迷い犬オーバーラン
「あの馬鹿がっ!!!」
ドーラは眼前の氷に刻まれた文字を見て、烈火の如く怒声を発した。
傷文字の意味するところは、ドーラに単独での帰還をうながすものだ。
氷壁に刻まれた伝言の横には、同様に凍り付いた扉がある。
魔法の作用によって蝶番だけが凍結を免れており、わずかに開いた隙間から覗くと、果たしてそこは “真龍” の狂った幻影と遭遇した玄室の手前だった。
帰路である。
ドーラは振り返ると、背後で黙り込んでいた用心棒に言った。
「この扉を潜ったら、右手を壁につけて進むんだ。そうすれば縄梯子に辿り着く。それを下りれば、魔法であんたはあたしらの拠点の真ん中に飛ばされるよ」
どう見てもこの男の性格は、 悪だ。
善の人間しか足を踏み入れることの許されない四層に下りれば、“帰還の広場” へ強制送還されるだろう。
こんな得体の知れない浪人者がいきなり現れれば拠点は混乱するだろうが、この男なら上手く立ち回るだろうし、道理をわきまえたトリニティもいる。最悪の事態はならないはずだ。
「おめえは行かねえのかい?」
三十郎は懐手にした手で、無精髭に覆われた顎を撫でながら訊ねた。
「どっかの年寄りグレートデンが迷い犬になっちまったみたいでね。捜し出して連れ帰ってやらないとならないのさ」
馬鹿犬も馬鹿犬。
大馬鹿犬だ。
だが大馬鹿ではあっても、グレイ・アッシュロードは愚かな駄犬ではない。
相応の理由があったればこそ、帰路を見つけてなお氷の迷宮に引き返したのである。
そしてその理由とは喫緊であり、かつ相棒の自分に単身帰還をうながすほど危険なものなのだ。
ドーラは一瞬、この男に自分が持っている “世界の水晶” を託すべきではないかと思った。
三十郎が拠点に水晶を届けてくれれば、支援を期待できる。
仮に自分とアッシュロードが全滅したとしても、残った連中で探索を続けることが可能だ。
だがくノ一は即座にその考えを否定した。
この男を信用していないわけではない。
しかし最重要のアイテムをポンと手渡せるほどの信用は、まだ抱いていない。
(しっかりおし! 依存心が強まってるよ!)
距離感を見失いかけていた自分を、ドーラは強く戒めた。
何より警戒し叱咤しなければならないのは己自身である。
迷宮ではすべてを自己完結できるほどの実力と運と覚悟がなければ、生き残れないのだ。
水晶は自分が持つ。
迷った老犬は自分で見つける。
それが迷宮探索者だ。
「そうか――それじゃ達者でな」
同行を申し出るでもなく、氷壁三十郎は扉を潜った。
異邦の浪人者がまとう乾いた気配が、今のドーラにはありがたかった。
厳つい背中が扉の奥に消えると、代わりに慣れ親しんだ孤独が彼女に寄り添った。
ざらつく舌で、平らな鼻の頭を一舐め。
「――それじゃ、仕切り直しと行こうじゃないか」
◆◇◆
確かに猫の言ったとおりだった。
老犬は馬鹿かもしれなかったが、愚かな駄犬ではなかった。
もしこの老犬が愚かだとするなら、それは問題を解決するのに一番合理的だと考えれば、自分の命さえ危険に曝すのを厭わないことだろう。
グレイ・アッシュロードは足早に、それでも慎重に周囲を警戒しながら氷の回廊を北に進んでいた。
“妖獣” の言葉は、真実だった。
“変身獣人” と同化し、その知能で吐いた末期の言葉は、戯れ言ではなかったのだ。
少なくとも、南に帰路は存在した。
その意味するところはひとつである。
“妖獣” の今際の言は真。
南に帰路があるということは、そのままアッシュロードを生還させても問題がないことを示していた。
拠点に戻られ、仲間を募られ、対策を立てられても、“妖獣” たちの脅威にはならないと思われていたのだ。
それはすなわち、世界の終焉が近いというもうひとつの言葉の正さにつながっていた。
あるいはそう思わせることこそ、“妖獣” の思惑なのかもしれない。
だが確かめないわけにはいかなかった。
楽観論が外れれば、そこでTHE END.
CONTINUEなしのGAME OVERである。
これまでにも貧乏籤はごまんと引いてきたが、今回はその中でも最大の物を引いたと身の不運を嘆き、あとは腹を括るしかない。
分の悪すぎる賭け。
しかも持ち金は、ポケットの奥の銅貨一枚限り。
しかし賭けに参加できるのが自分しかいない以上、躊躇っていてはそのわずか一枚の銅貨すら失ってしまう。
(――なんてことはない、要するにいつもと同じってこった)
あらゆる事態を想定し、悪巧みを幾重にも張り巡らし、勝ち残り生き残る確率を一パーセントでも高め、決して運部天部に頼らない――。
そんな都合のいい状況など、滅多に起こるものではない。
突発的で、場当たり的で、出たとこ勝負の強制と応酬。
氷に閉ざされているが、なんてことはない。いつもと変わらぬ迷宮の景色だ。
玄室は少なく、扉もほとんど見かけない。
曲がりくねった回廊が複雑に絡み合う階層を、老いた迷い犬はオーバーランを続ける。
歩き続け、進み続け、分厚手袋や鉄靴の中で指先の感覚がなくなって来た頃、そのほとんど見かけない扉が目の前に現れた。
アッシュロードは斥候 ではない。
扉に耳や鼻を近づけたとしても、奥の危険の有無までは察知できない。
それでも限界に達しつつある集中力を酷使し、慎重に扉を押し開く。
灰色がアッシュロードの視界を覆った。
(……靄? いや、違う)
回廊に漂っていた濃白の靄ではない。
空間自体が灰色に染まっているのだ。
暗黒回廊ならぬ、灰色回廊だ。
(……なんだこりゃ?)
探索者として長い経験を持つアッシュロードも、こんなのは初めてだ。
警戒してその場から動かずにいるうちに、眼前の灰色が徐々に薄まってきた。
そして気づいた。
目の前の灰色は暗黒回廊の成れの果て――残滓なのだと。
何らかの理由によって、暗黒回廊が消えていく仮定の現象なのだと。
やがて灰色は完全に消え去り、今度こそ靄に包まれた大広間が現れた。
かつては足を踏み入れた者を惑わす、広大な暗黒回廊だったであろうその空間は、他の区画と同様に氷に包まれていた。
いや――そうではない。
他の区画と同じなのではない。
他の区画が同じなのだ。
こここそが、この広間こそが、この氷結迷宮の中心――核心なのだ。
なぜなら靄の奥に、階層の天井に届くほどの巨大な氷像が鎮座していたからだ。
荘厳なまでに美しい巨龍の氷像。
氷漬けにされたこの迷宮の主―― “真龍”
今度こそ、幻影ではない。
その時、巨龍を覆っている氷に亀裂が走り、塊となって剥げ落ちた。
露出した体表に、ぶよぶよとした紫とピンクの醜い肉腫が蠢いている。
アッシュロードは呻いた。
これこそが、すべての真相。
これこそが、すべての原因。
この星の意思たる世界蛇は、“妖獣” に寄生されていたのである。







