第129話 どうにもならないこの世界 2
リディアスは特別クラスのすぐそばにある空き教室で、ステラと二人、椅子に隣り合って座っている。今この教室には誰もいない。特別な授業の時にだけ使用される教室で、普段は自由に学習に使うことが出来る。
教室へ入った当初は数人が椅子に座り学習をしていたが、ステラと、ステラの腰に手を回すリディアスの姿を見てそそくさと教室を出て行った。
リディアスの意味ありげな視線と微笑みも、功を奏したのかもしれない。
あの生徒たちにはあとであれこれと噂されるかもしれないが、表立ってそれを吹聴する者もいないだろう。こんなときは王太子という身分が役に立つ。
リディアスは、隣でぼうっと前を見つめ続けるステラに囁いた。
「ステラ。君にとってこの世界がつらいなら、世界を変えてしまえばいい」
「世界を……変える?」
ステラの視線が、前方から隣のリディアスに移される。
「うん。とはいえ、世界をまるまる変えることなんてできない。それはもうよく分かったよ。変えたと思っていた世界は、別に何が変わったわけではなかった。待っていれば誰かが何とかしてくれるなんて幻想だ。変えたいなら、自分たちで動かなければ駄目だったんだ」
とはいえ、リディアスたちとて、何もしなかったわけではない。
ステラの前世での記憶のなかに、学園で不届き者の学生が暴れるという事件があった。
ちょうどその時期にルーカスが学園に来るという情報を入手したリディアスは、騎士科の学生の隠されていた不満を、事前に光の精霊によって増幅させておいたのだ。
その想いが強すぎて魔に憑かれてしまったのは誤算だったが、おかげで表の世界で後に副団長となるヴァルターとルーカスとの接点を作ることが出来た。
ルーカスの話は団長であるライオネルの耳にも入っただろう。そこからどこまで成り上がれるかは、ルーカス次第だ。
それに精霊を駆使し問題に対処することで、ハリスの精霊士への憧れが強まったことも幸運だった。
フォルディオスではエドワードの心の奥底にあったジークフリートへの劣等感と、王太子という立場にいることへの不安を炙り出し、王太子の地位から退けさせることができた。
トーランドについては、マークスがこちらにいる以上、特に何かをする必要はない。マークスが自分に良い様に事を運ぶだろう。
ウォルクの望みは、ステラが精霊姫になりさえすれば叶う。ただしウォルクのことを思えば、リディアスはステラに求婚することを考え直した方が良いのかもしれない。
テッドに至ってはすでに聖騎士候補となっているため、こちらも問題ない。
だがこうやって裏の世界に近づけてみても、劇的に世界が一変するようなことはなかった。ただリディアスにとっては王太子でい続けることが、父への復讐となるため、それだけは成しえたといってもいいだろう。
そもそもリディアスの望みはあり得たはずの世界を見たいというただそれだけの事だったのだから、これで満足すべきなのかもしれない。
となれば、あとすべきことはもう一つだけ。
「僕は別にフィーラ嬢のことは嫌っていないけれど……彼女の評判がこのまま変わらなければ、ステラの望みは叶わないからね」
実際に裏の世界にはならなかったこの世界で、精霊姫選定の基準は未知のものだ。だがおそらく今のステラはフィーラよりも分が悪い。
「私の……望み?」
「君は言っていただろう。愛されたいと」
「言っていた? 私、そんなこと……」
「言っていたよ。自分は主人公なのだから、今度こそ愛されたいと」
「今度こそ?」
リディアスの精霊によって心の奥底にある気持ちを増幅されたステラは、確かにそう言っていた。しかしそのことを今のステラは覚えてはいないだろう。
「そう。精霊姫になってね」
首を傾げるステラに考える暇を与えぬように、リディアスは言葉を重ねる。
「これまでは裏で手をまわしたり、隠された感情や想いを強く刺激し表面に押し出すことによって裏の世界に近づけて来たけれど、それにも限界がある。人の感情は複雑なんだ。ある人を憎むと同時に、同じくらい愛していたりもする。ほんの小さな切欠で、想いは瞬時に入れ替わる」
ステラは何も言わずに、リディアスを見つめ続ける。
「僕の精霊は光だから、守護精霊についた当初は無意識に人の感情を刺激してしまっていたんだ。それに気づいたのは結構時間が経ってからだったから、精霊の力を制御できるようになった時にはもう遅かったよ。あまりに長くその感情に晒されると、その感情が本物にすり替わってしまう。心の奥にある本物の感情を取り戻すのは、きっとすごく大変なんだ」
だからこそ、干渉されたことに気づかないままでいると、偽りの記憶はいつしか真実へと変わってしまう。
「皆の記憶に干渉してもらおう」
「記憶に干渉……それってどういうこと? それに皆って……」
「皆だよ。学園に入学してからフィーラ嬢と関わった皆の記憶。皆の中にあるフィーラ嬢の記憶を少しだけ変えてしまえばいい。変えると言っても嘘の記憶を作るのは大変だから、フィーラ嬢との良い記憶を隠すだけになるけれど……それでも効果は十分だろうね。何しろ彼女の学園入学前の評判は決して良いと言えるものじゃないからね」
「でも……みんなの記憶を勝手に変えるなんて……それに、そんなことできるの?」
「大したことじゃない。消すわけじゃないんだ。隠すだけだよ。このまま何もしなければ、君の望む世界は手に入らないよ」
「でも……でも」
「大丈夫。こっちを見て、ステラ」
リディアスの言葉に従い、ステラは俯いていた顔をあげる。
リディアスとステラの間には白い光球が浮かんでいた。
「リディアス……」
「良い子だね、ステラ。君は何も考えなくていい。僕が君を幸せにしてあげる」
記憶の干渉には抗いがたい睡魔にも似た強制力が働く。瞼を閉じゆらゆらと揺れるステラの身体をリディアスが支えた。
「……リディアス……でも……」
「大丈夫だよステラ。僕に任せて」
ついにステラの意識は闇へと落ちてゆく。
ステラがすっかり意識を手放してから、部屋へと入ってくる人間がいた。
「ステラ様は本当に、素直ですわね」
金茶色の髪を揺らし、リーディアが教室へと入ってくる。もちろん心から褒めているわけではないだろうが、かといって貶しているわけでもないのだ。たいして興味がないというのが、本当のところだろう。
「……そうだね。ときどき罪悪感を覚えるよ」
リディアスは眠るステラを長椅子に横たえる。瞳を閉じたステラはまるで子どものように無垢な寝顔をさらしていた。
「まあ、あなたが?」
リーディアが目を見開き、驚いたフリをする。リディアスの言葉を信じていないのだろう。あるいは今更だと暗に非難しているのかもしれない。
「僕だって心を痛める時くらいはあるよ。君とは違ってね」
「まあ、ひどい」
傷ついたとでも言うようにリーディアが眉を顰め口元を手で覆い隠す。しかし、その動作をしたすぐあとに、くすくすと笑いだした。
「今さらですわ、殿下。わたくしも、あなたも。自分たちの望みのために、ステラ様を利用しようとしていることは紛れもない事実です」
リディアスをまっすぐに見つめるリーディア。紡がれた言葉が真実であるがゆえに、いたたまれずにリディアスは視線を外した。
「……リーディア。精霊王はどうしている?」
「さあ。あのお方はいつも自由ですから。今頃どこかをふら付いているのではなくて?」
「それでは困るよ。いつも必要なときに傍にいない」
「あのお方にはあのお方の望みがあるのですわ。それを叶えるために行動なさっているのです」
「精霊王の望みねぇ。この世界を征服するとかかな?」
「まあ、何をおっしゃるの? もともとこの世界は精霊王様のものでしてよ? 今更ですわ」
「それはもう一人のほうだろう?」
「あのお方とて精霊王ですわ。ねえ、殿下。忘れてはなりません。わたくしたちは精霊王を自分たちの望みのために利用しようとしているのです」
「……わかっているよ」
「ならよろしいですわ」
満足そうに頷くリーディアだったが、その得意げな姿にリディアスの嗜虐心が顔を出す。
「……でもそれは君も同じことだよ? リーディア。君に精霊士としての資質はない。だというのに、この世界で最上級の精霊を従わせようとしているのだから」
「もちろん、わかっております。ふふ。皮肉ですわね、殿下。光の名を持つわたくしたちのしていることが、闇に加担することとは」
何故か嬉しそうに笑うリーディアに、リディアスが小さく溜息をつく。
リディアスとリーディアの名前は、男性名と女性名の違いはあるが、同じ意味を持っている。
リディアスは古語で光という意味を持っているのだ。古く、格式のある名前。この名前は格式を重んじる貴族に多い名前だった。
リディアスの名は祖父が付けてくれた。その名を聞いたときの父には、大層な皮肉に聞こえたことだろう。
愛する女性との子どもではなく、政略の相手との間に生まれたリディアスこそが、祖父にとっては光そのものなのだと言われたようなものなのだから。
「光と闇は表裏一体。そう、精霊王が言っていただろう?」
自分たちのしていることを正当化しようなどという気持ちは毛頭ないが、それでも何かしらの意味があるのだと思いたい。
そう思うのはきっと、リディアスの心に迷いと、不安があるからなのだろう。
リディアスの言葉を聞いたリーディアが、ほんの少し驚き、そして嬉しそうに笑った。




