戦機は熟せり
燭台の灯りに浮かび上がった大僧正の顔には、憂悶の色が浮かんでいた。
その容貌は、彼を照らす残りわずかな蜜蝋の炎よりもなお細く、まるで幽鬼のようである。
地底湖の湖岸に拠点を築いた者たちから “邪神の神殿” と呼ばれる区域の指導者は、自分たちがいつの間にか窮地に立たされていることに戸惑っていた。
(……なぜ、こんなことになったのだ。なぜ。我らはただ、心穏やかに祈りを捧げたかっただけなのに)
大僧正は思わずにはいられない。
いつだってそうだった。
自分たちの望みは、ただ静かに自分たちの “神” への信仰に生きることだった。
しかしその “神” が他の多くの人間が信じる “悪魔”ではなかったため、故郷から、村から、街から、日の当たる場所から、追われなければならなかった。
やっと見つけた安住の地は、暗く冷たく灰と隣り合わせの迷宮の一角だった。
だが自分たちは歓喜した。
これこそ、我らの望みだった。
偉大なる “神” は迫害されし子らを憐れみ、その祈りを聞き届け賜ふた。
世界蛇 “真龍” を遣わし、この地に導いてくださったのだ。
これで自分たちは “約束の日” が来るまでここで信仰を強め、力を蓄えることができる。
そしてその日――世界の終末が来た暁には、偉大なる “神” の尖兵として地上に攻め上がり、我らを追った憎き邪教徒どもを討ち滅ぼし、聖戦を勝利に導くのだ。
(それが……あの異邦人どもめ!)
大僧正は歯がみをした。
ことの起こりは半年ほど前だった。
自分たちの神殿の目と鼻の先に、突如として転移者たちの一軍が現れたのだ。
さらにあろうことか、瞬く間のうちに邪な神殿まで建立してしまった。
そこは条約によって自分たちの “神” が介入できない区画であり、逆に “悪魔” の力が及ぶ邪悪な場所だった。
地の利は向こうにあり、短兵急に攻め込んだところで敗北は濃厚である。
異邦の騎士や兵士はともかく、今の自分たちの信仰では “悪魔” に打ち勝つことは難しい。
大僧正は “神” に判断を仰いだ。
祈祷後、これまでのように祭壇に現れた “使徒” は告げた――『静観せよ』、と。
迷宮での生存は過酷。放って置いても立ち枯れになる――それが “神” の下した判断だった。
そして、実際にそのとおりになった。
一層を根城にしている海賊から物資を調達できる自分たちとは違い、異邦の騎士団は食料や燃料の調達に難儀し、日に日に痩せ衰えていった。
素晴らしい!
これぞ、まさしく神慮!
“神” の正しさを目の当たりにし、大僧正の双眸から感涙が滂沱と流れた。
だが――邪教徒はしぶとかった。
遠からず餓えと寒さで全滅するかと思われていた流浪の騎士団が、ここひと月あまりの間になぜか急速に生気を取り戻してきたのだ。
屍蝋の如く白く痩けていた顔に赤味と肉が付き、騒々しい鉄靴の響きには力強さが戻った。
反対に自分たちは、第一層にある地底湖に現れた別の一軍によって海賊たちが全滅させられたため、深刻な物資不足に陥っている。
今や、日に日に痩せ衰えているのは自分たちの方だった。
さらに邪教徒どもは狡猾を極めた。
それまで思い出したように狭隘堅固な神殿正門に攻めかかっては、悪戯に被害を重ねていた愚か者たちが一転して力攻めをやめ、代わりに神殿の周りに生息する食料となり得る魔物を狩り始めたのである。
貴重な食料であり燃料でもある “動き回る蔓草” は言うに及ばず、“二首蛇” や “大蛇” 、“コモドドラゴン” まで手当たりしだい狩り尽くしている。
(悪辣な邪教徒め! 我らを飢えさせる気か!)
今や立場は完全に逆転してしまった。
このままでは餓死した自分たちを足蹴にした邪教徒どもが、この神域を踏みにじることになる。
(それだけはさせぬぞ! 断じてさせぬ!)
大僧正は血が流れるほど掌に爪を食い込ませながら、神殿の壁の一点を睨み続けた。
◆◇◆
「くくくっ! 異教徒どもめ、今ごろ慌てふためいているだろう――いや、腹が減ってその元気もないか」
迷宮の “十字軍” を束ねる髭面の “テンプル騎士” は、そういって下卑た笑みを浮かべた。
その顔には一ヶ月前とは別人のように肉が付き、血色もよくなっている。
目の前の卓には、大皿に盛られた“コモドドラゴン” の肉が置かれていた。
丹念に焼き上げられ、砕いた岩塩もそえられている。
騎士の血肉の元になったものだ。
酷く臭いうえに毒があり、よく火を通して毒抜きをしなければ、とても口にはできたものではない。
実際にひと月前までは、たとえ遭遇して殺したとしても打ち捨てていたのだ。
だが――今は違う。
燃料事情が改善された今では、立派な食料だ。
テンプル騎士団の総長でもある髭面の騎士は、目の前の肉を手に取るとかぶり付き、噛み千切った。
岩塩の塩気と共に、苦味のある肉汁が口内いっぱいに広がる。
この苦味も慣れてしまえば、なかなか乙なものだ。
「……奴らもこのままではジリ貧だって理解しているだろう。早晩、決戦を求めてくるはずだ」
アッシュロードはグチャグチャと動く総長の口元を出来るだけ見ないようにしながら、今後の見通しを述べた。
「……このままでは彼我の戦力差が開くばかりだからな。こっちは肥え太り、向こうは痩せ衰える」
「ふん、望むところだ。飢え死になど奴らにはもったいない。異教徒には異教徒に相応しい死に方がある。我らの剣に頸を刎ねられるという死に方がな」
総長は口の中の肉を葡萄酒で胃に流し込み、続ける。
肉にそえられた岩塩も、そしてこの葡萄酒も、すべて目前に立つ黒衣の男を通して手に入れたものである。
「あの穴蔵に籠もられていては、こちらとしても手が出せぬからな――腹も膨れ、騎士や兵の士気は高まっている! 今なら絶対に勝てる!」
(……所詮は、狂信者だな)
気炎を上げる総長を、アッシュロードは冷めた眼差しで見ている。
少し気の利いた指揮官なら、今しばらく兵糧攻めを続けるだろう。
敵が出てくれば、こちらは退く。
制海権を明け渡したとみせかけて、食料調達に出てくる小規模な集団を見張り、襲撃する。
糧食を断つと同時に、少しずつ相手の戦力を漸減していく。
塵も積もればなんとやら。
奔命に疲れさせ、最小の犠牲で大きな成果を上げることができる。
悪魔側が同じ手段を用いたくても、もはや不可能に近い。
補給線の寸断は持久戦。
ボクシングで例えるなら、ジワジワと相手の足を止めるボディブローだ。
餓えが始まった連中に、もうその余裕はない。
やるなら天使側が息を吹き返す前だった。
これまでの奴らを戦い方を見ると、病的なまでの防御偏重である。
物資面で優位にあったにも関わらず、天使側に仕掛けてこなかったのがその証左だ。
狂ってはいるが、聖職者である。
状況に応じてアグレッシブな機動戦を仕掛ける発想はなく、結果として一発逆転のK.O.を狙った、決戦に賭けるしかなくなった。
“引き籠もり気質” が過ぎたのだ。
逆に天使側が決戦に応じるにしても、今はまだ敵を圧倒できるほどの戦力差はない。
勝てるにしても、盛大に返り血を浴びるだろう。
要するに、今の状況はアッシュロードにとって至極都合がよい。
共倒れの好機――戦機は熟せり、だ。
「戦機は熟せりだ! これぞまさしく神の御加護! 御采配! 異教徒どもめ、これまで我らが味わった辛酸、まとめて返してくれるわ!」
ダンッ! と卓を叩いて、髭面の総長が吠える。
「アッシュロード! 主戦場はどこになる! 我らはどこで奴らを皆殺しにするのだ!?」
「狭い迷宮だ。とくにこの階層には大軍が展開できる場所がない」
「それではどうすると言うのだ!? 貴様が奴らを戦場に引きずり出せると言うから、我らはこの取引に乗ったのだぞ」
口角泡を飛ばす総長を無視して、アッシュロードは卓の上に自分の描いた地図を広げた。
「――何事にも例外はある」
そういって黒衣の男は、地図の一点に人差し指を置いた。
そこには流麗なアカシニア文字で、
“暗黒広間”
と、書かれていた。







