理由
「ん? どうしたんだい、聖女さま?」
執務机の地図に視線を落としていたラーラさんが、ひとり退室しなかったわたしに気づいて顔をあげました。
「ラーラさん、グレイ・アッシュロードという人の話を、お母様から聞いたことはありませんか?」
つかの間、ラーラさんが息を呑みました。
それほどわたしの声と表情が、張り詰めていたのでしょう。
「……その名前がマンマから出たことはないね」
ラーラさんが表情を消して答えます。
「……そうですか」
「……手紙に、その名前はなかったね」
うつむくわたしに、ラーラさんのいたわりの言葉が刺さります。
「……パーシャは賢い娘ですが、おっちょこちょいなところがありましたから……きっと書き忘れたのでしょう」
「……きっと、そうさね」
「……はい」
わたしは顔を上げ、気遣わしげな表情を浮かべる猫人のマスターニンジャさんに、笑顔を向けました。
「戻ります。食事を摂って眠らないと。そうしないとレベルが上がりませんからね」
「聖女さま」
頭を下げて背中を向けたわたしに、ラーラさんが声を掛けました。
「あんたは心根の優しい強い娘だ。あの連中の支えであり要でもある。だから弱音は吐けないだろう――あたしは別だよ」
「……ありがとう、ございます」
執務室を出ると、わたしは扉に寄りかかりました。
ヒンヤリとした感触が後ろ手に、閉ざした扉から伝わってきます。
(……パーシャに限って、そんなことは絶対にない……)
手紙にあの人のことが書かれていなかったのは、書かれなかった……書けなかっただけの理由があるのです。
でも誰かは……誰かは必ず生き残ったはずなのです。
それはラーラさんの存在が……彼女のお母様が証明しています。
あの人はしぶとい、本当にしぶとい人です。
最後の最後まで諦めず、悪巧みに悪巧みを重ね、最後一パーセントの生を引き寄せる人です。
そうやって数々の死線を越えてきた人なのです。
(……でも……本当のあの人は……)
皮膚を灼く強烈な熱気が甦ってきます。
鼓膜を引き裂く轟音が追いかけてきます。
わたしを逃がすためにその身を灼いた、もうひとりあの人……。
淫魔と夢魔とを道連れに炎に消えた、もうひとりの彼……。
一緒に生きたかった。
一緒に行きたかった。
一緒に……逝きたかった。
ただそれだけの願いが、どうして叶わないのでしょう。
どうしていつも、わたしたちは隔たれてしまうのでしょう。
わたしの願いは、そんなにも贅沢なのでしょうか。
わたしの望みは、そんなにも傲慢なのでしょうか。
女神……ニルダニス。
微かな音がしました。
微かですが、聞き慣れた音。
鉄靴が迷宮に零れる細かな砂を砕く音です。
一瞬、彼が――あの人が迎えに来てくれた気がして、ハッと顔をあげました。
ですが……もちろん、そんなわけはありません。
視線の先には板金鎧に身を包んだ若い君主がいました。
背筋は伸びています。
「……隼人くん」
卑怯だとは思いましたが、彼が何かを言うよりも早く、わたしは作り笑いを浮かべました。
「ごめんなさい。少し次回の探索について考えていました。新しい戦術です。いくつかあるのですが、でもそれにはまず一晩休息を摂って、レベルが上がっているか確認してからでしょう」
「……瑞穂」
「集中――今は、集中しましょう。わたしたちはあの世界に帰らなければならないのですから」
隼人くんは押し黙り、わたしを見つめています。
彼の気持ちはわかります。
彼は、こう訊ねたいのでしょう。
『おまえのいう、あの世界って?』
……と。
わたしたちは同じ方向に歩いていますが、目的地は同じではないのです。
ですがそれを口にして、何になるというのでしょうか。
あなたは、あなたの。
わたしは、わたしの。
道はもう、分かれてしまったのですから。
わたしたちはそのまま言葉を交わすことなく部屋に戻りました。
わたしは “冒険者の宿” の簡易寝台よりなお粗末なベッドに潜り込み、頭から毛布を被りました。
そして彼の外套に顔を埋めて、眠りに就いたのです。
少なくとも、眠ろうと努力したのです。
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「それじゃあな」
第二層の暗黒回廊から垂れる縄梯子を下りきると、ショートさんがわたしたちを見上げました。
「俺たちの探索が終わるまで待てないのか?」
「君主の若旦那。一寸先は闇。何があるかわからねえのが人生だ。特にこんな迷宮じゃな」
隼人くんの気遣いの言葉に、穏やかに答えるショートさん。
「オイラと殿下は行くよ。思い立ったが吉日ってやつさ」
ショートさんはこれからオウンさんとふたり、オウンさんに掛けられた呪いを解くべく、悪の魔術師 “邪眼” と対決するため、第六層に向かうのです。
「そうか。幸運を祈る」
「ショーちゃん、無茶は駄目よ。危なくなったら退くも勇気よ」
「わかってるよ、お侍ぇ。アヒルの辞書に『死ぬことと見つけたり!』はねえぜ、ガァ、ガァ」
心配する田宮さんに、ショートさんは茶目っ気たっぷりに笑い返しました。
「ご武運を女神に祈っています、オウンさん」
「オウ~ン」
自分より遙か下のわたしに向かって、オウンさんのつぶらなひとつ目がギュッと瞑られました。
オウンさんは “牛人” に伍する巨人の膂力に加えて、正規の訓練を積んだ練達の剣士でもあります。
ショートさんは熟練の僧侶にして魔術師でもある、迷宮の古強者霊媒師。
きっと無事に目的を達することでしょう。
「こいつは餞別だ。持ってきな」
「え? でもこれって……」
言葉につまる田宮さん。
ショートさんが田宮さんに差し出したそれは、彼がいつの間にかなくしてしまった、ゴム製のアヒルでした
実はオウンさんに拾われていて、つい先日手元に戻ってきたばかりの品です。
「この先、背の高えおめえさんたちでも足の着かねえ水たまりに潜ることがあるかもしれねえ。それがあれば溺れることはねえぜ、ガァ」
「でもショーちゃんはどうするの?」
「オイラには殿下がいるから大丈夫。溺れたら摘みあげてくれるさ――そうだろ、殿下?」
「オウ~ン」
「ありがとう。次に会うときまで借りておくわね」
それが田宮さんとショートさんの再会の約束でした。
「なにからなにまで、本当にありがとうございます」
「ライスライト、おいらもオメエさんが操を捧げるべき雄にもう一度会えるよう、祈ってるぜ」
「はい」
わたしはこの人情家のアヒルさんと初めて会ったときの会話を思い出し、微笑みました。
そしてふたつのパーティは別れ、ショートさんとオウンさんは第六層へ直接下りるために昇降機 へ。
わたしたちはキーアイテムである “青い炎” を使って、第四層へ。
「行きましょう。新たな階層が待っています」
迷宮探索の、再開です。







