打音★
四層からの縄梯子を登りきったわたしたちが見たものは、無残という言葉すら生易しく思えるほどに破壊された氷の階層でした。
分厚く頑丈な耐熱煉瓦の内壁が、表面を覆っていた蒼氷ごと粉々に砕かれ、瓦礫の山と化しています。
ところどころ視界を遮っていた内壁が消失したことで、濃白の靄さえなければ場所によっては階層の端まで見渡せるかもしれません。
その惨状はまるで、
(……まるで巨大怪獣が通った跡のようです)
そして、わたしと似た思いは皆が抱いていました。
「……いったいどんな化物がこんな悪さをしたっていうのさ」
かたわらでパーシャが呟きました。
寒さでも疲労でもなく、驚きと怖れ――畏れで顔面を蒼白しています。
「……わかりません。ガブリエルさんに詳しくは聞かなかったので」
あの人の遭難に動転してしまい、詳細な情報を聞き出すことを忘れてしまったわたしの、痛恨のファンブルです。
「……逆に考えましょう。これだけの破壊をやってのける魔物なら、小山のような大きさのはずよ。どんなに遠くにいてもすぐにわかるわ」
パーティの誰よりも鋭敏な聴力を持つフェルさんがそういって、靄が漂う破壊の先を見つめました。
巨大な怪獣がいるなら遙か遠くからでも、地響きや咆哮、鼾すら察知できるでしょう。
ですが辺りは一切の生命が死に絶えたように、深閑とした極寒の空気に包まれています。
「……俺にも聞こえねえな。どうやらこの階層にはもういないみたいだ」
ジグさんも同意します。
全員の胸を支配していたのは、こんな破壊をもたらす存在に襲われたら、いかに古強者で熟練者のアッシュロードさんやドーラさんでも……という思いでした。
「――パーシャ、集中力できていますか?」
わたしは気持ちを切り替え、確認しました。
「秘めたる力で魔力と一緒に精神的な疲労も回復しましたが、あれは健全な回復ではありません。あとから突然、糸が切れたように揺り返しがきます」
最高位の癒やしの加護である “神癒” は、恐慌などの精神異常も回復できます。
しかしそれは、言うなれば向精神薬を投与するようなもので、劇的な効き目があるものの、効果が切れた際には激しい揺り返しがあるのです。
ですから通常は、精神が安定したあとには休息を摂って、本当の回復を図らなければなりません。
依存性もあり、精神の回復に魔法を使うことは推奨されていないのです。
トリニティさんに頂いた “太古の偉大な魔術師の杖” も同様のはずで、パーシャだけでなくわたしやフェルさんにも、いずれそれまでの精神的疲労が一時に押し寄せてくるでしょう。
「大丈夫。疲れはないよ。“立て札ゾーン” の順路は覚えてるからね。初見のときみたいな消耗はないよ」
最上層へ登るには、四層にある “立て札ゾーン” を突破しなければなりませんでした。
探知範囲に入れば即座に魔物を呼び寄せる “立て札” が無数に林立している、悪辣な区画です。
初めて足を踏み入れたときには全滅さえ覚悟した場所ですが、天才的な記憶力と空間測量能力を持つパーシャのお陰で、どうにか潜り抜けることができたのでした。
迂回路もあるのですが、キーアイテムである “炎の杖” をアッシュロードさんたちが持って出てしまったため、今回は再びパーシャに頼るしかなかったのです。
「そうですか――フェルさんも気をつけてください」
わたしたちは今日だけで、拠点南の防衛戦を戦い、次いで援軍として東の防衛戦を戦い、さらには沖合の孤島でも戦っています。
その上で再起動した“妖獣” の群れを強行突破し、最上層まで登ってきたのです。
魔力の消耗は少なく、肉体的な疲労は “聖水” を飲むことで癒してはいますが、精神的な疲労はいつ限界がきてもおかしくないほど蓄積されているのです。
「わかってる――どちらにせよ、時間制限はあるのよ。急ぎましょう」
フェルさんが靄の奥を見据えたまま答えました。
「進発する。アッシュロードとドーラの反応が合ったのは北西の区域だ。幸いなことに大路が出来てる」
レットさんの宣言で、ジグさんが先頭に立って歩き出しました。
ジグさん、レットさん、カドモフさん、ライスライト、パーシャ、フェルさんという、最も危険を回避できる一列縦隊です。
濃白の靄は場所によっては足元だけを漂い、また時に鼻を摘ままれてもわからないほど視界を遮りました。
『目印にケルンを積みたいけど、これじゃね』
パーシャがそういって、道標を置くことを諦めたほどです。
おとなう者のない静寂は、却って不安を忍び寄らせます。
玄室が存在し占有していた魔物がいたとしても、新しいねぐらを探して移ってしまったのでしょう。
徘徊する魔物の気配もありません。
明らかに前回訪れたときとは、迷宮の空気が変わっていました。
階層を貫徹する、大怪獣か竜巻が通り道のような破壊の跡を北に辿ります。
“探霊” で判明したアッシュロードさんたちの居場所は、階層の北西部です。
「痛っ!」
突然、背中で悲鳴がしました。
「どうしました?」
「なんか蹴っ飛ばした」
振り返ると、パーシャが前屈みになって足元の靄に手を突っ込んでいます。
「やめておいたほうが……罠かもしれませんよ」
「罠なら先を歩いてたあんたたちの誰かが作動させてるよ」
もっともな言い分です。
敢えて手探りしているということは、爪先に当たった感触は瓦礫の類いではないのでしょう。
「ん~~~あった! ――あっ!!?」
勝ち誇ったように靄の中から取り上げたそれを見て、パーシャが息を呑みました。
いえ、パーシャだけでなくパーティの全員が。
小さな手に握られた、鉛色をした細長い|ガラクタ《BROKEN ITEM》……。
ですが……その形には見覚えがありました。
「…… “炎の杖”」
炎の呪文が封じられた魔法の杖……。
直接触れていると低温火傷を追うほどの熱を帯びているため、温石の代わりになるとアッシュロードさんとドーラさんが持って出た魔道具……。
「……そんな……嘘でしょう……」
フェルさんがおののき、ガクガクと震え出しました。
「いえ、魔力を使い果たしたから打ち捨てていったまでです。当然の行動で何も不安に思うことはありません」
わたしは強い口調で言い聞かせました。
自分自身に言い聞かせました。
ドゴドゴドゴドゴッ!!!!
その時、不意に太鼓を叩くような音が周囲に響きました。
それもポコパコといった軽い打音ではなく、もっと重い重低音。
最初はひとつだったその音が、呼応するように周囲の瓦礫の陰から次々に響きます。
そして姿を現す、黒い体毛に覆われた巨体の群れ。
わたしたちは、いつの間にか巨大な類人猿に取り囲まれていたのです。







