積み重ね
「聖女様、少しいいかい?」
対策本部の天幕を出て、ひとり地底湖の岸辺に立っていたわたしに、声を掛けてきた人がいました。
小柄でしなやかな身体。
蠱惑的な瞳。
小さな三角形の耳と、長い尻尾。
美しい猫人族の女性が、コケティッシュな笑顔を浮かべて立っていました。
「……ドーラさん」
「あいつも来たそうな顔はしてたんだけどね。今は女同士の方がいいと思って、先を越させてもらったよ」
「……先ほどは」
『……すみませんでした』、と言い掛けてやめました。
わたしは間違ったことは言っていません……いないはずです。
謝るのは違うはずです。
「いいんだよ。あいつも面食らっちゃいたけど、腹を立てちゃいなかったからね。本人に問題ないなら、他人がどうこういうことじゃないさね」
「それが問題なのです」
「?」
「本人が問題ないと思ってることこそが、問題なのです」
わたしの胸で再びやるせなさが膨らみ、それがまた憤りへと変わっていきます。
それでは、いつまで経っても変わらないではありませんか。
いつまで経っても、身体から血の臭いが拭えないではありませんか。
「確かにわたしは、あの人が “良い悪巧み” を浮かぶようにお手伝いしました――したつもりです。ですが、ここまで念入りにやってほしかったわけではありません! いくら最後の最後で失敗しないためとはいえ、狂信者同士の合戦に出るなんて!」
アッシュロードさんの言いたいことはわかります。
ここまで心血を注いで練り上げてきた計略です。
詰めの甘さから失敗してしまえば、これまでの労苦が水の泡です。
でもその結果として、戦場であの人が得るものはなんです?
達成感ですか?
高揚感ですか?
痛快な爽快感ですか?
否です。
そんなものではありません。
あの人が得るのは、ただ累々たる屍が広がる凄惨な光景だけです。
そして、あの人はまた疲れ果ててしまうのです。
どんなに休んでも癒されることのない、疲れを負ってしまうのです。
いったい誰が、そこまで求めるというのでしょうか。
そこまで求められるというのでしょうか。
例え今回の計略が失敗したとしても、誰もあの人を責めることなどできません。
そんな人がいたら、わたしが――わたしが許しません。
そもそも自ら戦場に立たなくても、計画を完遂させることは――。
「――そうです! きっと他に方法があるはずです! 戦場に立たなくても詰めを誤らない方法が! あの人ならきっと思い付くはずです!」
「……」
昂ぶるわたしに向けられる、ドーラさんの瞳。
その眼差しもまた、やるせないものでした。
「なぁ、聖女様。あんたは……あんただけは、あいつの人生を否定しないでやっておくれ。あんたに否定されたら、あいつの立つ瀬がないよ」
否定? 否定ですって?
「否定だなんて、そんな!」
思ってもみなかった言葉に、カッと頭に血が上ります!
わ、わたしがあの人を否定なんてするわけがないでしょうに!
「ああ、わかってるよ。あんたにそんなつもりがないことぐらいはね」
キッとしたわたしに掌を向け、ドーラさんが制します。
「でもね、聖女様。人間には積み重ねが必要なのさ。生きてきた証がね。ある時ふと立ち止まって後ろを振り返ったとき、そこに何かがあって欲しいのさ。それがたとえ血に塗れた道でも、“無” よりはずっといい。だからこそあいつは、こんなキチガイ染みた計画に寝食を忘れるし、保険屋なんてヤクザな商売をしている」
そして、こう続けました。
「あいつの仕事は確かに血の臭いがする。でも決して人に誇れない仕事じゃない――それはあんた自身が身をもって知ってることだろ?」
見えない冷水を……浴びせられました。
憤りも昂ぶりも、鍋の水を掛けられた焚き火のように一瞬で消え去り、わたしは言葉を失いました。
ドーラさんは、そんなわたしの震える瞳から視線を逸らさずに続けます。
「あいつはあいつなりに、必死に生きてきたんだよ。これまでね。ただ……いなかったのさ」
「……いなかった?」
「良い人間がさね。あいつが本来のあいつでいられるために必要な、良い人間が」
「……」
「あたしも、レインも、ボッシュも……そうじゃなかった。むしろ本来のあいつから、遠い方へ遠い方へ誘っちまった」
ドーラさんの口振りは乾いていました。
でも乾いていながらも、その中に微かな後悔と憐憫が籠もっていました。
「……あいつは抜き身の刀。ギラギラ光ってよく斬れる……斬れた。斬れすぎて、今や血脂に塗れて錆びて刃こぼれて、折れる寸前さ」
目を伏せて述懐するドーラさん。
今度こそハッキリと伝わってくる強い感情。
そしてドーラさんが、再び顔をあげます。
「聖女様。あんたは遅れてきたあいつの鞘なんだよ。砥石になる必要はない。ただあいつの収まる場所になってくれさえすれば……」
わたしは圧倒されました。
なんという、強さ。
そして、なんという深い愛情でしょうか。
これが二〇年、ずっと側であの人を見守ってきたこの人――ドーラ・ドラさんの積み重ねなのです。
「もちろん――もちろん、そのつもりです!」
なにクソっと、わたしは足を踏ん張ります。
積み重ねでは敵いませんが、想いの強さなら負けません。
わたしの子供じみた虚勢に、大人の笑みを浮かべるドーラさん。
「ふっ、もちろんそうだろうね――カフェを開いたのも、あいつのためなんだろう?」
「はいっ」
肯定してしまってから、あ――っ、と口元に手をやります。
これでは公私混同も甚だしいではありませんか。
「はっはっはっ! 正直でいいね! ひねくれ者のあいつにはお似合いだよ!」
……真っ赤。
「明日はあたしも一緒にいくよ。誰にも気づかれずに、あいつが無事に戻れるようにするつもりさ。だからあんたは祈っててやりな。今まであいつのために祈った女はいなかっただろうからね」
「はい」
わたしは表情を改めてうなずきました。
「あの人が還ったら、熱くて美味しいお茶を淹れてあげます」
人には、人それぞれの愛し方があるのです。
共に戦場に立つことがこの人の愛なら、わたしの愛は癒すこと。
あの人が疲れた身心を憩える場所になること。
それこそが、これからわたしが積み重ねていく愛なのです。
「あの人が折れてしまなわないように、お願いします」
わたしに強い眼差しに、猫人の美女は柔らかく微笑みました。
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翌日。
“暗黒広間” での会戦は、予定どおり行われました。
予想外の始まりと展開で。







