第120話 今度は侍女として
フィーラがフォルディオスから帰ってすでに一月以上たった。
今日はフィーラにとって特別な日だ。今日メルディア家は新しい使用人を迎えることになっている。
「お嬢様……朝からずっとそわそわしておいでですね」
アルマが紅茶を注ぎながら微笑ましいものでも見るようにフィーラを見つめる。
「そうかしら?」
そう答えながらも、フィーラは何度も窓を覗き込んでいる。
「ちゃんと時間通りに来ますよ。今日はクリスさんが迎えに行っていますからね」
アンの言う通り、クリスが一緒なら遅れることはないだろう。
――クリスは時間に正確だものね。いつも胸ポケットに懐中時計をしまっているのよ。
前世の記憶を思い出してから、侍従服の胸ポケットから懐中時計を取り出すクリスをはじめて見た時は感動したものだ。
窓の近くに椅子を置き外を眺めるフィーラに、アンがトレーに乗せた紅茶を手渡してくれた。
「ありがとう、アン。……あの、今日来る子なんだけど」
「はい。ちゃんと事前にお聞かせくださいましたから、大丈夫ですよ」
「ええ。あなたたちのことは信頼しているの。何しろわたくしのことを快く許してくれた広い心を持っているのだもの。でもきっと彼女の方が気にしてしまっていると思うのよね」
「それはまあ……むしろ気にしていなかったらそれはそれでどうかと思いますね」
ナラがあっけらかんと言った言葉に、フィーラは冷や汗をかく。
「そ、そうね……。優しい子だから、余計に心配で」
ミミアが学園でフィーラに薬を盛ったことは、使用人には話してある。ミミアの方からそうして欲しいと言って来たのだ。
フィーラとしても、ミミアから言われずともミミアの承諾を取り、アン、ナラ、アルマの三人には言っておこうと思っていた。最初から知っているのと、あとから知ったのでは、印象が変わってしまうからだ。
それまでに良い関係が築けていればまだ良いが、そこまでいかないうちに知ってしまったとしたら、その人間に対する印象はあまり良いものではなくなってしまう。他人の口から聞いたのならなおさらだ。
だが、ミミアは屋敷で働く全員に知っておいて欲しいと言った。秘密を抱えながら働くのは心苦しいからと。それでもし、受け入れられないという人がいたら、ミミアが自分で話をすると。
――最初から全員に知らせるのはリスクもあるけれど、ミミアの気持ちもわかるものね。わたくしも前世の記憶があることを皆に対して後ろめたく思うときがたまにあるもの。
しかも前世の記憶を思い出してから、以前の記憶はそこまで鮮明なものではなくなっている。些細な記憶違いなどは誰でもあるだろうが、大きな出来事を覚えていないこともあった。
――でも、昔からそうだったような気もするのよね。細かいことは気にしないというか、過去に拘らないと言えば聞こえはいいけれど……ようするに以前のわたくしって興味のないことは記憶から消去していたのではないかしら?
それはとてもあり得た気がした。
だがミミアはフィーラとは違う。きっと忘れたくても忘れられない記憶だろう。そのうえで秘密として心の中に仕舞っておかなければならないとしたら、とても重荷になるはずなのだ。
「大丈夫ですよ。お嬢様。お嬢様がメルディア家で働いても大丈夫と判断したのでしたら、きっとその子は大丈夫なのでしょう」
アンが確信するように、あるいは自分に言い聞かせるように囁く。
「……ええ。自分のしたことを、とても後悔しているわ」
「まあ、私どもは大丈夫ですが、ロイド様がよくお許しになりましたね」
「そうね。わたくしも一番の難関はお兄様だと思っていたから、あっさりと許されたときは少し拍子抜けしてしまったわ」
それに最近のロイドはフィーラに対して妙な言葉や視線を投げかけてくるときが多々あった。
まるで散りゆく花を見るように、何とも言えない表情でフィーラを見ているかと思えば、急に「フィーは僕が護るから」などといい、抱きしめてくることもある。情緒が不安定だ。夏季休暇中に何かあったのだろうか。
――それとも、水路に落ちて熱をだしたなどと言ったから、過保護が加速したのかしら? それに帰り際挨拶をしたジークフリート様も何だか様子がおかしかったのよね。心配いらないとはおっしゃっていたけれど……そろって調子を崩すなんて、やっぱり二人とも仲が良いわね。
「ロイド様は結局お嬢様には逆らえませんからね」
「そんなことないわ。フォルディオスへ行くとき護衛は大丈夫と言ったけれど、結局護衛はついたもの」
「それは当たり前です! この国にいるときはお嬢様は有名ですから不埒な輩からの声もかからないでしょうが、他国は別ですからね。護衛もつけずにうろつくなど、正気の沙汰ではございませんよ!」
「そ、そこまで悪人だらけかしら?」
「狼だらけなんです!」
「……それはさすがに言い過ぎでは?」
――狼が暗示するのは攻撃性や凶暴性だけれど……そこまでの人とはそうそう出会わないと思うのよね。
「いいえ。言い過ぎではありません! お嬢様の前では男性は皆狼になるのです」
「確かに……以前はよく怒らせていたわね……」
感情に任せてついつい余計なことを言ってしまうのは以前のフィーラの悪い癖だった。思ったことをすぐ口に出してしまっていたから、人との衝突も多かったのだ。
そういうことではないのですが、と言いつつも、アンはそれ以上の会話を止めた。外から御者の掛け声が聞こえたのだ。フィーラは椅子から立ち上がり窓の外を確認する。窓の外には一台の馬車が止まっていた。
フィーラは部屋から出て階段を駆け下り、屋敷の外へとでる。ゲオルグもロイドもいない今は、屋敷の主人として出迎えるのはフィーラの役目だ。
馬車からは先にクリスが、次いで簡素な服を着て帽子をかぶり、茶色い髪をまとめた少女が顔を出した。少女はクリスに手を引かれ、馬車から降りる。
降り立ち、荷物を御者から受け取り屋敷の正面を向いたところで、少女はフィーラに気がついた。
少女はその場で一礼し、そのままフィーラの元にかけてくる。それをクリスが必死に止めようとしている姿が妙に可笑しかった。
「フィーラ様!」
「ミミア!」
三か月の修道院への奉仕を終えてやってきたミミアは、フィーラの二メートルほど手前で勢い良く止まり、もう一度深く頭を下げた。
「……今日からこのお屋敷で務めさせていただきます。ミミア・カダットと申します」
ミミアは挨拶が終わっても顔をあげない。よく見ると身体が小刻みに震えている。
「……ミミア。顔を上げて? 久しぶりね。修道院で会って以来かしら?」
フィーラの言葉にミミアがゆっくりと顔をあげる。その顔には滂沱の涙が流れていた。
「はい……」
「ミミア。本当に来てくれてありがとう」
ミミアのことは、ずっとフィーラの心残りだった。もっと何かできたのではないかと、随分と悩んだものだ。だからフィーラは修道院へとミミアに会いに行った。
強制にはならぬよう、あくまでミミアの心を最優先にしながらもフィーラは修道院を出た後の選択肢としてメルディア家で使用人として働く道を提示した。よく考えて、もし働く気があるのなら連絡が欲しいと言い残して帰ってきた。
ミミアから連絡があったのが一か月前。ちょうどフィーラがフォルディオスに行っていたときに修道院経由で連絡があったらしい。
そのことを知ってすぐに、フィーラはもう一度、修道院へとミミアに会いに行った。そして、今日。ミミアはメルディア公爵家で働くために、修道院からやってきたのだ。
「フィーラ様……」
ミミアはそう言ったきり、静かに泣き続けている。そんなミミアにアンがハンカチを差し出した。
「ミミア。こちらはあなたの先輩になるアンよ。背の高い女性がアルマ。眼鏡をかけている女性がナラ。三人ともわたくしの専属侍女として働いてもらっているの。とても優秀な人たちだから、わからないことがあったら何でも聴いて」
「よろしくお願いします。誠心誠意努めさせていただきます」
ミミアが三人に頭を下げる。その姿を見た三人が顔を見合わせて笑った。
「よろしくミミアさん。あなたにはまずは下働きから始めてもらうことになるわ。屋敷に入ったら侍女長に紹介するから。それまでには泣き止んでね」
アルマがミミアの顔を見つめ、優しく微笑む。クールなアルマにしてはめずらしい。
ミミアは外見が幼く見える。アルマは以前妹がいると言っていたから、ミミアと妹がかぶって見えたのかもしれない。
「まあ、侍女長はちょっと怖いですけれど理不尽なことで怒ったりはしないので大丈夫ですよ」
アンが人好きのする笑顔をミミアに向ける。黒髪のアルマよりは茶色の髪同士のアンのほうが、ミミアとは姉妹に見えた。
「私は誰であろうとメルディア家に害なす者には容赦はしません。……けれど、まあ。あなたは無害そうですね」
いつも何かしら物騒なことを口にするナラだったが、実は優しいことをフィーラは知っている。
「……ありがとうございます。頑張ります」
ようやく泣き止んだと思ったミミアは、また泣きだしていた。ミミアが泣き虫なことも、もうフィーラは知っている。
「さあ、中に入ろう。ここにいては目立つ。あと、ミミア君。急にお嬢様に向かって走り出さないこと。俺が護衛を止めなければ、君は今頃地面に這いつくばっていたぞ」
クリスの言葉に、ミミアの顔が青くなる。
「大丈夫よ。今度から気を付ければいいわ」
「……フィーラ様!」
「お嬢様、あまり甘やかさないでください。お嬢様がお許しになってもロイド様が許しませんよ」
クリスの口からロイドの名が出たことで、ミミアはさらに顔色を悪くした。よく見ればきつく握った手も震えている。
――ミミア……。お兄様のことトラウマになっているのかしら? よくうちに来てくれたわね……。
「大丈夫よ、ミミア。お兄様はあなたがここで働くことをすぐに了承してくれたもの」
「……大丈夫です。認めていただけるように頑張ります」
フィーラは慰めるつもりで言ったのだが、ミミアの心には届いていないようだった。




