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迷宮保険  作者: 井上啓二
第四章 岩山の龍
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最初の戦い

『これはある意味、好機なのだよ。わたしがかねがね望んでいた機会を、向こうから提供してくれたのだ。これを奇貨として、わたしはこの目でリーンガミルの内情をしかと見てくるつもりだ』


 “王城(レッドパレス)” の筆頭国務大臣の執務室で、トリニティ・レインが意地悪げな表情を浮かべた。

 トリニティの悪戯を思いついたようなこの表情から、“リーンガミル聖王国” に親善訪問団を派遣する計画が動き出すわけだが、このとき彼女と、彼女の腐れ縁的な盟友であるグレイ・アッシュロードとの間にひとつの会話が交わされていた事実を、物語が新たな展開を迎える前に伝えておかなければなるまい。


『ライスライト、すまないが少しの間だけ席を外してくれまいか。隣の部屋に美味い菓子を用意してある』


 トリニティは、アッシュロードの隣にちょこんと引っ付くように座っているエバ・ライスライトにうながした。

 エバは聡い娘だ。

 ここからは一国の宰相と高級武官の会話なのだろうと思い、素直に席を立った。

 呼び鈴で呼んだ秘書官に案内されてエバが退室すると、トリニティは立ち上がり、キャビネットからブランデーの瓶とグラスを取り出した。


『やるだろう?』


『ああ』


 アルコールが主食のアッシュロードは当然の如く頷いた。

 ともすればエバよりも若く見えるトリニティもかなりイケる口で、表面上は酔ってなくても突発的にキレて、若い頃には酒場で “焔爆(フレイム・ボム)” の呪文を唱えたこともある。


 “少しは静かに飲まんかい!”


 先代の “獅子の泉亭” の主のこの言葉が、彼らのパーティの通り名の元になったのは懐かしい昔語りだ。


『“穏やかな会話(ソフトーク)” に』


『それに』


 ……チンッ、


 澄んだ音色を立てて、ふたつのグラスがぶつかり鳴った。

 蒸溜された芳醇な葡萄の香りが鼻腔を抜け、琥珀色の液体が心地良く喉を灼いた。


『いい酒だ』


 普段は安酒を大量に(あお)るという、もっとも身体に悪い呑み方をしているアッシュロードが、満足気に息を吐いた。


『宮仕えの数少ない役得のひとつだよ。まあ、自由の代価に得たものだと思ってくれ』


『なんだ、賄賂かよ』


『無償の贈り物と言ってくれたまえよ、君』


 そして、ふたりは穏やかに笑い合った。

 長い年月を経た友情でも愛情でもない、男と女の枠を超えた純粋な信頼が心地よかった。


『それで、()()()()の話ってのはなんだ?』


 アッシュロードは空になってしまったグラスに、名残惜しげに視線を落としながら訊ねた。

 わざわざ子供を退席させたのだ。

 聞かせたくない生臭い話があるのだろう。

 おそらくは国の機密に関わることだろうが……。


『ライスライトのことだ』


 だが、トリニティの口から出た話題は違っていた。

 グラスを弄んでいたアッシュロードの手が止まる。


『……彼女、痛々しいな』


『………………ああ』


 小さく答える、アッシュロード。


『やはり、気づいていたか』


『……』


 気づかないわけがない。

 アッシュロードは今隣室で幸せな顔で菓子をパクついているだろう、自分の借金奴隷を思った。

 例えひとりでもダンスを踊り続けなければ、倒れ伏してそのまま立ち上がれないような、歪なテンションの高さ。強迫観念。怖れ。

 気づかないわけがないだろうに。


『それで、あの娘の好きなように振る舞わせているのか。相変わらず不器用な優しさだ』


 トリニティは苦笑した。

 そして気の毒にも思った。

 この不器用な男には、そうする意外にあの娘への接し方がわからないのであろう。

 自分が穢してはいけないとわかっている “珠” を、手垢が付かないように必死に手の中で弾ませているのだ。

 思いがけず手に入れてしまった “手中の珠” を、この男は怖れている……。


『“心の旅” で彼女が負った傷は、とても深く重い』


 トリニティは、執務机越しにアッシュロードに伝えた。


『……知っているのか?』


『ああ、ノーラから聞いた』


『……そうか』


『だがノーラにも、もちろんライスライトにも、そのことは訊くな』


 これだけは、念を押しておかなければならない。

 アッシュロードが知れば、砂の城のようにもろいふたりの今の平穏は跡形もなく崩れ去ってしまうだろう。


『……わかった』


 アッシュロードは素直に受け入れた。


『それでいい』


 人には知らなくてよいことが、知らない方がよいことがあるのだ。

 それはもしかしたら、真実を知るよりも辛いことかもしれない。

 誰かと寄り添い、苦しみを分かち合うことで、人は孤独から解放されるのだから。

 だが、この男は常にそういう人生を歩んできたのだ。

 今回もまた、そうするだけなのだ。

 だが……。


『だがな、アッシュ。不器用で愚直なのはおまえの唯一の美点だが、それも時と場合によりけりだぞ。いつまでもあの娘に甘えるのはよせ。あの娘は強いが、何事にも限度というものがある』


『……』



◆◇◆


 そして現在(いま)、トリニティ・レインがいった “強い娘” が、アッシュロードにすがりついて、赤子のようにわんわんと泣きじゃくっていた。


 彼らが長い旅程の果てに、ついに目的地である “城塞都市リーンガミル” 近郊まで辿り着いたとき、異変は起こった。

 ランドマークである “龍の文鎮” の威容を眼前して、視界が歪み、重力が失せ、意識が消失。

 重度の酩酊から醒めたような、最悪の気分で再び意識を取り戻したとき、彼らは冷たい岩盤の上に横たわっていた。

 周囲は暗く、岩盤は結露していて、衣服は水気を吸って身体が芯まで冷えていた。


 アッシュロードが覚醒したのはエバ・ライスライトよりもわずかに後で、少女が自分を呼ぶ声が、彼の意識を呼び戻した。

 少女にとって不運だったのは、ふたりが少し離れた距離で再出現(テレアウト)してしまったことだった。

 暗闇の中、少女が半狂乱になって自分の名を叫ぶ声に、アッシュロードはふらつく頭で無理やり立ち上がり、声の元に走った。

 アッシュロードが呼び掛けに応え、彼女の名を叫び返すと、少女はアッシュロードにすがりつき、キツく力の限り抱き締めて、大声で泣き出した。

 周囲には彼らの友人たちも再出現していて、すでに意識を取り戻していたが、アッシュロードにすがりついて泣きじゃくる少女のあまりの痛々しさに、声を掛けるどころか動くこともできなかった。


『……大丈夫だ。俺はここにいる。ここにいるよ』


 アッシュロードは、まるで壊れ物を抱くように少女を抱き締めると、彼らしくない声で優しくあやした。

 アッシュロードは自然と(かいな)の力を強めた。

 少女の負った傷の重さと深さが、嫌でも伝わってきた。

 心が痛み、引き裂かれそうだった。


『……大丈夫だ。大丈夫。俺はここにいる。どこにもいかない』


 グレイ・アッシュロードの新しい迷宮での最初の戦いは、泣きじゃくる少女の心から、“恐怖” という名の見えない敵を追い払うことだった。



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