第132話 前夜祭1
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精霊祭――。
それは人々が精霊へと日頃の感謝を捧げる祭典。
祭典は前夜祭、本祭、後夜祭とであわせて三日間行われる。この三日間は日常と非日常が交わり、精霊と人間の距離が最も近くなる期間と言われている。特に本祭の夜は、精霊の力が一番強まる夜でもあった。
精霊祭の本祭は精霊教会を主として大聖堂の敷地内で行われるため、大聖堂のあるティアベルトには各国から大勢の人間が訪れる。そのためこの時期のティアベルトは大変な賑わいを見せることになるのだ。
とはいえ、すべての人間がティアベルトに訪れることができるわけではないので、各国でもそれぞれの精霊教会の支部が主体となって精霊祭を執り行っている。
本番の精霊祭は一日だけだが、前夜祭はそれぞれの王城で、後夜祭は本祭に引き続き、大聖堂にて行われる。
そして今日は前夜祭。
次代の精霊姫の選定が行われている今年。精霊姫候補たちはそれぞれの育まれた地で前夜祭を祝い、本祭、後夜祭になると大聖堂へと集ってくる。後夜祭は疲れを労わる目的で行われるが、前夜祭、本祭には精霊姫候補には特別な役割が課せられる。
――ちょっと緊張するわよね。大したことをするわけじゃないんだけど……。それにしても、すごい人ね。
薄いミントグリーンの幾重にも布を重ねたドレスに身を包み、フィーラは王城の庭園を歩いていた。至る所に吊るされたランタンが、周囲をオレンジ色の暖かな光で包み込んでいる。
フィーラがきょろきょろと周囲を眺めながら歩いていると、人々の喧噪の中、耳に馴染んだ声が聞こえた。
「フィー!」
「お父様!」
正装をしたゲオルグが人波をかき分け、こちらに向かって歩いて来た。ゲオルグはこの国の次期宰相として、現在は宰相の補佐についている。今日も年を召した宰相に変わり、前夜祭の様々なことを取り仕切っているはずだ。
宰相がそろそろ引退したいとぼやいていると以前言っていたため、父が宰相になる日もそう遠くはないのかもしれない。
「ああ、フィー。なんて美しいんだ。きっと精霊が人間の姿を取ったら、君のように美しい姿をしているのだろうね」
フィーラの姿を見たゲオルグがいつものように大げさに褒めたたえる。
「まあ、お父様。相変わらず褒めるのがお上手ね」
――……まあ、嬉しいのだけど……ちょっと他人に聞かれたら恥ずかしいわね。
「もうじき前夜祭が始まる。心の準備はできているかい?」
「……誰にも見つけてもらえなかったらどうしようかと思っていたところですわ」
前夜祭における精霊姫候補の役割。それは精霊の祝福を人々に与えるというものだった。
フィーラは今日精霊教会の精霊士から、精霊によるまじないをかけられている。フィーラだけではない。今日は各国に散らばる精霊姫候補たちも全員だ。
まじないをかけてもらう際、いつもは見ることのできない精霊の輝くさまが、この時ばかりはフィーラの瞳にも鮮やかに映った。フィーラだけではない。準備のために関わった者たち全員に、精霊の姿は見えただろう。
精霊姫候補は聖五か国それぞれの国に二人ずつ――エルザが候補を降りたので、フォルディオスはアリシア一人だ――だが、精霊姫候補の人数に比べ、王宮に集まる来客の人数は計り知れない。
そのため、候補への人々の殺到を防ぐためにまじないがかけられたのだ。精霊姫候補は今夜、すべての人々に認識されにくくなっている。
フィーラの身体には水の精霊によってぴたりと張り付くように薄い水の膜がはりつけられている。その水の膜に光の精霊の力によって計算された光を当て、今フィーラの白金の髪は薄い茶色に、青緑の瞳は灰色に変じている。
一緒にまじないをかけられたリーディアは、金茶色の髪を黒髪に、群青色の瞳を茶色に変えていた。
そして可愛らしいリーディアの容貌とは異なる、大人びた女性の容貌へと。
驚きに目を瞠っていたフィーラに、リーディアはいつもの可憐な笑みとは異なる妖艶な微笑みを見せた。
どうやら顔の形は光の陰影によって変えられるようだ。メイクにおけるシャドーのようなものだろう。
フィーラも鏡で今の自分の姿を見せてもらったが、普段とは違いおっとりとした感じの優しそうな女性の顔になっていた。
水の膜は一度張ってしまえば大丈夫だったが、光は常に当てていなければならない。そのためフィーラの近くには姿は見えないが小さな光の精霊がいるはずだ。
絶対数の少ない光の精霊だったが、今日は特別な日であるため、精霊王によって極小さな光の精霊が、計九人の精霊姫候補のために与えられたそうだ。
候補を見つけることができるのは、精霊からの好意を受けた者。ようするにこの光の精霊に好かれた者というわけだ。
もとより、精霊との契約は精霊からの好意によって成り立っている。精霊が姿を見せるのも、見た者に対して好意を持っているからなのだ。
精霊に好意を持たれるということは、とても名誉なことであり、幸運なことでもある。そのため、今日、祝福を受けられた者は、幸運な者ということになるのだ。
人々で賑わう祭りのさなか、たとえ精霊姫候補が隣を横切ったとしても、精霊からの好意がなければそのことに気づくことはできない。真実の姿を見ることが出来た者だけが、祝福を享受することが出来るのだ。
だが、精霊からの祝福は本祭には精霊姫を通して全世界の人間へと与えられるため、たとえ今日祝福をもらえなかったとしても人々の心にも信仰心にも影響はない。今日祝福を貰えた人はとても幸運だ。くらいの認識だろう。
「そんなことあるわけないだろう。さっそく私が見つけたし、ロイドもクリスも、きっと君を見つけるだろう」
ゲオルグは別にロイドもクリスも精霊から好かれるだろうと確信しているわけではない。今日、精霊から祝福を得られる者は、精霊から好かれた者だけではないのだ。精霊姫候補を愛する者にも、同じく精霊からの祝福が与えられる。
愛するといっても、愛は恋愛だけではない。家族愛、友愛、主従愛、博愛。どんな形であれ、その精霊姫候補を愛する者には、候補の姿は普段と同じように見えるのだ。
ゲオルグにはフィーラの姿は普段通りに見えているだろう。そして今日の前夜祭に参加すると言っていた兄のロイドにも、恐らくまじないは効かないはずだ。
――お兄様、いつもは面倒だと言いつつも本祭にでるだけで前夜祭にも後夜祭にもでなかったのに。というか、もしお兄様がわたくしに気づかなかったらちょっとショックよね……。
「ふふ。そうですわね。家族だけでも見つけてくれれば、それで十分ですわ」
――まあ、でも。精霊に好かれる者は一定数いるはずだから、誰からも見つけてもらえないなんてことはきっとないわよね。
「フィー。私は朝までずっと王宮の執務室にいるから、何かあったらすぐに訪ねてきなさい」
「ええ。わかりましたわ、お父様」
ゲオルグが名残惜しそうにフィーラの元を去っていった。
――さて。これからわたくしがすることは……。
フィーラは通常の人の目には普段のフィーラの姿には似ても似つかない別人の姿に映っている。先ほど鏡で見た己の姿は、今のフィーラよりも多少大人びて見えた。
――わたくしの真実の姿を見ることですでに祝福は与えられたことになるのだから、わたくし自身は特にすることもないのよね。……祭りを楽しみましょうか。と、その前に……。
フィーラは人々の間をすり抜け、用意された立食式のテーブルへと近づく。テーブルには一口で食べきれるように工夫された食事が大量に準備されていた。夕食をまだ食べていなかったフィーラは少々空腹気味だった。
――まあ。色々な味が楽しめて良いわね。美味しそうだわ。
フィーラが気になったのはクリームチーズと前世のイクラに似た食べ物が乗っているクラッカーだ。朱色の粒がふんだんに乗せられたクラッカーは人気なのか、すでに残り一つとなっていた。
――イクラに似ているけれど、うちでは出たことないわね。何かしら、やっぱり魚類の卵? 食べてみたいけど最後の一つ……。でもまあ、補充はされるでしょうし。
料理の最後のひとつに女性が手を出すのは、この世界ではしたないとされている。しかし食欲と好奇心には勝てずクラッカーを取ろうとフィーラがテーブルに手を伸ばすと、横から別の手が伸びて来た。
「おや。失礼お嬢さん。お嬢さんもこちらをご所望でしたか」
隣を見ると、栗色の髪、群青色の瞳の男が、申し訳なさそうに微笑んでいた。
――ルーカス様……。ああ、そうだわ。今のわたくしはルーカス様の目には別人に見えているはず。
「あ……いえ。どうぞお取りになってください。わたくしは別のものをいただきますわ」
フィーラが微笑んでそう答えると、ルーカスがわずかに目を瞠った。
「君は……。ああ、いや。君が食べてくれ。私こそ別のものをいただこう」
「ですが……」
遠慮をするフィーラの手に、ルーカスがクラッカーを乗せた皿を手渡す。
「良いんだ。私は今日は朝までここにいるからね。また補充されたのをいただくよ」
――朝まで……ということは、ルーカス様。この庭園の警備をしているかしら?
ルーカスの着ている服は近衛騎士の制服だ。今はまだ仕事中なのだろう。今日この王城の庭園には多くの人が集まっている。その分警備も増やされているはずだ。
普段城の警備を担当するものは近衛騎士ではない。しかし今回は精霊姫候補もいるため、近衛騎士も警備に駆り出されているのだろう。
「休憩中だったのですね。お疲れ様です」
フィーラはルーカスに向かって軽く頭を下げる。
「では、またお仕事に戻られるのでしょう? 次の休憩の時間にまたこちらの料理があるかどうかはわかりませんわ。わたくしこそ、今日は朝まで楽しむつもりでおりますの。どうかわたくしに、騎士様にこの料理をお譲りする名誉をくださいな」
フィーラはルーカスが遠慮しないように、悪戯っぽく微笑み皿を差し出す。
「……ああ、うん。……ありがとう」
ルーカスはどこか茫然とした様子で、フィーラに礼を言った。
――せっかくの好意を無駄にしてしまったかしら? でも休憩中しか参加できないのなら好きなものを食べていただきたいわ。
ここにフィーラがいては食べにくいだろうと思い、フィーラはそそくさとその場を後にした。
――あのイクラに似たものが乗った料理……要チェックだわ。
フィーラは時々このテーブルを見回りに来ようと密かに決意した。




