第110話 水都
街へと繰り出したフィーラたちは、まずは遊覧船に乗ることになった。
フォルディオスは主な観光資源として遊覧船による水路の渡航を行っている。広い水路から眺める街並みは美しく、見る者を別世界へと誘った。
――水の都……一度は行ってみたかったのよね。思わぬ形で願いが叶ったわね。
遊覧船は小型だったため、二手に分かれて乗り込んだ。
フィーラ、ステラ、リディアス、エリオットの組み合わせと、ジークフリート、エルザ、テッドの組み合わせだ。
――遊覧船はゴンドラサイズだから二手に分かれるのはしょうがないにしても……この組み合わせは、ちょっと微妙ね。リディアス殿下、ジークフリート様に案内してもらわなくてもいいのかしら?
しかしせっかくの遊覧船だ。一緒に乗る相手が誰であろうと景色は変わらない。フィーラは思う存分この遊覧を楽しもうと気を取り直した。
「素晴らしい景色ですわね」
運河から眺める景色はこれまでに見たどの景色とも違う。目線から一段上に建つ建物は、オレンジがかった茶色のレンガに白い屋根という、同じ色彩で統一されている。
「この水路はフォルディオスで一番大きなものだそうだよ。行き交う船も多く、そのほとんどが客を乗せている遊覧船らしい」
リディアスが皆に説明をしてくれる。ジークフリートに案内を頼むと言った割には、フォルディオスのことをよく知っているようだ。
――考えてみればそうよね。他国の歴史や経済の特徴など、王族だったら学習するわよね。
「そうなのですね。わたくし遊覧船に乗ったのは初めてです」
前世をあわせても、船はフェリーにしか乗ったことがない。船の上から大海原を見たことはあるが、このようにゆったりとした時間の中、水と戯れるような優雅な乗り物には乗ったことがなかった。
「僕もこどもの頃乗って以来だ」
――そういえば、エリオットさまは以前来たことがあると言っていたわね。
「私もはじめて乗りました」
ステラが興味深そうに船から身を乗り出し運河を眺めている。
「ステラ様、あまり乗り出すと危ないですわよ?」
子どものように目を輝かせるステラに対しフィーラが注意する。
「あんたも注意されていたな」
するとエリオットが口の端をあげフィーラをからかって来た。
「そ、そうですわね」
――エリオット様にね……。ああ、自分の事を棚に上げていたのがステラ様とリディアス殿下にバレてしまったわ……。
「はは。しょうがない。水の中を覗いてみたい気持ちはわかるよ」
そういってリディアスが船から顔を出し水路の中を覗き込む。
「あ……魚」
リディアスが何気なくつぶやいた言葉にフィーラは驚く。
「え? 魚がいるのですか?」
「それはそうだろ」
エリオットの声には呆れの響きが含まれている。
――ああ、そうね。ここの水は澄んでいるものね。
ここの水は透き通っており、水路の下まで見通せるのだ。
フィーラも同じように、今度は身を乗り出し過ぎないよう気を付けて水路を覗き込んだ。水の中では確かに魚が群れを成して泳いでいる。銀色の鱗が水中に差し込む陽光を反射してキラキラと光っていた。
「ああ、そろそろ着くよ。あそこが市場だ」
船着き場に停船した遊覧船から降りようと立ち上がると、船が揺れてぐらついた。
――やっぱりけっこう揺れるわね。
水路に落ちないようにバランスをとっていると、すぐさまエリオットが手を差し出してくれた。同じようにリディアスはステラの手を取っている。
「ありがとうございます」
「ここの水路は結構深いからな、落ちるなよ」
――いくらなんでも落ちないと思うわよ?
そう思いつつも、フィーラは気を付けますとだけ返事をするにとどめておいた。きっとエリオットの中でフィーラはそういう注意が必要な人間だと思われているのだろう。
遊覧船を降りたフィーラたちはジークフリートたちと合流して街中の散策に繰り出した。皆纏まって歩いてはいるが、道の両脇に構えられた様々な品物を扱う店に、各々が引き寄せられていく。
街には様々な物を扱う店が軒を連ねている。果物を打っている店もあれば、洋服を打っている店もある。そして香辛料。
「あ、シナモンの匂い……」
ステラの囁きにフィーラも鼻を動かす。
「本当だわ。いい匂い……」
「シナモン?」
エルザが不思議そうに繰り返す。
「この匂いのことを言っているの?」
「そうよ?……そういえば、シナモンってあまりお菓子とかに使われていないわね」
「そうですね。私シナモン好きなんですけど……」
「わたくしもよ。アップルパイとかシナモンロール大好きだったの」
――ああ、そういえばアップルパイもないわよね。パイはあるけれど使っている果物は林檎ではなくてベリーだわ。
そして生地が前世のものほどサクサクとしていない。
「君たち、これはカツェルの匂いだよ?」
リディアスに言われ、フィーラもステラも目を見開く。
「え?」
「え? カツェル?」
驚くフィーラとステラを見てリディアスも驚きのためか目を瞠ったが、すぐにその顔には笑みが浮かんだ。
「……へえ」
リディアスの口元は手で隠されていたが、確かに笑いの形をつくっている。
――リディアス殿下、何が可笑しかったのかしら?
「そうだよね。この匂いはカツェルだよ。シナモンて何? フィー」
「え、あの……」
エルザの問いかけに、フィーラは思わずステラを見やる。するとステラも驚きを露にフィーラを見つめていた。
――ああ、ステラ様…やっぱり。
フィーラとステラ以外、誰も知らないシナモンという香辛料。この世界では前世にあったものと形や味が同じでも、名前が違うものが存在する。うっかりすると今回のようなことが起ってしまうのだ。
――多分、ステラ様も気づいたわよね。
それでも、今はまだステラと前世について話すことはないだろうと、フィーラは思っている。
ステラはまだフィーラに怯えている。腹を割って話すほどには、フィーラとステラの距離は近づいてはいない。だからここは誤魔化すほかないだろう。
「……わたくしの勘違いだったかしら」
「ステラ様も?」
「え、と。はい。名前もうろ覚えだったから……」
「うん。まあ、そう言うこともあるよね。あまりそこをつついては二人が恥ずかしいよ、エルザ嬢」
「そっか。ごめんフィー」
「い、いいのよ」
――何とか誤魔化されてくれたのかしら? リディアス殿下に感謝だわ。先ほどもわたくしたちが勘違いをしていると思って笑ったのね、きっと。
その後も散々歩き回ったため、少々お腹が空いてしまった。休憩がてら皆で軽食を取ろうということになったが人数が多かったため、ちょうどよい店が見つからない。そもそもこんなに大人数で移動すること自体が珍しいのだ。
前世のような団体を組んでの旅行は、この世界ではまだ見受けられない。皆数人の友人や家族単位で行動することがほとんどだ。
しかもフィーラたちには護衛までついている。ジークフリートがつけた護衛の多くはそうとはわからないようついてきているはずだったが、それでも二、三人はフィーラたちとともに行動しているのだ。
「そこらの店で買って馬車で食べればいいんじゃない?」
「そうね。その方が色々なものが食べられるわ」
エルザの提案にフィーラはすぐさま乗った。買い食いはあまり褒められた行為ではないが、馬車で食べるなら許されるだろう。
「そうだな。あと一時間ほどでそろそろ馬車に戻った方がいい」
ジークフリートの言葉に全員が頷く。フィーラたちは帰りがてら食べ物を売っている店を見つけ、買って帰ることにした。散策をしながら馬車に戻れば、ちょうどそのくらいの時間にはなるはずだ。
「それにしても、今日は結構人がいるな。夕方近くになってから特に増えたようだ」
ジークフリートの言葉を聞き周囲を見渡したフィーラは、あまりの人の多さに目を瞠った。本当に、あっという間に人が増えた印象だ。
「本当、すごい人だわ」
この界隈は前世でいうところの観光拠点のようなものだろう。だがこれほど人がいるのは驚きだ。
――ジークフリート様も今日は人が多いと言ったものね。
この世界において祭りでもないのにここまで人で賑わっている場所などなかなかお目にかかれない。
あまりの人の多さに、一緒に来ていた者たちの姿さえ見えなくなりそうだった。
「フィー。あまり離れないようにね」
フィーラにかけられたエルザの声がどうにも遠く感じる。
エルザから注意を受けたときには、フィーラはすでに人の波に飲み込まれつつあった。




