際
ミカエルは、ここを際だと感じた。
勝利と敗北の際。
証明と否定の際。
存在と消滅の際。
ほんの微かな量子の揺らぎで運命の天秤が傾ぐ、得失の分岐点。
ミカエルはその瀬戸際に、初めて立っていると感じた。
神にも比肩する強大な力を持つが故に、最初に自我を認識してから一度として経験したことのない状況に、今自分は立っている――立たされている。
この姿を見たら、配下の兄弟たちはどう思うだろうか。
自分たちの長である大天使が、天使に比べれば遙かに下賎で卑小な人間によって追い詰められている姿を見て。
当然、幻滅するだろう。
指揮官としての権威は失墜し、軍団の規律は乱れ、天界の秩序は失われる。
裏切り者たちとの戦争にも敗れよう。
天界は再び奴らの手に渡り、蹂躙される。
そうなれば、今度は自分たちが地の底に追いやられる番だ。
ミカエルは信じられない思いだった。
こんなにも呆気なく、大天使の運命が変転するのか、と。
人間がどんなに悪足掻こうと、天使にとっては蝶が羽ばたくようなものではないか。
それが今、二〇〇〇年の長きにわたる行いが否定され、存在すら消滅の危機に瀕している。
それは絶対に受け入れられない!
それは絶対に楽しくない!
ミカエルは、当然二分の一の可能性――未来を否定した。
勝利と敗北なら、勝利を。
証明と否定なら、証明を。
存在と消滅なら、存在を。
何としてでも勝ち取らなければならない。
大天使は、即座に行動に移した。
持てる最大の力を行使した、徹底的な殲滅を加えなければならない。
一切の呵責のない無慈悲な一撃こそ、今必要とされている攻撃だった。
純力=光速力×光速力。
遙かな昔、天啓を得た偉大なる魔術師が導き出した魔導方程式。
だが自分たち天使は、生まれ出でたときにはすでにその力を身につけている。
人間のように方程式を理解する必要などなく、息をするように力を解放することが出来る。
ミカエルは姉がしたように、無詠唱で究極の破壊呪文を行使した。
エネルギー変化率が一〇〇パーセントに近い対消滅魔法が、立ち塞がる “運命の騎士”に向かって解き放れる。
それは人間なら絶対に防ぎ得ない、文字どおり徹底的かつ無慈悲な攻撃だった。
小癪な人間は一片の塵も残さずに爆散し、消滅するはずだった。
だが、聖銀に輝く鎧がそれを許さない。
右の篭手に象嵌された大粒の金剛石が燦然と輝き、握っていた聖剣が宙に浮かぶと、大天使が放った力とまったく同じ力を解放する。
――ギチィッッッ!!!!!
ぶつかり合うふたつの閃光から顔を背けたドーラの奥歯が鳴った。
(“対滅” の激突だってっ!?!?)
長い冒険者・探索者人生でも、こんな光景は想像すらしたことがない。
「――ドーラ・ドラ! わたしの後ろに!」
ガブリエルが叫ぶ。
ドーラが驚いたことに、この熾天使は一切の障壁を張っていなかった。
「ミカエルとアッシュロードの力が寸分違わず拮抗している! 力が周りに向かうのは均衡が崩れたときよ!」
「一点集中ってわけかい!」
魔法は門外漢のドーラでも、刀も魔法も同じ力学でなりたっていることは知っている。
賢者によれば、あまねく森羅に存在する事象は、すべてひとつの魔導方程式で説明できるのだとか。
敵を打ち倒すのであれば、力は相手にのみ集約しなければならないのだ。
ガブリエルは、大崩壊に備えて力を蓄えている。
どちらが均衡を破るにせよ、それは一瞬だ。
放出している魔力がわずかでも減衰すれば、一気に押し切られる。
この岩山をも消し飛ばす力が周囲に向かうのは、その時だ。
もう一翼の大天使は、全霊を以てその崩壊を防ぐ覚悟だった。
「「――なっ!?」」
ガブリエルと、そしてドーラが絶句した。
彼女たちの目の前で、アッシュロードの左手に装着させていた菱形の盾が外れ、聖剣と同様に宙空に浮かんだ。
代わりに左の小手に嵌されている金剛石が、右手の石に呼応するように輝きだす。
「「“対滅” の二連撃っ!?!?!?!?」」
解き放たれるさらなる純力に、ガブリエルが、ドーラが、誰よりもミカエルが戦慄した。
いまやハッキリと敗北の、否定の、消滅の際に立たされているのは、天界の指導者にして神の軍団の指揮官である彼の方であった。
「――ぐおおおおっっっ!!!」
金色の装甲の奥で、大天使が絶叫する。
それは姉すらも初めて聞く、追い詰められた弟の叫びだった。
(……ミカエルッ!)
人間を遙かに超える知能を持つガブリエルは理解していた。
正確に理解していた。
この戦いは、弟の側に非があると。
人間を侮り、利用し、その果てに痛烈な逆撃を受けたのだと。
どんな生命にも、生への執着があり、生存への本能が備わっている。
どんなに小さくても、どんなに弱くても、変わりはない。
むしろ小さく弱いからこそ、追い詰められた際の牙は鋭い。
弟は人間という――グレイ・アッシュロードという牙に、喉笛を喰らい付かれたのだ。
だから理解していた。
このまま弟が、ミカエルが消滅したとしても、それは仕方のないことだと。
仕方のないことだ。
仕方のないことだが……ガブリエルは楽しくなかった。
胸の奥、心の底にしまい込んでいた何かが甦ってくるほど、楽しくなかった。
だから祈った。
弟を助けてほしいと、神に祈った。
そんな物は存在しないと理解していてなお、ガブリエルは神に祈った。
そしてまた理解した。
人間は、こういう時に神に祈るのだと。
しかし弟がそうであったように、人間は……現実は無慈悲だった。
「――ひとつ忘れてねえか?」
聖銀の装甲の奥から、アッシュロードの声が漏れた。
それはくぐもってはいたが、同時に直接脳髄に響くかのように明瞭でもあった。
そして “運命の騎士” にして “全能者” でもある男は、裁判官が被告に死刑判決を下すように呪文の詠唱を始めた。
左右の篭手に続く、対消滅魔法の詠唱を。







