奥方
長い縄梯子を登りきると、湿度がまた下がった気がした。
地底湖から、それだけ離れたと言うことか。
ドーラが周囲を警戒する中、アッシュロードは自前の “示位の指輪” を使って、現在位置を確認した。
「――第五階層、“E11、N0”. 北を向いている」
二人が今いるのは一×一区画の玄室で、すぐ後ろに三階に下りる縄梯子がある他には、東に扉がひとつあるだけだった。
「じゃ、一当てしてみるさね」
「縄梯子の周辺を調べたら、今日は戻るぞ。脳味噌の疲労は聖水じゃ癒せない」
「わきまえてるよ」
ドーラはうなずく。
猫人のくノ一は口ではどうのこうの言っているが、相棒の迷宮での判断力には全幅の信頼を置いている。
地上でのズボラで怠惰な有様とは裏腹に、潜ってからのアッシュロードの判断力は怜悧の極みだ。
かつての自分たちのパーティは、この男の(時として神懸った、悪魔めいてさえいた)状況判断力と “悪巧み” で、幾度となく窮地を救われている。
グレイ・アッシュロードの真の価値は、剣の腕でも加護の奇跡でもなく、その脳味噌にあるのだ。
ふたりは、慎重に東の扉を開けた。
玄室の外は、南北に扉が連なっている長い回廊だった。
「一階の掘建て小屋区域を彷彿とさせるね」
あの区域も、このように回廊の左右を扉が埋め尽くしていた。
「南の扉は最北と次元連結してるな」
アッシュロードが右手に並んでいる扉を数えて、羊皮紙に描き込んだ。
「そんじゃ回廊の終端を確かめたら、北側から覗いてみようかね」
ドーラはそういうと、アッシュロードに先立って歩き出した。
猫人として先天的に、忍者として後天的に身に付けた鋭敏な感覚が、周囲の気配を探る。
小さな三角形の耳が音を、同じく小さな平べったい鼻が臭いを、猫の目が迷宮の闇の先を、六本の髭が微細な空気の揺れを感じ取る。
回廊は六区画続き、終端に達した。
東の突き当たりに扉がある。
「“E18、N0” ――E19で南東の角でないのが、どうにも中途半端だね」
「まずはここからだな」
舌なめずりするドーラに、アッシュロードが頷いてみせた。
人それぞれではあるが、外縁から埋めていく地図係は多く、アッシュロードもそのひとりだ。
端っこが埋まっていないのは、据わりが悪く落ち着かない。
目配せを交わすと、ふたりの古強者は無言で扉を開ける――。
◆◇◆
「ア、アンドリーナ……」
口から、戦慄が漏れました。
北の扉を蹴破り突入したわたしたちを待っていたのは、紫衣をまとった妙齢の女性。
完璧なまでに整った容貌。
白磁よりも白い肌。
対照的に、鮮血のように赤い唇。
それは紛れもなく、狂気の大君主上帝 “アカシニアス・トレバーン” の好敵手にして、“大アカシニア神聖統一帝国” を翻弄し続ける大魔女の――肖像画でした。
豪華な額縁に収まったその人物画は北側の壁の中央に飾られており、縦横五×二メートルほどもある巨大なものです。
“火の七日間” でわたしたちの前に姿を現したときには、フードを目深に被っていたため口元しか見えませんでしたが、この肖像画は違います。
すべてを晒し、コバルトの瞳が静逸にわたしたちを見下ろしていました。
皆がその瞳に吸いよせられるように……魂を抜かれたように……微動だに出来ません。
「――お、脅かさないでよ!」
最初に絵画の呪縛から解けたのは、精神的状態異常に強いホビットのパーシャでした。
憤慨する彼女の声で、わたしも含めた他の仲間たちも我に返ります。
「な、なぜ、アンドリーナの肖像画がここにあるのです?」
わたしは魔女の妖艶とも静淑とも見える微笑みから目をそらせないまま、怖々と呟きました。
「そもそも、この絵は本当にあの魔女なのか……?」
ジグさん一流の強がりです。
彼自身、この肖像画の主があの大魔女以外にありえないことはわかっているのです。
そう……わたしたち皆が分かっていました。
この肖像画に描かれている貴婦人が、“紫衣の魔女アンドリーナ” 以外にはありえないことを……。
それは、彼女と相対した者だけが持つ、本能の底にまで刷り込まれた畏怖の念を、この絵を見て確かに呼び起こされるからです。
「これが四階にいた “砂漠の民” が言っていた “奥方” ……?」
フェルさんが、やはり震える声で呟きました。
「ど、どうなのでしょうか……」
身体の中から湧き起こる “畏” の感情に、動揺を隠せません。
(……落ち着いて……冷静に……冷静に……これはあくまで絵です……例えアンドリーナを描いていたとしても、当人ではありません……)
バチバチッ!
と、わたしは両手でほっぺたを叩きました。
それから、大きく息を吸ってー、吐いてー、吸ってー、吐いてー。
最後に――。
「――あなたのTRICKなんて、まるっとお見通しです!」
むんっ! と眦を決して、アンドリーナの肖像画を指差しました。
Don’t koi、大魔女アンドリーナ!
みんなが呆気に取られた顔で、わたしを見ます。
「お、おかしくなっちゃった……?」
「いえ、おかしくなってはいません。むしろ平静さを取り戻しました」
泣き出しそうな顔のパーシャに、笑顔を向けます。
「みなさん、例え “大魔女” を描いたものでも絵画は絵画です。畏れることはなにもありません。わたしたちの畏れはこの絵からではなく、自分たちの奥底から湧き出しているのです。敵は魔女ではなく自分自身。そして自分になら勝てます。魔女の術中にはまってはいけません」
五人の一〇の瞳がパチクリしています。
「もう一度言いましょうか?」
「い、いや、大丈夫だ。君の言わんとするところは充分に理解できた、エバ」
コホンと咳払いをして、レットさんが頷きます。
なぜか、顔がとても恥ずかしそうです。
「確かに絵は絵に過ぎない。呑まれるなんて馬鹿げてる」
「そ、そうだな。はは、嫌な汗を掻いちまった」
「……俺もまだまだ修行が足りん」
「“そこはかとなく “ どころか、これ以上ないくらい滅茶苦茶怪しいわね」
「隠し通路の入口?」
レットさんに続いて、他の四人も口々に言葉を発します。
声を出すことで、心と身体の緊張を解そうとしているのです。
(……隠し通路ですか)
最後のフェルさんの言葉が、リフレインします。
(それでは……)
「――開け~ぇ、ゴマ!」
額縁の中から見下ろす魔女に向かって、両手を挙げて叫んでみました。
再び注がれる、一〇のパチクリした瞳。
「い、いえ、なんというかアラビアンナイト繋がりで……」
わたしはさすがに恥ずかしくなって、“あはあは……” と顔を赤らめました。
当然ですが、絵画にも玄室にも何の変化もありません。
「ど、どうも合言葉が違ったようです……」
モジモジ……モニョモニョ……。
「“奥方”! “奥方によろしく”! “よろしく”!」
わたしの “合言葉” という言葉を聞いたパーシャが、いくつかのワードを叫びました。
「駄目かぁ」
それから、わたしとパーシャは思い就く限りの合言葉を叫んでみました。
ことごとくハズレで、最後にはヤケクソで、
――メルロン!
とかも唱えてみましたが、そもそも意味が “奥方” ではないので、なんの効果もありませんでした。
「ひぃ、ふぅ、駄目だこりゃ」
「駄目ですね、こりゃ」
ちょっと休憩です。
もうネタがありません。
「~物理的な仕掛けの類でもないみたいだぜ。スイッチもなければ鍵穴もない」
並行して絵画の周辺を調べていたジグさんが、こちらもお手上げといった感じで戻ってきました。
「だとすると、やっぱり魔法の仕掛け……合言葉だよねぇ」
「……いえ、そうじゃないかも」
力なくボヤいたパーシャに、一番離れた場所から絵を見続けていたフェルさんが答えました。
「どういうことだ、フェル?」
「この絵を見て、なにかおかしなことに気がつかない?」
「? おかしなことですか?」
そう言われて再び肖像画を見上げます。
他のみんなも同じように見上げます。
「別にこれといって……奇麗な女性が描かれているだけだと思いますけど?」
「ああ、あの魔女の絵だってだけだと思うが」
首を捻るわたしに、レットさんが同意します。
「手よ。手を見てみて」
「手?」
「あの仕草。まるで何かを持っているように見えない?」
額縁の中の魔女は、紫と緋色の衣装をまとい、たおやかに椅子に腰掛けています。
左手は膝の上で軽く握っている感じですが、完全には握っておらず隙間があります。そして右の掌は膝の上で空を向いていて……。
「言われてみれば……なにか細長い、そうですね、“杖” のような物を持っているような」
意識して見てみると、フェルさんの指摘どおり、確かに空手では違和感のあるポーズです。
描き忘れ……いえ、そんなわけがありませんよね。
「――きゃっ!!?」
その時です! いきなり腰の雑嚢が、お父さんが書斎の机に大事に飾っている昔の “ミュージカン” のように、突然動き始めたのです!
「な、なんです!?」
び、びっくり仰天です!
まさか、知らないうちに小さな魔物に入り込まれていた!?
「エ、エバ、幼生! “大ナメクジ” の幼生!」
「ええーーーっっっ!!!?」
雑嚢を指差して叫けぶパーシャに、驚天動地のわたし!
そ、そういえば、“偉大なるボッシュ” さんがトイレに放り込んでいたのが、丁度この雑嚢に収まるぐらいの “大ナメクジの幼生” だった気が!
「いやだ! いやだ! 誰か、誰かとってくださーーーーーいっ!」
わたしは胸の前で両拳を握って、まるでフラフープをするように腰をグリングリン回しました!
もちろんベルトに通した雑嚢が、それぐらいで外れるわけがありません。
「お、落ち着け! 今とってやるから!」
「おいおい、人をナメクジ扱いするたぁ、随分な扱いだな」
……え?
今の、誰の声……ですか?
「ここだよ、ここ」
ここ……?
その声は、わたしの腰の辺りからしていて……。
「ったくあのお方の波動を感じて、すっかり誤作動しちまったぜ!」
カパッと雑嚢の上蓋が開くと中から顔を出したのは……。
「――イェィ、エバ! 久しぶりだな!」
赤と青の派手な模様のケープを羽織った、ノリノリな様子の…… “カエルさん” ……でした。







