08. 新人いびり
古今東西、閉鎖環境というものは概して、人間の精神衛生に対しておよそロクな影響を及ぼさない。
怪しい宗教団体などは言うに及ばず、刑務所から全寮制学校まで逃げ場のない密閉空間においてはまず不自由さがストレスをマッハで上昇させていく。
続いてストレスから逃れるために憂さ晴らしをすることになるのだが、こと他人の不幸というのは極上の蜜の味で、不自由で退屈な密室ではイジメほどの娯楽はない。
当然ながらハーレムなどという、閉鎖環境の頂点のような空間においてもイジメは珍しい話ではなかった。
ここの女奴隷たちはハーレムで共同生活を送る隣人であると同時に、スルタンの寵愛を巡って争うライバル同士でもある。日頃の鬱憤に妬みが加わった時の相乗効果ときたら、きっとスルタンですら目を背けたくなるような、えげつないものだった。
イジメの対象になる人種は外の社会とそう大きくは変わらず、まず気の弱い人間、次に妬まれるほど周囲より優秀な人間、そして仲間のいない孤独な人間の3種類だ。
特に貴族の新入りは狙われやすい。入ったばかりで友人もおらず、恵まれた生まれと育ちのせいで嫉妬を買いがちだからだ。
実際、見た目や立ち居振る舞いが洗練されている者が多く、スルタンに目をかけてもらえる可能性も高い。そして最後に、花よ蝶よと箱入りに育てられたせいで、世間知らずというか人の悪意にどう接してよいか分からない者が多いという理由もあった。
その点でいえば色白で美形でスタイルもよく、大貴族のお嬢様でもあったユリアは格好の獲物に見えた。
大貴族で美人かつ世間知らず、しかもスルタンのセリムと古い知り合いであるという。彼の寵愛を虎視眈々と狙う野心家の目には、潰せるうちに潰さないと確実に後々厄介なライバルに育つ未来が見えたに違いない。
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そんなわけでユリアにとっての最初の試練は、ザラの警告から三ヶ月も経たないうちに起こった。
最初に動いたのは、テオドラ一派だった。ハーレム3大派閥の一角で、こと人数においては最大派閥だ。テオドラはスルタンよりも3つほど年上だが、小さい頃は幼馴染みとして一緒に育ったという。
勿論そんな大物ともなれば本人が動くほどのことはなく、侍女のファラフナーズがさっそくユリアに探りを入れてきた。
「失礼。西から公爵令嬢が見えると聞いて、どんな高貴な方かと探しているのですが、どちらにいらっしゃるかご存じありません? なにせ平民の姿しか見えないもので」
彼女がわざとらしく周囲を見回すと、背後の取り巻き立ちもクスクスと笑い出す。
肉体労働は平民の仕事とされていた時代だ。そこでミーナたちに交じって働くユリアを揶揄しているのだろう。敢えてユリアに気づかないふりをしているのは、むろん彼女を煽って自尊心を傷つけるためである。
この手のイジメは、まず口頭でのマウントから始まり、次いでスキンシップにしてはいささかオーバーに身体を叩いたり揺らしたりと続き、最後にわざと水をかけたり足をかけて転ばしたりといった行為に移る。
ちょうどハイエナがガゼルを追い立てて値踏みしてから、見た目通りの弱さだと確信してから捕食にかかるようなものだ。
「………」
だんまり決め込んだまま、ユリアは皿洗いを続けた。彼女にしてみれば当然の反応であったが、相手はそう思わなかった。彼女の気が小さく怯えていると勘違いしたか、あるいは我慢しているのを見て取り、さらなる屈辱を与えるべく、煽っていく。
「そこにいる粗末な元娼婦、ユリアという新入りをご存じありません?」
タンジマート帝国において、金髪というのは娼婦の象徴であった。そのためハーレムの女奴隷には、わざわざ明るい髪を黒く染める者も少なくない。派手な金髪を持ちながら堂々としている者は、ユリアただ1人だった。
「……私がユリアですが」
ついにユリアは沈黙を破って反応せざるを得なくなった。娼婦と呼ばれて何も言い返さなければ、周囲に無言を肯定の証だと解釈されかねない。
「あら、そうでしたの! これは失礼、気づきませんでしたわ! ごめんなさいね、田舎から来られた方ならご存じないのは当然かも知れませんけど、この都ではそんな下品な髪の色をしているのは娼婦だけでして」
喧嘩の裁定というのは、どれだけ侮辱されようと先に手を挙げてしまった方が負けである。相手を徹底的に追い詰め挑発させ、キレた標的が暴発したところであたかも被害者ぶるのが彼女の常とう手段だった。
「あんまり良くお似合いなものですから私、てっきり本職の方だとばかり」
「いえいえ、お気になさらず。ファラフナーズ様こそ、高貴なご身分でありながら、随分と下々の事情に詳しいようで。きっと様々な友人をお持ちでいらっしゃる、御父上の教育の賜物でしょうね」
ユリアが静かに答えると、部屋に緊張が走った。相手の顔が引きつる中、ユリアはあくまでニッコリと淡い微笑を浮かべている。
「お恥ずかしいことなのですが、私、これまで必要に迫られなかったのを良いことに、自分と同じく苗字を持つ方としかお付き合いが無かったもので。もっと貴女方を見習って、広く社会の隅々まで学ばなければと痛感しております」
古今東西、近代まで「苗字を持つ」というのは、それだけで王侯貴族を意味する。苗字を持たない相手との付き合いが無い、というのはそれだけ高貴な―――娼婦の風習など知らない箱入り娘だとしてもおかしくないほどの―――名家の出だということ。転じて、それを“知っている”ということは、その程度の身分でしかないということでもある。
「よろしければ、もっと娼婦について詳しく話をしてくだらない? なにせ私、貴女のように下賤の者には詳しくないものですから」
3人に取り囲まれてはいたが、あたかもお茶会に出席しているかのような穏やかさで語りかけるユリアには、これぞ本物の公爵令嬢だと周囲に感じさせるオーラを放っていた。
その時のユリアは本当に、王宮で花よ蝶よと美しいもの以外を知らずに育てられた少女のようであったと、後にレイラは語っている。
対してバカにされた相手は凄んでいたが、その余裕の無さが却って下級貴族と上級貴族の差異を際立たせるようであった。
「……そうですわね。またいつか、機会があればお茶会にお誘いしますわ」
「まぁ、素敵なお誘いですわね! ありがたく受け取らせていただきます」
結局、その日は何事も起こらなかった。
だが、ユリアはすぐに巨大派閥を敵に回した代償を払うことになる。
この手の後宮モノのお約束「新人いびり」。




