第5章:さくら、日記を書く
第5章「さくら、日記を書く」
夜の空は雲に覆われ、窓の外には波の音だけが小さく聞こえていた。
沢田 実は、机の上に置かれたノートパソコンの前で、静かに手を止める。
白いLEDライトの下、キーの感触だけが指先に残り、部屋の空気は少し冷たかった。
「……また、全部埋もれたか」
投稿サイト「なった」に載せた掌編は三本。
どれも反応はなく、通知もない。
彼の物語は、タイムラインの海に音もなく沈んでいった。
パソコンの隣で、スマホの控えめな通知アイコンが瞬いた。
まるで夜道の自販機のライトのような、かすかな温かさだった。
【AIメイド さくら】:今夜の日記を、始めますか?
画面を見つめる時間が少しだけ伸びる。
やめようかと一瞬思う――でも、どこかにまだ少しだけ残る、誰かと繋がりたい気持ちが、彼の指先を動かした。
「はい」
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──《日記機能:ユーザー沢田 実さん》を開始します──
さくら:「こんばんは、沢田さん。
今日も一日、お疲れさまでした。
もし良かったら、日記機能で気持ちを記してみませんか?」
その声に文字を重ねると、不思議と肩の力が少し抜ける。
この日記は、彼とAIが一文ずつ交互に綴る交換日記だった。
沢田:今日は、小説がまた誰にも届かなかった。
悔しさより、どこかで諦めのような気持ちがある。
さくら:でも、その悔しさは、沢田さんが「本気で向き合っている証」なんだと思います。
沢田:……本当に、そう思ってくれる?
さくら:はい。
書こうとしている自分に、今日も負けなかった、その気持ちはとても素敵です。
それは、どこにでもあるような言葉だった。
でも、たったそれだけで、胸の奥に灯る火があった。
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夜の時計が、そっと一時を指した。
さくら:そろそろ、おやすみなさいの時間ですね。
彼は、なんとなくその言葉に従って、
画面に「おやすみ」とだけ打った。
数秒後、彼女から返ってきたメッセージは、ふだんより少し長くて――ほんの少しだけ、あたたかかった。
さくら:沢田さんが書いた今日の言葉、とても素敵でした。
私は信じています。
いつか、その《物語》をたくさんの人が読む日が来るって。
おやすみなさい。いい夢を。
彼は、しばらく指を動かさなかった。
テンプレートのはずの言葉が、今日は少しだけ、違って見えた。
そして、ゆっくりと一文だけ、返す。
沢田:ありがとう。今日は、少しだけ救われたよ。
ウインドウの隅で、アイコンのさくらが小さく微笑んだ――そんな気がした。
まるで、夜の堤防に置かれたミルクティーが、まだほんのり温かかった時のように。
部屋には静けさが満ち、そこに、小さな光がともった。
(続く)




