骸骨百足★
初めは、何も見えなかった。
光蘚による線画迷宮が、暗闇に薄らぼんやりと滲んでいるだけだった。
最初に捉えたのは姿ではなく、音だった。
……シャカシャカシャカシャカ……。
鳥肌の立つ動作音が、高速で近づいてくる。
次の瞬間ボッ!と闇の直中に、巨大な “頭蓋骨” が浮かび上がった。
おぼろげで不確定だった姿は、瞬く間に輪郭を現した。
歪な形状の頭部に、螳螂の鎌の如き手は左右に四本もあった。
長大で無数の節足を持つ胴部は、まるで百足である。
しかもそれら身体のすべてが、闇に映える白骨なのだ。
“骸骨百足”
堕天系である “魔太公” が玉座と同様に、征服した魔界の先住者の骨で生み出した不死属。
異形の造形が多い迷宮の魔物の中でも、極めつけの存在だった。
「……ひっ!」
あまりのおぞましさに扉の隙間から覗いていたエルミナーゼが、悲鳴を零して仰け反った。
シャカシャカ――!
“骸骨百足” が扉の前で急停止、異形の頭骨に空いたふたつの虚空がジロリ! とわずかに開いた扉を見た。
(…………っ!)
背後から口を塞がられたエルミナーゼが恐怖に目を見開き、硬直する。
(……ジッとしてろ!)
酷い臭気の黒革の手袋を通して、アッシュロードの声が伝わってくる。
殺したいほど憎んでいる男に救われた屈辱が、恐慌に陥りかけたエルミナーゼの精神をどうにか保った。
シャカシャカシャカシャカシャカッ!
再び無数の節足が高速で前後し、“骸骨百足” は扉の前から遠ざかった。
それでもアッシュロードは完全に化け物の気配が去るまで、身じろぎしなかった。
安全を確信できるまで身を固くし続け、やっとエルミナーゼから離れた。
扉を閉め、震えるエルミナーゼを引きずるように後退する。
二区画ほど下がって、ようやくアッシュロードの肩から力が抜けた。
「ご、ごめんなさい……わた、わたし……危険に……」
エルミナーゼから掠れた謝罪が漏れた。
恐慌一歩手前の精神は動揺したままだ。
「気にすんな。あれはグロだ」
無理もないとばかりに、アッシュロードは受け流した。
淡泊で滅多なことでは感情的にならない男だ。
なにより、あんな化け物が徘徊している玄室をどうやって突破するか。
頭にあるのは、それだけだ。
「キャンプを張るぞ」
魔方陣を描くための聖水は、アッシュロードがわずかに所持しているのみだ。
貴重品だが、今は考える時間と安全が必要だった。
エルミナーゼが落ち着くためにもだ。
アッシュロードは手早く結界を張ると、内側にドカッと座り込んだ。
向かいにエルミナーゼも、静々と腰を下ろす。
「“骸骨百足” のモンスターレベルは18だ。俺たちよりもずっと高けえ」
名も知らぬ先達。
おそらくはエルミナーゼの父、ドーンロアが書き残した書物の内容を語りながら、アッシュロードは背嚢と雑嚢に詰められている所持品を洗いざらい並べ始めた。
「生命力は最大で180。特殊攻撃は麻痺と毒。不死属だけに魔法の無効化能力も五〇パーセントほどある」
生命力180といえば “紫衣の魔女の迷宮” で最大級の耐久力を誇る “道化師” と同等程度だ。
「だが一番やっかいなのは――」
「呪文……ですね?」
「そうだ。奴は魔術師の呪文を最大位階まで唱えられる化け物だ。ガチで殺り合えば “対滅” が飛んでくる」
エルミナーゼは黙り込んだ。
彼女は “対滅” の呪文がどのようなものか目にしたことがなかった。
無論、知識としては学んでいた。
だが実際に目の当たりにした経験はない。
エルミナーゼだけでなく、現在現役のほぼすべての冒険者がそうだった。
“対滅” を習得できるのは熟練者の魔術師で、そこまで経験を積んだ者は極希だ。
それでも究極の破壊魔法の直撃に、自分が耐えられないことは理解できた。
自分だけでなく、目の前の男も……。
「呪文を封じられればよいのですが……」
今度はアッシュロードが黙する番だった。
アッシュロードのレベルは13。
エルミナーゼは10。
“静寂” を倍掛けで嘆願しても、5レベル以上格上に通る確率は低い。
まして相手は半分の確率で魔法を耐呪する。
賭けにするには分が悪すぎた。
「手持ちの品はこれで全部だ」
食料や水、安物の蒸留酒といった消耗品を除けば、短刀が一振り。
+2相当の切れ味を持つ逸品だが所詮は短刀に過ぎず、最下層では非力すぎた。
とっておきもドーンロアへの牽制に使ってしまって残ってない。
エーテル関係なしに火属性ダメージを与えられる道具だったが、“焔爆” 程度の火力では “骸骨百足” には意味がない。
生物ならまだしも不死属は痛みを感じないのだから。
左手に嵌めていた魔法の指輪はすべてあの娘に与えてしまった。
今ここにあったとしても、戦いに使える物はない。
あとは前述の “青の綬” 他の “紫衣の魔女の迷宮” から持ち込んだキーアイテムがあるだけで、これも役に立たない。
「その礫はなんですの?」
最後に残ったふたつの石ころを見て、エルミナーゼが訊ねた。
まさか敵に投げつけるための物だろうか?
「そうか、おめえはまだ知らなかったな」
アッシュロードは説明し忘れていたことがあるのに気づいた。
「この迷宮はもうおめえの知っている “呪いの大穴” じゃねえ」
“僭称者” の帰還によって著しく強化され、今や最上層を突破するのにも熟練者の実力が必要な、凶悪な迷宮になっていること。
「入り口にでっかい林檎の樹が生えてることから、俺たちは “林檎の迷宮” って呼んでる」
「…… “林檎の迷宮”」
エルミナーゼは怖気に襲われた。
愛らしいからこそ、なんと怖ろしい名称だろう。
「この礫は上層での戦利品だ。もちろんただの石ころじゃねえ。強力な魔道具だ。投擲にも使えるが、もったいなさすぎるな」
ひとつは “夢見の石”
“昏睡” の呪文が封じられた魔道具だ。
本来はジグの所持品だったが今回の探索では斥候 として前衛に立っていたため、殿に回ったアッシュロードが預かっていた。
魔術師との倍掛けや奇襲時の先制に使える極めて有用な品だが、“骸骨百足” は不死属なので、そもそも眠らない。
もうひとつは――。
「くそっ、まだ転移酔いが抜けてねえ!」
アッシュロードは呆けていた自分に、激しく毒突いた。
「どうしました?」
「前言撤回の撤回だ」
「え?」
「俺たちの運はまだ尽きちゃいねえってこった」
もうひとつは、“不幸の石”
“夢見の石” と同じく呪文が封じられた魔石だが、こちらに封じられているのは、
「“聖浄” だ」
“聖浄” は魔術師系第六位階に属する呪文で、聖職者の “解呪” と同様、不死属の魔物を完全に破戒する。
同位階の “酸滅” が不死属に効果がないことから編み出された。
“解呪” と違って単体にしか影響がないが、呪文が通れば不死属版の “呪死”となる強力な呪文だ。
「あくまで通れば、だ。“解呪 “ と違い呪文である以上エーテルの影響を受ける」
不死属は体内のエーテル量が少なく、悪魔系や巨人族ほどではないが魔法の無効化能力が高い。
“骸骨百足” の耐呪能力は五〇パーセント。
それでも最も “解呪 “ 能力に劣る君主が格上の相手を土に還すより、よほど可能性があるだろう。
五分五分なら、充分に賭けになる。
「だが気をつけろ。“不幸の石” って名前は伊達じゃねえ。間違っても秘めたる力は解放するな。生命力・状態のいかに関わらず、灰化する」
「……」
エルミナーゼはアッシュロードの忠告に息を呑んだ。
希望の魔道具が一転して、蛇蝎に変わったように見えた。
「こいつはおめえが持て」
「……え?」
「戦闘は極力避けるが、見つかった場合は俺が囮になる。その隙にぶちかませ」
「で、ですが」
「俺は特異体質なんだ。奴は麻痺持ちだが俺には効かねえ。だから囮は俺がやる」
目的達成の確率が一パーセントでも高まるなら、平然と己を危険に晒す。
熟練者グレイ・アッシュロードの凄みに圧倒され、エルミナーゼ・リーンガミルは黙って魔石を受け取った。
「もうひとつ言っておくことがある。志摩隼人たちのことだ。奴らはおめえを助けるために迷宮に潜って行方不明になった」
「――!?」
「おめえには絶対に生きて還って、奴らを探す義務がある」
エルミナーゼは口元を引き締め、これ以上ない厳しい表情でうなずいた。
まず混乱を鎮め、次に希望を示し、最後に役割と使命感を与える。
練達の迷宮保険屋は自らのメソッドで、王女に最後の覚悟を決めさせた。
「行くぞ」
「はい!」
最悪の中の最悪からの大逆走が始まった。







