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迷宮保険  作者: 井上啓二
第四章 岩山の龍
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積み重ね

「聖女様、少しいいかい?」


 対策本部の天幕を出て、ひとり地底湖の岸辺に立っていたわたしに、声を掛けてきた人がいました。

 小柄でしなやかな身体。

 蠱惑的な瞳。

 小さな三角形の耳と、長い尻尾。

 美しい猫人族(フェルミス)の女性が、コケティッシュな笑顔を浮かべて立っていました。


「……ドーラさん」


「あいつも()()()()()顔はしてたんだけどね。今は女同士の方がいいと思って、先を越させてもらったよ」


「……先ほどは」


『……すみませんでした』、と言い掛けてやめました。

 わたしは間違ったことは言っていません……いないはずです。

 謝るのは違うはずです。


「いいんだよ。あいつも面食らっちゃいたけど、腹を立てちゃいなかったからね。本人に問題ないなら、他人がどうこういうことじゃないさね」


「それが問題なのです」


「?」


「本人が問題ないと思ってることこそが、問題なのです」


 わたしの胸で再びやるせなさが膨らみ、それがまた憤りへと変わっていきます。

 それでは、いつまで経っても変わらないではありませんか。

 いつまで経っても、身体から血の臭いが拭えないではありませんか。


「確かにわたしは、あの人が “良い悪巧み” を浮かぶようにお手伝いしました――したつもりです。ですが、ここまで()()()にやってほしかったわけではありません! いくら最後の最後で失敗しないためとはいえ、狂信者同士の合戦に出るなんて!」


 アッシュロードさんの言いたいことはわかります。

 ここまで心血を注いで練り上げてきた計略です。

 詰めの甘さから失敗してしまえば、これまでの労苦が水の泡です。

 でもその結果として、戦場であの人が得るものはなんです?

 達成感ですか?

 高揚感ですか?

 痛快な爽快感ですか?


 否です。

 そんなものではありません。

 あの人が得るのは、ただ累々たる屍が広がる凄惨な光景だけです。

 そして、あの人はまた疲れ果ててしまうのです。

 どんなに休んでも癒されることのない、疲れを負ってしまうのです。

 いったい誰が、そこまで求めるというのでしょうか。

 そこまで求められるというのでしょうか。

 例え今回の計略が失敗したとしても、誰もあの人を責めることなどできません。

 そんな人がいたら、わたしが――わたしが許しません。

 そもそも自ら戦場に立たなくても、計画を完遂させることは――。


「――そうです! きっと他に方法があるはずです! 戦場に立たなくても詰めを誤らない方法が! あの人ならきっと思い付くはずです!」


「……」


 昂ぶるわたしに向けられる、ドーラさんの瞳。

 その眼差しもまた、やるせないものでした。


「なぁ、聖女様。あんたは……あんただけは、あいつの人生を否定しないでやっておくれ。あんたに否定されたら、あいつの立つ瀬がないよ」


 否定? 否定ですって?


「否定だなんて、そんな!」


 思ってもみなかった言葉に、カッと頭に血が上ります!

 わ、わたしがあの人を否定なんてするわけがないでしょうに!


「ああ、わかってるよ。あんたにそんなつもりがないことぐらいはね」


 キッとしたわたしに掌を向け、ドーラさんが制します。


「でもね、聖女様。人間には積み重ねが必要なのさ。生きてきた証がね。ある時ふと立ち止まって後ろを振り返ったとき、そこに何かがあって欲しいのさ。それがたとえ血に塗れた道でも、“無” よりはずっといい。だからこそあいつは、こんなキチガイ染みた計画に寝食を忘れるし、保険屋なんてヤクザな商売をしている」


 そして、こう続けました。


「あいつの仕事は確かに血の臭いがする。でも決して人に誇れない仕事じゃない――それはあんた自身が身をもって知ってることだろ?」


 見えない冷水を……浴びせられました。

 憤りも昂ぶりも、鍋の水を掛けられた焚き火のように一瞬で消え去り、わたしは言葉を失いました。

 ドーラさんは、そんなわたしの震える瞳から視線を逸らさずに続けます。


「あいつはあいつなりに、必死に生きてきたんだよ。これまでね。ただ……いなかったのさ」


「……いなかった?」


「良い人間がさね。あいつが本来のあいつでいられるために必要な、良い人間が」


「……」


「あたしも、レインも、ボッシュも……そうじゃなかった。むしろ本来のあいつから、遠い方へ遠い方へ(いざな)っちまった」


 ドーラさんの口振りは乾いていました。

 でも乾いていながらも、その中に微かな後悔と憐憫が籠もっていました。


「……あいつは抜き身の刀。ギラギラ光ってよく斬れる……斬れた。斬れすぎて、今や血脂に塗れて錆びて刃こぼれて、折れる寸前さ」


 目を伏せて述懐するドーラさん。

 今度こそハッキリと伝わってくる強い感情。

 そしてドーラさんが、再び顔をあげます。


「聖女様。あんたは遅れてきたあいつの鞘なんだよ。砥石になる必要はない。ただあいつの収まる場所になってくれさえすれば……」


 わたしは圧倒されました。

 なんという、強さ。

 そして、なんという深い愛情でしょうか。

 これが二〇年、ずっと側であの人を見守ってきたこの人――ドーラ・ドラさんの積み重ねなのです。


「もちろん――もちろん、そのつもりです!」


 なにクソっと、わたしは足を踏ん張ります。

 積み重ねでは敵いませんが、想いの強さなら負けません。

 わたしの子供じみた虚勢に、大人の笑みを浮かべるドーラさん。


「ふっ、もちろんそうだろうね――カフェを開いたのも、あいつのためなんだろう?」


「はいっ」


 肯定してしまってから、あ――っ、と口元に手をやります。

 これでは公私混同も甚だしいではありませんか。


「はっはっはっ! 正直でいいね! ひねくれ者のあいつにはお似合いだよ!」


 ……真っ赤。


「明日はあたしも一緒にいくよ。誰にも気づかれずに、あいつが無事に戻れるようにするつもりさ。だからあんたは祈っててやりな。今まであいつのために祈った女はいなかっただろうからね」


「はい」


 わたしは表情を改めてうなずきました。


「あの人が還ったら、熱くて美味しいお茶を淹れてあげます」


 人には、人それぞれの愛し方があるのです。

 共に戦場に立つことがこの人の愛なら、わたしの愛は癒すこと。

 あの人が疲れた身心を憩える場所になること。

 それこそが、これからわたしが積み重ねていく愛なのです。


「あの人が折れてしまなわないように、お願いします」


 わたしに強い眼差しに、猫人の美女は柔らかく微笑みました。



 翌日。

 “暗黒広間” での会戦は、予定どおり行われました。

 予想外の始まりと展開で。



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― 新着の感想 ―
[一言] さすがドーラですね。 亀の甲より年の功、とはよく言ったものですw
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