聖女と暗黒卿
遠巻きにわたしたちを包囲していた海賊たちが、“見えない刃” の襲撃に大混乱に陥りました。
生来の “忍びの者” であるホビットが、身体を透明&無音にしてかき乱し・暴れ回っているのですからそれも当然です。
薄気味の悪いシベリアンハスキーだけはパーシャの位置が分かるため盛んに吠え立てていますが、混乱している海賊たちに忠犬ぶりは伝わりません。
雄叫びを上げて海賊たちに斬り掛かっていくレットさん、ジグさんに続いて、フェルさんとわたしも、戦棍と盾を手に突撃します。
わたしは何より、見えないパーシャの位置がわかるシベリアンハスキーに突き進みました。
もう以前のわたしではありません。
たとえ以前いた世界で愛玩動物として、また人間の純粋なパートナーとして愛されてきた動物が相手でも、迷宮で出会えばそれは “戦闘犬” の類いでしかありません。
わたしは体幹を軸に身体を捻って戦棍 に遠心力を溜めると、犬の頭に向かって振り下ろします。
――ブンッ!
空を切る、戦棍の柄頭。
(……速い!)
犬は決して侮ってよい相手ではありません。
それどころか中途半端なならず者たちなどより、よほど恐ろしい相手です。
特に戦闘訓練を受けた犬は、“紫衣の魔女の迷宮” では中層以降に出現し、数と俊敏な動きで探索者を眩惑し、隙を見てその喉笛を食い千切る強敵です。
わたしは戦棍を引き、盾を前に出しました。
飛び掛かってきたところを盾で受け、怯んだ一瞬に戦棍を叩きつけるつもりです。
しかし――。
首領の愛犬は、それ以上わたしと牙を交えるつもりはないらしく、飛び退って後ずさると、脇目も振らずに通廊の先へと逃げ去ってしまいました。
(……っ! 逃したっ!)
わたしは唇を噛みました。
あの不気味な犬は大勢の野蛮な海賊たちよりも、わたしの警戒心を刺激するのです。
ですが人間が犬を追い掛けて捕まえられる道理もなく、また状況もそれを許しません。
褐色の肌を諸肌に脱いだ大柄な海賊が、舶刀を手にわたしに立ち塞がります。
(よいでしょう! 今のわたしは、もう水中を後ろに進む “海老” ではありません!)
挑戦を受けて立ちます。
その直後、“心の迷宮” で彼を守り続けてきたわたしの一撃が、女だから与しやすしと安易に斬り掛かってきた海賊の脳天を粉砕しました。
ビュッ! と戦棍に血振りをくれて、闘志の籠もった視線を海賊たちに向けます。
(次は誰です?)
◆◇◆
防具の上に、ほんの一滴返り血を浴びただけのカドモフの右半身が石化していた。
石化は生体だけに効果がある “麻痺” の、上位互換とも言える特殊攻撃である。
その効果は、触れた物質を有機物・無機物を問わず石化させるという驚異的かつ凶悪なものだ。
カドモフは身体だけでなく、身に付けている衣服や装備までもが完全に石と化している。
この状態から回復させるには、聖職者系第六位階の加護 “神癒” が必要であり、アッシュロードはもちろん、現在この要塞にいる他の聖職者、エバ・ライスライトやフェリリルも授かってはいなかった。
つまり、アッシュロードが海賊船の船長と同化した 眼前の “妖獣” を倒せたとしても、身動きのとれないカドモフを担いで、火薬庫が吹き飛ぶ前に要塞を脱出しなければならないのである。
そして石化した物質は、たいがい元よりも遙かに重くなるものだった。
幹竹割りにされた顔面から、無数の細長く鋭利な触手を生やして、ヒュンヒュン! と通路の空気を切り裂いている “妖獣”
相変わらず、不安感をいや増す風切り音である。
自分たちに指図していた船長があいつらだったと知って、手下たちに激しい動揺と恐怖が走っていた。
全員が壁に背を張り付けて、言葉を失っている。
(……馬鹿が。とっとと逃げとけばよかったんだ)
これから “塵” と化して消える海の略奪者たちに、アッシュロードはほんの微かな憐憫を抱いた。
しかし、躊躇はしない。
左手に嵌めた魔法の指輪を正面にかざして、封じられた魔力を解放する。
“滅消” の呪文が解放され、二〇人以上いた海賊たちが瞬時に硬直し、その直後にさらさらと崩れ落ちた。
“妖獣” は、平然と触手を蠢かせている。
「――チッ!」
アッシュロードは自分の淡い――甘い期待が裏切られて、舌打ちした。
もしかしたらネームドの以下かとも思ったのだが、そんな都合よくはいかないようだ。
悪名高き迷宮保険屋。
そして今や死神と同義語の “灰の暗黒卿” として忌み嫌われている男は、頭の中で自分が採れる選択肢を洗いざらい漁った。
海賊の体内に隠れてはいるが、コイツの本体はあの軟体質な化物だ。
打撃系の武器は効果が望めず、かといって剣の類いで切り裂けば、石化効果のある体液を浴びてしまう。
(……俺の特異体質が、果たしてコイツの体液にも効果があるか)
アッシュロードはどういうわけか、自分が “致命の一撃”、“石化”、“麻痺” といった、生命力の多寡に関係なく相手を行動不能にする特殊攻撃を受け付けない体質であることを知っている。
実際彼は “紫衣の魔女の迷宮” で、石化能力を持つバジリスクの攻撃を幾度となく受けていたが、一度として “神癒” の世話になったことはない。
そればかりか、やはり石化能力を持つ “道化師” や、果ては “迷宮支配者” に至るまで、彼を石にした者はいなかった。
それほど、アッシュロードの体内に宿っている “悪魔の石” の加護は――魔王がいずれ依り代にする身体を守るために施した呪いは強いのだ。
だがこの “妖獣” は、その魔王すらも内包するこの世界の “理” の外に存在しているかもしれなかった。
アッシュロードにはそこまでの明確な認識はなかったが、漠然とこの “妖獣” の異質さは感じ取っていた。
これまで自分が遭遇してきた魔物たちとは、明らかに “種” が違う――と。
もし、今までの石化だと思って軽々しく斬って掛かれば、自分はここで間抜け顔の彫像になるかもしれない。
安全策を採るなら、エバ・ライスライトがしたように、加護を連発して生命力を削り取るべきなんだろうが――。
「――やっぱ、そんな余裕はねえよな!」
ヒュンッ、ヒュヒュンッ!
神経を騒つかせる風切り音を上げて襲い掛かってくる触手を、片刃の愛剣の棟で撃ち落としながら、アッシュロードは毒突いた。
手数の多い攻撃を放ってくる相手に、祝詞を唱えている余裕などあるわけがない。
好むと好まざるとに関わらず、アッシュロードは自分の特異体質に賭けるしか――信じるしかなかった。
さもなくば、このまま時間切れで足元に倒れているカドモフ共々、ここで爆死することになる。
アッシュロードは可能な限り飛び退り、掌の中で “悪の曲剣” を反転させ刃を敵に向けた。
そして彼にしては珍しいことに、短剣を抜くことなく左手も曲剣の柄に添えた。
大きく息を吸い込み――止める。
切っ先を右下段に下げた、どこかサムライ染みた構え。
目蓋の奥に、ずっと忘れていた幼馴染み少女が浮かんだ瞬間、アッシュロードは “妖獣” に向かって、強く、鋭く、踏み出していた。







