力の限り……心の限り……。
全員が、無言で天井から垂れ下がっている縄梯子を見つめていました。
期待していたのは、床から垂れ下がっている縄梯子。
第一層へ……一階へ下りられるそれでした。
第四層は、第二層よりも強力な魔物が生息・徘徊しています。
強制連結路で落ちてきたときよりも、さらに魔法を消耗したわたしたちには、辛い探索が待っているはずです。
「――大丈夫です。怖れることはありません。わたしたちには “空の護符” と “大地の杖” があります。状況はむしろ好転したと考えるべきです」
わたしは生還への強い決意を込めて、キッパリと言い切りました。
絶望は外からだけやってくるとは限りません。
身の内からも、常に隙あらば絡め取り呑み込んでやろうと狙っているのです。
そして自分の中の絶望になら、絶対に勝つことが出来るのです。
「エバの言うとおりだ。俺たちはまだ動けるし、新しい魔道具も手に入った。気落ちする必要などない」
レットさんが悪い夢から醒めたように、力強く続いてくれました。
「――あの “ゴブリン” たち! 今度出てきたら、あたいがこの護符でカチンコチンにしてやるんだから!」
パーシャにもいつもの気迫が戻ってきたようです。
それでこそ、“火の玉パーシャ” です。
「掩護は任かせて。“棘縛” のタイミングならわかってるわ」
銀色に淡く輝く杖を手に、フェルさんもうなずきます。
「……ならば行こうではないか」
「そんじゃ、お先に」
カドモフさんの静かな気迫に応えて、ジグさんが飄々と縄梯子を登っていきます。
ついでレットさん、わたし、パーシャ、フェルさん。
“鉄壁の人間要塞” が、万が一に備えて殿を守ります。
(……還る! 絶対に還る! 絶対――絶対!)
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「――大丈夫だ。魔物はいない」
縄梯子を登りきると、ジグさんとレットさんがそれぞれの得物を手に、周囲を警戒していました。
わたしは乱れた息のまま手の甲で額の汗を拭い、すぐに腰に吊していた戦棍を手にふたりに加わります。
「ここは見覚えがあります」
視線を巡らすと、二×二区画の玄室でした。
「砂漠の民の人外がいた玄室だろうな――だとするなら、西には行くなよ。強制連結路がある。また落っことされるのは願い下げだぜ」
ジグさんの言葉に心から同意するわたしの背後に、パーシャとフェルさんが到着しました。
肩で息をするふたりの横に、すぐに最後尾を守っていたカドモフさんが姿を現します。
「……むぅ」
油断なく後ろを確認したカドモフさんが、唸りました。
「どうした?」
「……梯子が消えている」
「なに?」
他の全員の視線が、カドモフさんの見つめる先に注がれます。
「本当です……縄梯子どころか、床の穴まで消えています」
「やれやれ、下りも一方通行なら、登りも一方通行ってわけか」
「わ、分かりやすくていいじゃない」
「パーシャの言うとおりだ。今さら引き返すつもりはないんだ。問題ない」
闘志を奮い立たせるように、レットさんが切り捨てます。
「“座標” は使わないでいいの?」
フェルさんが確認しました。
新しい階層に到着したら、まず呪文で現在の座標を確認するのは絶対のセオリーです。
「だが、呪文の残量はあと一回だ。この玄室には見覚えがあるし、いざという時のために出来るなら温存したい」
顔を横に振るレットさん。
「でも見覚えがあるだけで、確かめたわけではないでしょ? 始点がどこかは確かめておくべきだわ」
フェルさんも譲りません。
ふたりの意見は、どちらももっともです。
「あなたはどう思いますか?」
わたしは地図をのぞき込んでいるパーシャに訊ねました。
迷宮の座標のことなら、地図係に聞くのが一番です。
「……ここが前にきた毛糸玉の玄室かどうか、呪文を使わなくても確かめられるかもしれない」
「説明してくれ」
「ここが強制連結路のあった玄室なら、あたいたちは南を向いていて、そこの左側にある扉が東の扉のはずなんだ。だからその扉を出て、北にあるはずの扉を西に行ってみて、マッピングを始めた玄室に辿り着ければ……」
パーシャが全員に見えるように地図を広げて、小さな指先で示しながら説明しました。
彼女が地図を描き始めたのは、ゴブリンの群れから逃げ込んだ玄室からです。
(それまで彼女は、この階層に登った直後に受けた “昏睡” の呪文で意識を失っていました)
つまりパーシャの言うとおりなら始点に辿り着けることになり、つまり……。
「現在位置が分かるというわけだな」
「うん」
「よし、それでいこう――フェル?」
「わたしも、それで良いと思う」
方針は決まり、わたしたちは左手に見える東側と予想される扉から玄室を出ました。
扉を開けるとまたすぐ左手(おそらくは北)に扉があり、そちらに進みます。
そうして西と思われる方向を目指して、わたしたちは進んで行きました。
「この扉を開けると、右に直角に曲がった三区画の玄室に出るはずだよ」
パーシャが地図を見ることもなく言いました。
果たして彼女の言うとおり、扉を開けるとそこには見覚えのある玄室がありました。
ゴブリンの大群に追いまわされたわたしたちが逃げ込み、休息を摂った場所――毛糸玉のように固まった玄室群で一角で、わたしたちがこの階層の始点とした玄室です。
「これで現在位置が分かった。引き返すぞ」
レットさんが指示を出し、わたしたちは今来たばかりの経路を戻り始めました。
本当に忍耐力の試される作業です。
ですが呪文が使えない以上、こうやって一歩一歩確認していくしかないのです。
「――わたし、リーンガミルに着いたらグレイをデートに誘うわ」
むむっ! 最後列からいきなりの宣戦布告がぶっ飛んできました!
「ハンナはもう約束を取りつけてるみたいだし、負けるわけにはいかないわ――もちろん誰かさんにも」
「言っておきますが、その誰かさんはきっと手強いですよ。それはもう、フェルさんの想像を絶するくらいに。どれくらい手強いかというと、想像を絶するから誰にもわからないのです」
「ぷっ! なにそれ!」
吹き出したのはフェルさん――ではなく、いつもはこういった話が始まると、“うへぇ” と顔面神経痛を発症するホビットの女の子でした。
「上等じゃない。いいわ。試してみましょう。言っておくけど、わたしも手強いわよ。その誰かさんの想像を絶するくらいに」
笑いを含んだ声で、フェルさんが応酬してきます。
「これは想像力の勝負ですね」
「ええ、想像力の」
ジグさんは元より、謹厳なレットさんやカドモフさんも、何も言いません。
それどころか探索中だというのに、このふざけたやり取りを歓迎しているようでした。
みんな……分かっているのです。
フェルさんが突然こんな会話を始めた理由を……。
そして今は何よりも、こんな会話が必要だということを……。
「――生きて、還りましょう」
「ええ、生きて必ず」
その決意を体現するように、わたしたちは死力を尽して迷宮と戦いました。
立ち塞がる魔物の群れを時に打ち倒し、時にやり過ごし、時に逃げ。
複雑な迷宮を一歩ずつ踏破し、少しずつ地図の空白を埋めて。
やがて、呪文を使い切り……加護も尽き果て……。
食料も……水も……角灯の油さえなくなった全滅寸前のわたしたちの前に、それは現れたのです……。
迷宮の床にポッカリと空いた暗穴に垂れ下がる縄梯子……。
わたしたちは抱き合い、涙を流しました……。
生きて還れる……。
生きて還れる……。
これで、みんなのところに……あの人の元に……還れる……。
・
・
・
「…………あ……ああ…………」
ドシャリ……と、わたしはその場に膝を突きました……。
最後の気力を振り絞って縄梯子を下りきったわたしたちの眼前に広がっていたのは、果てしなく……果てしなく広がる地底湖でした……。
あそこに見えるあの光……あれは “湖岸拠点” に灯された “永光”の輝き……。
でも……茫漠たる湖水が、その輝きとを隔てています……。
わたしたちは……拠点の沖合に浮かぶ、地底湖の孤島に下りてきてしまったのです……。
「……こんなのって……こんなのってないよ……こんなのって……」
パーシャが呆然と呟きました……。
疲れきり……汚れきり……弱りきり……それでも必死に自分を励まし、ここまで辿り着いたのに……。
還る場所は……目に見えるのに……。
冥い湖水が間に満ちていて……辿り着くことは出来ない……。
「ここよーーーーっ! わたしたちはここにいるわーーーーっ!」
フェルさんが涙混じりに絶叫します……。
本当に……本当に最後の力を振り絞って……。
「……ここよ……ここよ……わたしたちは……ここにいるわ……ここに……ううっ……うううっ……」
すぐに力尽きて泣き伏してしまったフェルさんの肩に、レットさんが優しく手を置く姿が、視界の端にぼんやりと映りました……。
油は切れてしまいましたが、火口石は残っています……。
背嚢や雑嚢に火を付けて、合図を送ることぐらいは出来るでしょう……。
上手くすれば、燃え尽きる前に気づいてもらえるかもしれません……。
でも、それがいったい何になるのでしょう……?
拠点には、湖を渡る船はありません……。
いくら “偉大なるボッシュ” さんでも、岩で船は造れません……。
船を造れるような材料は、この迷宮にはないのです……。
“転移” の呪文も、この小島の正確な座標がわからなけば使えません……。
引き返す……?
馬鹿げています……。
わたしたちにはもう、迷宮を彷徨うどころか、縄梯子を登る力も残されていません……。
疲労困憊で……ボロボロで……。
心は……折れてしまいました……。
内からの絶望に……完膚なきまでに打ち負かされてしまいました……。
誰もが無言でその場に座り込み……近くて遠い拠点の光を見つめます……。
「……休もう……眠ろう……眠れば、また気力が戻る……そうしたら……」
レットさんがリーダーとしての責任感だけで、言葉を絞り出しました……。
休んで……眠って……気力を取り戻して……。
魔法も、水も、食べ物も、油も……何もない状態で迷宮の四階を彷徨い、未だ見つかっていない二階への梯子を探す……。
そして二階に下りたら、今度は北西の角から南東の角へと向かう……。
わたしたちは……そのどこかで、きっと全滅するでしょう……。
戦いで傷を負っても、もう治すことはできません……。
すべての戦いから逃げきるだけの体力もありません……。
唯一残された護符と杖に封じられた魔法だけで突破できるとは、とても思えません……。
迷宮のどこかに人知れず “苔むした墓” を建てるくらいなら、ここでずっとあの光を見つめていたい……。
あの人がいる光を見つめていたい……。
ごめんなさい……もう……疲れてしまいました……。
そうして……わたしは両手を口に当てて……打ち震えたのです。
「……あ、あああっ……」
涙が見る見る溢れ、視界があっという間にぼやけます。
これは夢でしょうか?
それとも幻でしょうか?
疲労しきったわたしの脳が見せている、現実逃避の幻覚でしょうか?
きっと、きっとそうに違いありません。
遠くから、あの人が歩いてきます。
こっちに向かって、少しずつ近づいてきます。
でも、そんなことがあるはずがないのです。
だって……だって……。
レットさんも、ジグさんも、カドモフさんも、フェルさんも、パーシャも……。
誰も何も言わないのは、今わたしの見ているこの光景が見えいないから……?
それとも……それとも……。
やや前屈みの猫背で、湖の上をヒタヒタと歩いてくる……わたしの……わたしの……。
やはり、これは夢です……。
幻です……。
こんな馬鹿げた光景が、現実のはずがないのです……。
でも……でも……。
やがて……その人が、わたしの目の前に立ちました……。
「……無事か?」
いつもの仏頂面で、いつもの台詞を口にするアッシュロードさん……。
その腰にはなぜか、小さな船の模型の入ったボトルが吊されていました……。







