽くで自分の思い通りにしようとしているな」
ジルベルトの言葉に、ニコラスが眦を吊り上げる。先ほどフィーラと話していたときのニコラスとは別人のようだ。
「お前に、俺の何がわかる……。あの時もお前たちが邪魔さえしなければ、フィーラは俺を選んでくれたはずなのに……」
「何言ってるんだこいつ……」
ニコラスの言動に、テッドが眉をひそめる。フィーラもジルベルトも同様だ。薬を飲ませて襲おうとしていた人間の言うことではない。卑怯な手で己を手に入れようとした相手を選ぶ人間がどこにいるというのだ。
「俺は……俺はただ……フィーラを……」
わずかに身を震わすニコラスから、うっすらと黒い靄が出現した。
――ちょっとまって……。これって、また……?
ニコラスの身体から湧き上がる黒い靄に、フィーラが目をみはる。この靄が出る時は、魔が出現する時だ。フィーラはジルベルトとテッドの表情を伺うが、二人ともあの靄に気づいている様子はない。相変わらずこの段階の靄ではフィーラ以外の人間には見えていないようだ。
完全に魔に憑りつかれた後でなら、誰の目にもあの黒い靄は見える。しかしその兆候となるとそうではないらしい。
フィーラに精霊士としての素質はない。ないはずだ。しかし人についた魔の兆候を、どうやらフィーラは見ることができるらしいのだ。
これまでに何度も見て来たのだ。見間違えるはずがない。
「ニコラス!」
フィーラの声にニコラスが反応すると、徐々に量を増していた黒い靄が、一瞬で小さくなる。
「ニコラス……ダメ」
「フィーラ?」
「お嬢様?」
突然のフィーラの言動を訝しみ、ジルベルトとテッドがフィーラを見つめる。
「フィーラ……俺……俺は」
ニコラスが縋る様にフィーラを見つめる。
「ニコラス……負けては駄目よ」
ニコラスの表情がぐにゃりとゆがむ。泣くのを我慢しているのか、唇を噛み、耐えているようだ。
――まだ、靄が完全には無くなってはいないわ……。どうすればいいの? ニコラスもあの人たちと同じようになってしまうの?
模擬戦のときのあの生徒たちのように、ニコラスも魔に憑かれ、魔とともに消えてしまうのだろうか。
フィーラは目を瞑り、考える。そして目を開けると、まっすぐにニコラスを見つめる。
「フィーラ?」
ジルベルトもテッドもフィーラの行動を予想できなかった。だから、フィーラは何の苦も無く、ニコラスに手を伸ばすことが出来たのだ。
ニコラスに手を伸ばしたフィーラは、そのままニコラスを抱きしめた。
「なっ⁉ お嬢様っ……」
テッドは言葉を発したまま、硬直している。ジルベルトも同様に、フィーラとニコラスを見つめたまま何もできずに固まっていた。
「……ニコラス。魔になど負けては駄目よ」
フィーラの口から出た魔という言葉を聞き、ジルベルトとテッドの硬直が解ける。ジルベルトにもテッドにも黒い靄は見えていない。だが、フィーラにはそれが見えているのだと言うことに、二人ははじめて思い至った。
「大丈夫……。ちゃんと自分と向き合えば、きっと魔に負けることはないわ」
これまでの魔に憑かれた人間を見てきて思ったのは、抑圧された感情が自分の中で限界に達した時、そこを魔に狙われるのかもしれないということだ。
ニコラスの抑圧された感情は、おそらくフィーラに関係している。
いくらフィーラが恋愛ごとに疎いと言っても、ここまでくれば、ニコラスが自分を好いてくれているのかも知れないぐらいの予想はつく。
――まあ、わたくしが自意識過剰だったというオチも十分考えられるけれど……。
「ニコラス……わたくしがあなたの元へ嫁ぐことはもうあり得ないわ。でも……あなたの気持ちは、とても嬉しかった」
ニコラスの身体が、びくりと震えた。
――本当に、以前のわたくしのことも今のわたくしのことも好いてくれていたというのなら……。事件さえ起こさなければ、わたくしがニコラスに嫁ぐ未来も有り得たかも知れないわ。
父はきっと、家柄よりも相手がどれだけフィーラを大切にしてくれるかで嫁ぎ先を選んだだろう。もちろん、政略的な意味合いがまったくないということはない。だが、伯爵家ならば、公爵家のフィーラが嫁ぐとしてもぎりぎり許容範囲だろう。
ニコラスがフィーラに薬を盛ったのは、早計だった。フィーラは確かに名のある公爵家の生まれで、精霊姫候補ではある。だが、以前の名誉をまだ挽回してはいない。薬を盛る前であれば、ニコラスからの婚約の打診があったとして、父は決して門前払いにはしなかったはずだ。
フィーラの言葉を黙って聞いていたニコラスは、フィーラを抱きしめようと両手を伸ばし、そしてそのまま力なく両手を下げた。
「フィーラ。ニコラスから離れてくれ」
フィーラがニコラスから離れると、ジルベルトはニコラスの腕を後ろ手に捻りあげた。ニコラスは一瞬くぐもった声をあげたが、抵抗もせず、そのまま大人しくジルベルトに捕まった。
「……ニコラス・ソーン。このまま王宮まで来てもらうぞ」




