鉛色の奇跡
「すまない、油断した」
“神癒” を施され、石化から回復したレットさんが沈鬱な表情で謝りました。
「いえ」
わたしは言葉少なに頭を振ります。
「今の状況では仕方ありません」
最上層に登ってから七度目の戦闘。
それまでどうにか石化を免れていたレットさんが石にされ、今その治療が終わったところです。
これでジグさん、カドモフさん、レットさんがそれぞれ一度ずつ “神癒” の加護を受けたことになります。
“神癒” の属する第六位階の精神力は、残すところあと一回。
石化を治療できるのは、あと一度限りです。
魔除けの魔方陣の中央では、やはり残り少なくなった乾燥燃料が、蒼氷の壁に炎の影を揺らめかせています。
その一番近くで、パーシャが細かく刻んだ大粒の乾し葡萄を……ポリポリと緩慢な動作で噛んでいました。
ホビットは身体が小さく暑さに強い半面、寒さにはとても弱く、寒冷下では体温を維持するために常に食べ続けなければならないのです。
しっとりとした乾し葡萄が凍って、あられ餅のようになっていました。
「……魔物が全部石化持ちだなんて。探索者には地獄だよ」
乾し葡萄を噛むのをやめたパーシャが爆ぜる炎を見つめたまま、ポツリ……と呟きました。
「……探索者の地獄、妖獣の天国だな」
言葉をついだジグさんの言うとおりでしょう。
最上層の魔物はすべて “妖獣” に寄生されていました。
今現在、この階層そのものが “妖獣” たちの巨大な巣なのです。
戦いは避けられず、その戦いには常に石化の危険が付きまとっていました。
「……近くにいるはずなのに、どうして見つからないのよ」
不意にフェルさんが、悔しさと焦りの滲む声を漏らしました。
「……この靄だ。致し方あるまい」
なだめるカドモフさんの声も、周囲の氷壁のように硬いものでした。
わたしたちはすでに階層を都大路のように貫く大破壊の跡を抜け、ほぼ無傷を保っていた北西区域に到達していました。
“探霊” の加護によって、アッシュロードさんとドーラさんの反応があった区域です。
しかし濃白の靄に阻まれ、未だ発見には至っていません。
「…… “神癒” もそうだけど、他の魔法ももう三分の一を切ってるよ。レット、どうするの?」
やはり炎見つめたまま、パーシャがレットさんに訊ねました。
往路で三分の一。
目的地で三分の一。
復路で三分の一。
迷宮探索でセオリーとされる精神力の配分です。
つまり呪文や加護を三分の二使い切ったときが、到達できる限界点なのです。
「帰るなんて、駄目よ! 今帰ったらグレイは死んでしまうわ!」
今度こそフェルさんが顔色を変えました。
「ここは迷宮の最奥なのよ! 消失の危険は低層とは比べものにならない! 帰るなんて絶対に駄目!」
「でもこのままじゃ、あたいたちまで全滅しちゃうよ!」
ぼんやりとした表情で炎を見つめていたパーシャが、飛び上がるように立ち上がりました。
「全部の敵が石化持ちだなんて、この階層は物狂ってる! これはもう試練場なんかじゃないよ! 処刑場か屠殺場だよ!」
パーシャのどぎつい表現に、フェルさんが押し黙ります。
フェルさんの言うことがもっともなら、パーシャの言うこともまたもっともなのです。
レットさんが無言で、わたしを見ました。
わたしも無言で、レットさんを見つめ返します。
レットさんは敢えてわたしに意見を求めませんでした。
わたしの気持ちは揺るぎなく決まっていて、だからこそ口には出せないことを、レットさんも理解しているからです。
そしてこういう重大な決断をするとき、レットさんは決を採りません。
リーダーの責任として、自身の重荷として、自分で判断を下します。
「帰ろう。帰れば、また来られる」
判断が下されました。
フェルさんもわたしも、何も言いません。
それが唯一無二の正しい判断だと、充分すぎるほどわかっているからです。
ここはひとり欠けただけでもパーティが全滅しかねない迷宮の深奥。
自分だけ残って捜索を続けたい――そんな思いを口するほど、わたしたちは未熟ではないのです。
同じ男性を愛したふたりの女探索者は、心を引き裂かれるような思いで帰路に着きました。
着くしか、なかったのです。
「――エバっ!?」
突然走り出したわたしに、パーシャが叫びました。
他のみんなも驚いた顔で、わたしを呼び止めます。
ですがわたしの意識は迷宮を厚く覆う濃白の靄の、唯一点に向けられていました。
お願いです、引き止めないで!
すぐそこですから――すぐそこですから――お願いだから引き止めないで!
濃い靄の中で輝く、青い光。
コバルトに似ているけど、もっと深い青。
それは奇跡への道しるべ。
無我夢中で駆け寄ると、その輝きは靄から浮かび上がったふたつの人影の片方から放たれていました。
凍て付いた壁際にもたれ掛かる、黒衣の男性から。
いえ、もう黒衣ではありません。
全身に霜が降りた姿は、まるで灰に塗れたように真っ白でした。
深い青光は、首から下げられたペンダントから放たれていました。
そして残されていた最後の力を使い果たしたのか、深青の輝き――瑠璃色の輝きは徐々に色を失い、重く沈んだ鉛色へと変わったのです。
それは天使が立ち去る直前に施した、せめてもの慈悲だったのでしょうか。
それとも――。
「……ありがとうございます、ポトルさん」
わたしは噛みしめるように呟くと、疲れて眠り込んでしまったように座り込むアッシュロードさんに駆け寄りました。







