第109話 池のほとりで
リディアスとジークフリート、二人の前を歩くのは三人の精霊姫候補だ。
フィーラの白金色の髪と、エルザの黒い髪、ステラの亜麻色の髪が池の青と相まって絶妙な色彩を生み出している。
「美しいね。池もだけど、三人の精霊姫候補が。精霊姫候補の選定の基準に、美しさって関係しているのかな?」
リディアスが目の前の三人を見つめながら感心したように言う。
確かに三人は美しい。フィーラはもちろん、ステラも稀に見る美貌だし、エルザも着飾れば相当なものだ。
「さあ、どうでしょう? 精霊姫選定の基準は王族にも知らされてはいないですからね」
「君の従妹のエルザ嬢は、学園入学の時から変わったね? 何があったのかな」
「自由に生きることを選択しただけですよ。己の心に嘘をつくのはやめると」
「自由に、か。僕たち王族には難しいことだね」
「……そうですね」
「自由に将来が選べないから……例え他に優れている人間がいたとしても、第一王子に生まれさえすれば、大抵はそのまま王太子の座を約束される。でもそれじゃあ、国はどうなるのかな? 王とはもっとも優れた者がなるべきものだ」
「……何が言いたいのですか? リディアス殿下」
「可もなく不可もない。凡庸な第一王子よりも、あなたの方が王太子に相応しい。そう言っているつもりだよ」
リディアスの言葉に、ジークフリートは眉を顰める。
「さすがにその言葉は不快ですね、リディアス殿下。兄上は凡庸ではない」
本来ならば不快どころではない。もし他の者が言ったとしたら、処罰されてもおかしくない言葉だ。
「そうかな? 僕としては、第一王子よりも君が王になってくれた方が、フォルディオスは安泰だと思うのだけどね……」
ジークフリートを見つめるリディアスの瞳は、深い琥珀色に輝いている。
深い、人を酔わせる蜂蜜酒のような色合いだ。
「……フォルディオスの行く末を、他国の王太子であるあなたに心配してもらう筋合いはありませんよ」
テレンスもフォルディオスも聖五か国だ。実際にはそれぞれの国の情勢は、互いの国に密接にかかわってくる。それでも、王位継承権にまで口を出される筋合いはない。
「……ふふ。そうだね。ごめん」
リディアスの言葉に心を揺さぶられたわけではない。だが、ジークフリートは陳腐な反論しか出来ない自分をもどかしく感じた。
「それにしても、本当に綺麗だ」
リディアスの視線の先には三人の精霊姫候補がいる。だが、真にリディアスが見ているものが誰であるのかはわからない。少なくとも、池ではないことは確かだろう。
ジークフリートの見つめる先、やわらかな風に吹かれフィーラの白金の髪が揺れた。
フィーラとエルザ、そしてステラの三人から少し離れた位置で、ジークフリートとリディアスは何やら真剣に話をしている。
王族同士の会話に加わるのも憚られたので、三人で少し離れていたのだが、エルザは何故かステラに一切声をかけようとしない。というよりも、いまのところ一言も言葉を発していない。そのためフィーラは現在ステラと二人きりのようなものだ。
――いえ。二人だけではないわね。でもちょっと気まずいわ……。
フィーラとステラの後ろには護衛として二人がついてきていた。
女性三人は会話もなく、池の縁に佇んでいる。こんなときは、いくら護衛とはいえ二人に会話に加わって欲しいと思ってしまう。
フィーラ自身もステラに対し何を話してよいかわからずに、口を噤んでしまっている。三人の間には気まずい空気が流れていた。
仕方なしにフィーラは周囲の景色を見渡す。今日は空には雲ひとつ流れていない。空の深い青を写し取った池との堺はあいまいだ。
するとフィーラ同様ぼうっと景色を見ていたステラが、柵に手を突き、湖面を覗き込んだ。その拍子に亜麻色の髪がさらりと肩から滑り落ちる。
ステラの空を映したような青い瞳には水面に咲く薄黄色の花が映りこみ、まるで絵画のような色合いを見せている。その姿はまさに、この世に具現化した精霊と言っても良いほどに可憐で美しかった。
「あの……ステラ様」
しばしその光景に見とれていたフィーラは、意を決してステラに声をかける。するとステラの肩がびくりと大きく揺れた。ステラのこの反応は毎度のことなので、いいかげんフィーラも慣れて来たところだ。
「ステラ様は確かカラビナのご出身でしたわよね?」
「……はい」
「カラビナでは花の栽培が盛んだとお聞きしましたわ。カラビナの首都は花の都と呼ばれているのだとか。わたくし、花が好きなのです。一度は行ってみたいわ。ステラ様は花はお好き?」
「……ええ。……大好き」
フィーラのその質問に、ステラがふわりと微笑んだ。まるで子どものように純粋な笑顔だ。
――か、可愛い。これは……サミュエルもリディアス様もイチコロなわけだわ……。
いつもフィーラ相手に見せるような怯えた気配は微塵もない。
「……カラビナの首都では、至る所にカナンの花木が植えられているの。暖かくなると一斉にカナンの薄紫色の花が咲き誇って、まるで……」
ステラがそこでいったん言葉を区切る。わずかに目を見張り、何かに驚いているようだ。
「ステラ様?」
「あ……いいえ。とても綺麗なんですよ」
「……ステラ様、あの……」
「ステラ」
フィーラがステラに話しかけようとした矢先、こちらに向かって歩いてきたリディアスがフィーラの言葉を遮った。
――あら?
リディアスはいつもどおりにこにことしているが、一緒にいるジークフリートの表情が硬い。
――ジークフリート様にしては珍しいわね。どうかしたのかしら?
「ステラ。せっかくフォルディオスに来たんだ。これから街へ行かないかい?」
リディアスが嬉しそうにステラに話しかける。
「街へ?」
「そう。一緒に行こう」
「……ええ。そうね」
「君たちもどうだい? できれば案内があると嬉しいんだけれど……」
リディアスがジークフリートを見る。その瞳にははっきりと期待の色が見て取れた。
「……フィーラ嬢、どうする?」
リディアスからの視線を受け、ジークフリートがフィーラの意思を確認する。
「あ……わたくしは」
フィーラはちらりとステラの様子を確認する。先ほどは良い雰囲気だったが、普段のステラはフィーラを怖がっているようなので、せっかくの観光にフィーラがくっ付いていったらステラが心から楽しめないのではないかと思ったのだ。だが……。
「フィーラ様も行きましょう! エルザ様も一緒に、ね?」
フィーラの心配とは裏腹に、ステラは快くフィーラたちの同行を許した。
――あら? ステラ様、わたくしのこともう怖くないのかしら? だったら、わたくしも街を見てみたいわ。
「ええ。ぜひ」
「……まあ私も良いですよ」
フィーラとエルザの答えを聞き、ステラは嬉しそうに微笑む。今までの態度が嘘のように、フィーラに対して好意的だ。
――ステラ様……。まるで……のあと、何と言おうとしていたのかしら。
前世の記憶を思い出したフィーラがはじめてカナンの花を見た時は、まるで桜のようだと思った。
もしかしたら、ステラもフィーラと同じことを思ったのではないだろうか。
いつもフィーラに怯えているステラ。だが最近では、ステラはフィーラ自身に怯えているというよりも、フィーラを通して別の誰かを見ているような気が、少しだけしていたのだ。
今回、ステラと話をして、フィーラはある種の確信めいたものを抱いた。
――きっと、ステラ様も前世の記憶を持っている。
ステラがそのことを口にしないのは、フィーラにも理解できる。あまりにも荒唐無稽な話なのだ。むしろ、すんなりと受け入れている自分自身を、フィーラは相当に楽観的だと思っている。
――言えないわよねぇ。自分には前世の記憶があって、それはこの世界とは違う世界なんだ、なんて。でも……いつか。
いつか、ステラと前世について話したい。
もしかしたら、同じ世界から来たのではないかもしれない。こうやって、別の世界に転生している以上、それはあり得ることだ。そして、同じ世界から来ていたとしても、日本人ではないかもしれない。ステラは高校という言葉を知ってはいたが、前世の世界と同じ意味を持つ言葉はこの世界にもある。
そういったことも含めて、いつかステラと友人のように話せたらいいと思う。
――大丈夫。まだ、先は長いわ。わたくしたちは、まだ若いもの。
今はまだ、フィーラに対するステラの警戒が、すべて解けたとは思っていない。多少緩んだとしても、いっきに距離を詰めては、きっとまた逃げられてしまうだろう。
――子猫みたいだわ。
高いところに登ってしまい、降りられなくなって、泣いていた子猫。あの子猫は今、どうしているのか。フィーラはふとあのとき助けた子猫のことを思い出した。
あの子はすぐに警戒を解いてフィーラに身を任せてくれた。だが、ステラはあの子猫よりも手強い。しかも、フィーラのことを嫌っているかも知れないのだ。
――でも……わたくしはステラ様のこと、嫌いじゃないのよね。
リディアスの隣で、楽しそうに笑っているステラを見て、ほんの少し、リディアスを羨ましいと思ってしまう。
「ねえ、フィー。あの子どう思う?」
エルザがフィーラに近づき、囁く。
「エル?」
「うーん、何か嫌な感じと言うか何というか……」
「ステラ様が?」
「うん。自分の意思がないというか……」
――エルザはさっきステラ様に無視されたものね……。それに、確かに今のステラ様はあまり自分の意見を言わないように見えるわ。以前はそうでもなかった気がするのだけれど……。
「……きっと、恐縮しているのではないかしら?」
「うん……そうだね。まあ、私の気のせいかな? さっき無視されたから余計にそう思うのかも」
――エルも無視されたからだと思っているのね……。まあ、気分は良くないわよね。
「ステラ様、わたくしにも最初はあんな感じだったわ」
「そうなの? じゃあリディアス殿下が言っていた人見知りって本当なのかもね」
「そうかもしれないわ……」
本当にそうならばいい、とフィーラは思う。人見知りならば、慣れてさえしまえば今よりもっと打ち解けてくれるかもしれない。
同じ世界から来たかもしれない、でも違うかもしれない少女。 フィーラは前を歩くステラの姿を見つめた。




