第126話 逃亡
「は⁉ ニコラス・ソーンが逃げた⁉」
学園が始まってすぐゲオルグに王宮へ来るよう呼び出されたロイドは、ゲオルグの話を聞き声を荒げた。
ニコラス・ソーンはミミア・カダットを使いフィーラに睡眠薬を盛ったあと、王宮の管理する塔の牢屋に収容されていたはずだ。
王宮の牢の警備は厚い。厚いはずだったのだ。
「声量を落としなさい、ロイド。誰かに聞かれては困る」
そういうゲオルグの表情は最初にロイドが部屋に入った時からまったく変わらずの無表情だ。
ゲオルグは今、氷と評される怜悧な美貌に眼鏡をかけている。普段は外している眼鏡は父が仕事の時にだけかけるものだ。今ロイドの目の前にいるのは、父ではなく、宰相代理としてのゲオルグなのだ。
「父様! そんなことを言っている場合では……」
「ニコラス・ソーンは王家が管理する牢から逃げた。このことは誰にも知られてはならない」
ゲオルグが目を細めてロイドを見据える。
「……僕には良いのですか?」
「陛下からの許しは得ている。お前は次期メルディア公爵家当主。そしてフィーラの兄だ」
ゲオルグの口から出た妹の名に、ロイドが身構える。
「ニコラス・ソーンは凶悪な人間ではない。逃亡中に人に危害を加えることはないと判断され、逃げたことは内密に処理された」
「処理……」
「ニコラス・ソーンはいまだ檻の中にいる」
「父様!」
ロイドも、牢に入る前のニコラスと会っている。ニコラスは思っていたよりも平凡な、どこにでもいる男だった。あの男が凶悪な人間でないという判断には、癪だがロイドも賛成する。しかし、牢から逃げたことをなかったことにするのは納得ができなかった。
それとも死亡したことにされなかっただけましなのか。
「もちろん。捜索は続ける。王家の管理する牢から逃げられるだけの能力が、あの男にあったとは思えない。誰か手引きをした者がいるはずだ」
「……金品の要求はなかったのですか?」
もしニコラスが牢から逃げたのがニコラス自身の意思ではなかった場合、犯人から金品の要求があるのが常だ。
「ない。確かにソーン伯爵家は裕福なほうだが、牢を破る危険を冒してまで連れ出すほどのものではない。まだ私たちの知らない価値があの男にはあるのかもしれないが、それもまだ定かではない」
「このことをフィーには……」
フィーラは薬を盛られた直後でさえ怖がってはいなかったが、それでも犯人が逃げたと知れば気分の良いものではないだろう。
むしろかつて自分に危害を加えた相手が現在どこにいるかわからないという事実が、恐れを誘発するかもしれない。
「あの子を怖がらせたくはない。だが、ニコラスがフィーラを逆恨みしていないとは言い切れないからな」
ニコラスが牢に入ったのは完全なる自業自得だ。しかしそれを理解し反省しているのならば良いが、実際に逃げ出している以上その線も考えておかなければならない。
「では伝えるのですね?」
「いや」
ゲオルグの煮え切らない反応に、ロイドが声を荒げる。
「父様! ではどうするのですか⁉」
「精霊教会に頼み、フィーラに守護精霊をつける」
「できるのですか⁉ 守護精霊は王族にしか適用されないはずでは……」
ゲオルグは何でもないことのように言うが、精霊教会が守護精霊を貸しだす相手は、基本王族と決まっている。
だが何事にも例外はある。王位継承権順位が高い者には、たとえ王族ではなくとも王族に準ずる存在として守護精霊がつく場合があった。
「フィーラの王位継承権は現在四位だ」
「そんな、なぜ……」
王位継承権一位は王太子であるサミュエル、次いでサミュエルの妹である王女。三位はロイドの叔父でもある王弟。四位がロイド、五位がフィーラだったはずだ。
「まさか……」
ゲオルグよりも若い叔父のハロルドには子どもがいない。結婚はしているが、生まれつき身体が弱かったため、子供には恵まれないだろうと言われていた。
それでもティアベルトの王家は血族が少なかったため、今まで継承権が奪われることはなかった。しかし、順位が一位繰り上げになったということは……。
「もしや叔父様の身に何か……?」
「いや、ハロルドは無事だ。だが、事情を話したところ快く継承権を放棄した」
「……させた、の間違いでは?」
「人聞きの悪いことを言うな。陛下じゃあるまいに、私がそんなことをするわけがないだろう。昔からハロルドはネフィリアに似ているフィーラを可愛がっていたからな」
「では、あとは僕が継承権を放棄すれば、フィーは繰り上がりで三位ですね」
王家の人間でない者に守護精霊が付く場合、継承権が三位までの者という条件が付く。フィーラが現在四位であるならば、ロイドが三位ということだ。
「そうだ」
ゲオルグがロイドの瞳を見つめ頷く。
「では僕も継承権を放棄しましょう。どのみち王になるなど死んでもごめんですからね」
メルディア家は国内のどの貴族よりも王家との関係が深い。王家から遠い者ほど、絶対的な権力を持つ王家に憧れを持つ者が多いが、反対に王家に近しい者ほど王家の実態を知っているため、必要以上に王家に取り入られないように常に気を配る。
実際には王家から遠い近いにかかわらず、少し想像力を働かせることが出来る者なら、むやみに王家との距離をつめたいなどと思わないだろう。
そして、王家が持つ華やかさの裏にある汚泥のような暗闇を垣間見た者は、決して王になりたいなどとは思わない。
思う者がいるとすれば、現実を目にしてさえもそれを理解できない者か、あるいは人としてどこか壊れている者だろう。
「そうか。では今から書類を書いてもらう。来なさい」
ロイドはゲオルグのあとに続き、執務室の椅子に座る。向かいにはゲオルグが座り、テーブルの上、ロイドの目の前に書類とペンを置いた。
「こちらに署名」
ゲオルグが書類のとある箇所を指し示す。ロイドは一応すべての文章に目を通してから、ペンを持ち書類に署名をした。
「血判を」
そしてゲオルグに渡されたナイフで親指に小さな傷をつけ、書類に押し付ける。
「……これで王位継承権三位はフィーの手に渡った。しかし……予想はしていたが、すんなりと放棄したな?」
「僕は以前から継承権などいらないと何度も言っていましたよ? むしろ今回継承権三位などという物騒なものをフィーに渡してしまったことに、多少の罪悪感すら覚えているほどです」
「まあ私としてもフィーを王家に近づけることには反対だが、ニコラスとニコラスを逃がした相手の狙いがわからない以上護りを手厚くしておきたい。学園にいる間はおおっぴらに護衛をつけられないからな」
「守護精霊がつくんです。多少は安心できるでしょう」
「多少はな。だが守護精霊の力が発動するのは契約者の身体が著しく危険な状態に置かれた時のみ、ようするに命の危険にさらされたときだけだ。裏を返せばそこまでの危険でないと判断したならば、守護精霊は機能しない」
「以前フィーは薬を盛られましたが、あの件は守護精霊の発動条件になりますか?」
「……ならないだろうな。結局使われたのは睡眠薬だったし、睡眠薬自体はフィーの身体に害を与えないものだった。守護精霊が上級精霊なら危険の範囲をもっと細かく指定できるかもしれないが、中級精霊では間違いなく発動しないだろう。結局のところ、守護精霊と契約する本人が精霊士でもない限り、独自に精霊に指令を出すことは出来ないからな」
王家の人間でない者には、たとえ継承権三位といえども上級精霊はつかない。今回、フィーラにつく守護精霊も中級精霊だろう。それでもないよりはまし、そう思っていたのだが……。
「ご息女に守護精霊をつけることは出来ません」
守護精霊の申請は、宰相補佐であるゲオルグの仕事でもある。しかも今回は自分の娘のことであるため、ゲオルグは自身で精霊教会へと出向いていた。
通された部屋のソファに腰かけ待っていたゲオルグに、入ってきた灰色の髪の精霊士が告げたのは、驚くべき言葉だった。
「何故だ! 娘は王位継承権第三位なんだぞ!」
「規則です。精霊姫候補には、守護精霊を付けることは出来ません」
「そんな話は聞いたことがない! 今までの精霊姫候補の中には王家の人間もいただろう! その者たちはどうしていたんだ!」
「本人には内密に守護精霊を外していました」
「……そんな馬鹿な」
「記録には残されていないでしょう。ですが守護精霊を外すことを、どこの王家も了承しているはずです」
にわかには信じられない話だったが、これまでティアベルトからは王家に名を連ねる人間の精霊姫候補は出ていない。したがって、ゲオルグもその真意を知り様がないのだ。
精霊姫の選定の基準は極秘事項にあたる。これは聖五か国の王家といえども対応は変わらない。
ゲオルグが精霊姫の選定に関し多少の情報を持っていたのは、ゲオルグが候補選出に関わる宰相補佐という仕事をしていたからだ。
それでもその情報は一般には知らされていないだけで、王族ではないゲオルグでさえ知りえる程度の情報でしかない。
「……なぜ、そんなことをする必要が?」
「公平を期すためです」
「公平を? 立場が違えばその人間が晒される危険も異なる。それでも公平だと?」
「ええ。公平です。それぞれの生まれ持った背景はその人間の背負った運命です。その運命にさえ勝てないような人間が、世界を総べる精霊王の依代たる精霊姫になることなど到底叶いません。どうしてもというのなら、候補を辞退してください」
「何を……」
「ですが、辞退には必ず本人の意志が不可欠です。決して先走ったりなさらぬよう」
ゲオルグの瞳をまっすぐに見つめ、精霊士が念を押す。その瞳からはこれ以上は一歩も譲らないという強い意志を感じた。
「……わかった。手間をかけさせて申し訳なかった」
「いえ。ご息女の身の安全を願うのは親として当然のことです」
「……」
精霊士の態度から、決して偽りやゲオルグに対する反発からの回答ではないことがわかる。恐らく本当のことを言っているのだろう。
しかし精霊教会自体を信頼しきれないゲオルグにとっては、どうしても、何か裏があるのではないかと邪推する気持ちを消しきれなかった。
それでも、どこか腑に落ちない想いを抱えながらも、ゲオルグはそのまま精霊教会を後にした。これ以上言い募っても無駄だと判断したためだ。
守護精霊をつけることが適わなかった以上、フィーラを継承権第三位にしたことはまったくの無駄だった。
「……まあ、よほどの時はフィーにも放棄させれば済む話か」
継承権第一位であるサミュエルは健康体であり、優秀だ。よほどのことがない限りはその地位が動くことはない。それにサミュエルの次にはまだ王女がいる。
しかし継承権のことはそれで良いとしても、守護精霊がつかない以上、フィーラの身の安全は学園内にしのばせている護衛で対応するしかない。
「……ニコラスを早く見つけなければな」
ゲオルグは待たせていた馬車に乗り込み、王宮へと戻った。
「やあ、レイザン。私の代わりに守護精霊の申請の対応をしてくれたそうだね。ありがとう」
黒髪に白いものが混じり始めた男が、レイザンと呼ばれた灰色の髪の精霊士に対して礼を述べる。
男がそのままレイザンの前を通り過ぎ、執務机に置かれた申請書を取ろうとしたところで、レイザンが意外な答えを返した。
「大したことではありません。マテオ様。結局申請は取り下げていただきましたので」
レイザンの言葉に反応し、マテオが振り返る。
「取り下げた? また王族以外の人間が金品でも積んできたのかい?」
守護精霊の申請は王族以外には適用されない。王族以外に守護精霊が付けられる場合は継承権が第三位以上の者に限られる。
しかしそのことがわかっていてもなお、自分の子ども可愛さに申請を出してくる貴族は後を絶たない。
そして王族にいたっても、嫡子ならまだしも庶子に対してさえ申請をしてくる者さえいるのだから本当に困ったものなのだ。本来隠すべき庶子の存在が精霊教会には筒抜けになってしまうことに考えが及ばないのだろか。
そしてさらに困ったことに、本来受け付けるはずのないその申請を、金品を積まれ秘密で受けてしまう者がいるのだ。
精霊教会に賄賂は通じない。誰もが知るその不文律は、しかしいまではすっかり建前と化してしまっている。
「いいえ。守護対象は王位継承権三位ですから真っ当な申請ですよ」
「だったらどうして………」
「その守護対象が精霊姫候補だったんです」
「精霊姫候補? 今回王族の候補者はいなかったはずだけど……」
王族の異父妹としてなら、タッタリアから一人候補がでているが、それ以外に王族と呼べるような候補に心当たりはなかった。
「メルディア公爵家のご令嬢ですよ」
レイザンの言葉に、マテオは納得したように頷く。
「……ああそうか。あそこは王家の分家と言ってもいい家柄だったね。でもおかしいね。ティアベルトの王家は王太子の次に王女がいるし、子どもはいないがいまだ王弟も健在だったはず。そしてメルディア公爵家の子どもは兄と妹の二人。順当にいけばその候補者は第五位ではないのかな。……三位と四位が継承権を放棄したかな」
「おそらく」
「それではしょうがないね。もめたかい?」
正当な理由から断っているというのに、それでも激高する者はいる。そんな者には非公式に民間の組織が抱える精霊の存在を教え、留飲を下げてもらうのだ。
「いいえ。事情を説明したら素直にひいてくれました」
「そうか。それは良かった。公爵は確か次期宰相と目されている人物だったね。人々の模範となるべき人物のようで良かったよ」
「ですがご令嬢のほうはそうでもないようですね」
「ああ……あの噂かい? 噂などあてにはならないものだよ。実際に自分の目で確かめてからでないと、どんな判断も下せないし下してはいけないよ」
高位貴族の場合は悪意をもって噂を広められてしまうこともある。噂通りの人物の場合もあるし、全く正反対の人物の場合もある。実際マテオはその両方を経験していた。
「……心にとめておきましょう」
「君は真面目過ぎるきらいがあるからね。自分の目で見て、感じたことを大切にしなさい」
「承知しました。副精教司様」
至極真面目な表情で頷くレイザンに、マテオは口元に浮かぶ微笑みは消さずにそれでも困ったように眉を下げる。
「……わかっているのかな」
「もちろん、わかっております。ところで、ご子息はいかがなさっていますか?」
「トーランドかい? 元気でやっているようだよ」
「今学園にはマークス・フェスタが教師として赴任しています」
「そうだね。でもあの子たちももう子どもじゃないんだ。このあいだトーランドからも連絡があったよ。学園内でマークスに声をかけられたそうだ。今度一緒に食事でもどうかって」
「……マークスがですか? ありえません。彼はご子息のことを心底嫌っております。いいえ、恐れていると言い換えても良いでしょう」
「……恐れている、か。どうしてそう思うのかな?」
「理由などありません。ただ私がそう思うだけです」
「……まあね。あの子たちに何かがあったことは確かだし。おそらく君の見立ては間違っていないよ。でもそれはあの子たちの問題だ」
「意外と厳しいのですね。二人の確執はフェスタ家とローグ家に関わりのあるものではないのですか?」
「そうだとしても。私の出る幕ではないよ。トーランドがこの先も精霊士として生きていくつもりなら、両家から逃れることは出来ないんだから。自分で何とかしなければ」
「……いっそあなたが精教司となってしまえばよろしいのです」
「レイザン」
マテオは静かに、しかし強い牽制を込めてレイザンの名を呼ぶ。
「進んで汚職に手を出すフェスタ家よりも、ローグ家のほうが真に精霊教会の担い手に相応しいのでは?」
「滅多なことを言うものではないよ、レイザン。フェスタ家の歴史は古い。それこそ精霊教会を発足したカラビナ王家と同じくらいにはね。王家もフェスタ家も、精霊教会を支える大切な柱なんだ」
「古ければ良いと言うわけではありません。いくら支柱といえどもなかには年月に耐え切れず腐ってしまう柱とてあります。だからこそ代わりが用意されているのではありませんか」
「……まったく。君は真面目なうえに頑固者だね。あまり大っぴらにそんなことを言うものではない。しかしながら、君の言うこともあながち間違ってはいないのが、痛いところではあるね」
「マテオ様……では……」
「レイザン。君は数少ない上級精霊との契約者であり、若くしてこの精霊姫選定の最高責任者にもなった優秀な人間だ。そんな君が清廉な心の持ち主であることに、私は神と精霊王に感謝しているよ」
「マテオ様……」
その慈愛に満ちた笑みのまま、マテオは一歩、レイザンへと近づきそのまま耳元に顔を寄せる。
「レイザン。物事には時機というものがある。見極めなさい。今はまだその時ではないのだよ」
あくまで静かに、何でもないことのように囁かれたその言葉にレイザンの目が見開かれる。
「今度随分と久しぶりにトーランドがここへ来るようだよ。君とトーランドは面識がなかったね。その時には紹介しよう」
マテオはいつものように穏やかに微笑んでいる。しかしわずかながら醸し出す雰囲気が常とは異なった。
マテオの言う通り、物事には確かに時機というものがあるのだろう。そしてその時はそう遠くない。レイザンはそう確信を持った。




