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迷宮保険  作者: 井上啓二
第四章 岩山の龍
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トリニティ・レイン

 トリニティは淀みなく、魔術師系最高位階の呪文 “転移(テレポート)” の詠唱を始めた。

 縦軸、横軸、高さ軸。

 普段使っている三つのベクトルに、時間軸を加えての詠唱だ。

 魔導方程式では、あらゆる単位を距離として現す。

 時間も、そして物質量も、速力を用いて計算することで距離として現している。

 その方がシンプルで美しいからだ。

 賢者(魔術師)たちは、なによりも簡潔な方程式に美を見出す。


 純力=物質量×光速力×光速力


 このシンプルな魔導方程式から、すべては始まっているのである。


(始点が不明だ。取りあえず一度飛んでみるしかない)


 他の魔術師が聞いたら仰天するしかない思考の元、トリニティは詠唱(言霊)によって方程式を組み上げていく。

 始点=現在位置がわからないのであれば、“転移” などできるわけがない。

 目的の座標を計算できず、飛んだ先が “石の中” であれば問答無用で消失(ロスト)してしまう。

 そんな蛮勇を振るう魔術師などいない。

 だが、今のトリニティは意に介さない。

 今の彼女は肉体を持たない意識体であり、“石の中” だろうと “掘の中” だろうと関係ないのだ。

 トライ&エラーを繰り返して、徐々に目的地に近づいていく方法が採れるのである。

 方程式が組まれ、“転移” の魔法が発動する。

 特有の発光現象が起こり、トリニティの姿は想像上の執務室から消えていた。


 色鮮やかな隧道(トンネル)の中を、トリニティの意識は猛烈な速さで進んでいた。


(――これが量子の世界か!)


 トリニティの薄い胸が高鳴った。

 ライスライトを始めとする転移者たちが見てきた光景を、今彼女も見ているのである。


(空間を飛ぶだけの通常の “転移” では認識できないのはなぜだろう? もしや時間には記憶が結び付いているのか? 詳しく研究に値する主題(テーマ)だ)


 そしてトリニティ・レインは、興奮に弾む胸の片隅で思った。

 本来自分は、カビ臭い書斎で本に埋もれ、研究に生涯を捧げる人生を送りたかったのだ――と。

 それが何の因果か冒険者となって死臭漂う迷宮を這いずり回り、挙げ句の果てに世界最大の帝国の宰相にまで登り詰めてしまった。


(面白いではないか、我が人生!)


 恐るべき童顔の天才賢者が快哉を叫んだとき、彼女の意識は量子の隧道を抜けていた。



(……おい、これはいったい何の嫌がらせだ?)


 光泡立つ次元回廊(ワームホール)を越えた先に広がっていた光景に、トリニティは絶句していた。

 見知った風景。

 見知った人物。

 だが、現在ではない。

 なぜなら、そこにいた人物のうちのひとりが自分であったからだ。

 そこは――まだ冒険者の酒場と言われていた頃の “獅子の泉亭” の裏庭だった。


「ア、アッシュ!」


 意識体のトリニティの前で、もうひとり自分がパーティの仲間である男に声を掛けた。

 外見上はまるで呪いを受けたように現在と変わらないが、頬が上気し、声があからさまに上擦っていた。

 稼いだ日銭の分だけ安酒を煽り、酒場の裏手にある馬小屋に潜り込もうとしていたグレイ・アッシュロードが振り返った。

 こちらはボサボサのざんばら髪がまだ半ば黒く、幾分今とは異なった姿をしている。


「……? なんだ、レイン?」


 いい加減酔いの回った濁った目が、実体のトリニティに向く。

 この頃のアッシュロードは、まだ自分をレインと呼んでいた。

 どういう美学か信条か。

 この男はよほど親しくならない限り、女を名前では呼ばない。


「い、いや、その用というほどのことではないのだが……」


 モニョモニョと言い淀む過去の自分を見て、意識体のトリニティは頭を抱えた。


(おい、やめてくれ! なぜここでわたしの黒歴史を再現する!)


 無論、その悲痛な叫びは過去の自分には届かない。

 理屈も原因も不明だが、どうやら自分は、自分が一番思い出したくない時空に飛び出してしまったようだ。


「い、良い夜だな! 月が奇麗だ!」


(……馬鹿、今夜は曇天だ)


 意識体のトリニティは、掌で両目を覆った。

 まったく見ていられない。


「……月?」


 案の定、アッシュロードは不思議そうな顔を浮かべた。

 だがこれがこの男の優しさなのか、それとも単に面倒なだけなのか、とにかくそれ以上その話題には触れなかった。


「……おめえ、身体の調子は本当にいいのか?」


「調子? ああ、いいとも! むしろ以前よりも良いくらいだ! 最高だ!」


 過去の自分がドンと胸を叩いた。

 強く叩きすぎて痛かった記憶が甦ってくる。


「……そうか。無理はするなよ」


「ああ、しないとも!」


 ギコチナイ笑顔が痛々しい。

 意を決して酒場を出たはずだった。

 覚悟を決めて声をかけたはずだった。

 “緑竜(ガスドラゴン)” の竜息(ブレス)で絶命し、蘇生に成功して今一度意識を取り戻したとき、心に決めたはずだった。

 秘していた気持ちを伝えようと。

 この想いを抱えたまま消失(ロスト)するのは嫌だと、強く思ったはずだった。


 この夜、トリニティ・レインはグレイ・アッシュロードに恋の告白をしようとしていたのである。



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― 新着の感想 ―
[一言] 個人的には、恋や愛の思い出を黒歴史と言うのはどうかと思うんですよね。 良い思い出に昇華して欲しいです。
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