27. 顛末
翌日、すぐさま宰相オルハンの命令で、気球飛行の再現が行われた。
ハーレム中の女奴隷が見守る中、宦官長サルマンが中央の中庭に立ち、気球の下にロープで吊り下げられた筏に乗る。
筏の中央には空気を供給する木製の手回し風車が、ちょうど乗員の腰ほどの高さに固定されていた。その少し上には4つの松明が灯され、風車を手で回すと大量の熱せられた空気が発生する。
球皮が完全に膨らむと、熱気球が静かに地面から浮き上がった。火と風の力で、静かに空へと昇っていく。気球の進行速度は見かけによらず、けっこう早い。その速さは馬をも超える。
だが、想像以上に風の影響を受けるため、思い通りの方角へ飛ぼうとするのは至難の業だ。筏には申し訳程度に帆のような舵が付いていたが、どれだけ役に立ったのかは疑わしい。
事実、サルマンは複雑な操作を一人でこなすことが出来ず、そのまま風に流されてハーレムの建物の屋根に乗り上げてしまった。
これでは気流に乗っても操作が大変だろうな、とレイラは思った。
しかし、あのユリアなら悪態をつきながらも、どうにか操作をこなして風を味方に付けてしまう気がしていた。暗い霧の夜の中、帝都の城壁を超えるまで約1キロ。冷たい風に揺られながら、ユリアは暗い夜空の中をつき進んだに違いない。
操作方法は恐らく、演劇の時に覚えたのだろう。
例の女奴隷たちで舞台『ハイレディンの海戦』を演じるため、彼女はわざわざリアルな帆船を作りたがった。「リアリティが欲しい」というユリアの熱意は、恐らく半分は本物だったのだろう。
だからこそ、皇后フランツェスもスルタン・セリムも、すっかり騙された。型落ちの小型帆船をユリアたちに与えて、宮廷の庭園にある人工湖を舞台に、本物の軍隊さながらの訓練を演劇要員の女奴隷たちに仕込んだ。
その中で、ユリアはいつも帆の操作を担当したがっていた。
体力も技術もいる面倒な帆の操作は誰もが嫌がったので、帆の操作はユリアがずっと行っていた。ユリアの奇行は割とよくあることなので誰も疑わず、いつも無駄にスピードを出したがるのも、単なるスピード狂だと妙に納得すらしていた。
(ところが、それすら操舵の困難な状況で風を制御するための下準備だったというわけか。まったく、どこまで考えていたことやら)
その時、宦官長サルマンが操作に失敗して屋根に激突した気球の残骸から、輝く何かがが落ちてくるのをレイラは目に留めた。
それは陽光を反射して黄金色に輝く、ユリアの金髪だった。彼女が自らナイフか何かで、大胆にも髪をばっさりと躊躇なく切り落とした姿が目に浮かぶ。
(まぁ「髪は女の命」なんて言葉ほど、あのユリアに似合わない言葉もないな)
演劇では、ユリアはいつも男役ばかりをやりたがった。その頃から下準備していたのか、あるいは単なる男装趣味なのか。それともその両方なのか、レイラには分からない。
野性的な強かさを感じさせる、彼女の男装の麗人は密かに人気があった。声まで頑張って低い声を出す練習などしていた理由も、今なら単なる凝り性だけではないことが理解できる。
――きっと最近、国境線の酒場か船着き場には、1人のやけに華奢な体つきの少年が現れたことだろう。
少し日焼けした顔に、日差しと風に焼けて艶を失ったボサボサの短髪。薄っぺらい胸に、意志の強そうな紫色のツリ目。やけに体毛が少なく女のようにひょろりとしていたが、短く刈られた髪に薄っぺらい胸を見れば、少なくとも去勢された男ぐらいには見えたはずだ。
その少年は生意気な表情と声変わり前の高い声で袖の下を渡し、神聖クライス帝国まで密入国できるよう交渉したに違いない。
悠然と国境を抜ける彼女の姿を想うと、つい笑ってしまう。
ユリア・ヴィスコンティ……ハーレムに放り込まれた悪役令嬢、後宮の魔女、そして己の力で再びその手に自由を掴んだ女。
そんな彼女の行き先は、きっといつか話をしていた帝国自由都市に違いない。あるいは、既に新大陸に渡る算段を付けている可能性だってある。
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ユリアの脱走はハーレムに衝撃をもたらしたが、1か月も経った頃には沈静化した。
理由は簡単、誰もユリアの真似をして脱走しようなどとは思わなかったからだ。あんな芸当、誰にでも出来ることじゃない。
「――それでその時、ユリアは依頼内容も聞かずにこう言ったんだよ。“ではまず、お代は幾ら?”ってね! あの時の大宰相のアホ面といったら!」
アイシャやアレクサンドラの前で、ザラが得意げに言う。
「それでさ、あの高慢ちきな大宰相が苦笑いの仮面を必死で張り付けながら“お代を聞くより先に、まず仕事内容を聞いて欲しいのだが”って! あんなの、忘れたくても忘れられないよ!」
ユリアの思い出話は、この頃にはすっかり食事の席での定番ネタで、彼女と親しかったレイラとザラ、ミーナはいつも他の女奴隷たちにその話を語って聞かせていた。
「ユリアのお陰で、個室まで持てた。しかも全員分!」
「全員ってのが大事なんですよね」
「その通り。ミーナ、良く言った。アイツはぶっ飛んでた奴だったけど、ちゃんとそのことを分かってた。そういうとこだよ」
ユリアがいなくなって寂しくなることもあるけど、彼女の話をすると自然と笑顔がこぼれた。自由になった彼女の話をすると、自分たちの心まで自由になった気がした。
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そんなわけでユリアの脱走はハーレム中を賑わせる大きな事件となったが、世間はいつも通りだった。
いかに有名人とはいえ、一人の女奴隷が逃げたぐらいでは、なんだかんだで軍隊も経済も簡単には崩壊しない。ユリアがガッツリかんでいた運河公社でさえ、すぐに次の総裁が重役の中から選ばれて今まで通り帝国の経済を担うことになった。
タンジマート帝国の経済はユリアの脱走からもしばらくは好景気で、さらに半年ほどは続いた。
―――だが、崩壊の引き金は思わぬところから現れた。
親戚筋の神聖クライス帝国を頼って亡命していたユリアの父テオバルドが、ついに祖国リグリアを奪還するための戦争を起こすべく、保有していたタンジマート帝国の銀行券や国債などの証券を、すべて金貨や銀貨に換金してしまったのだ。
まもなく株を買えなかった人や、もともとありえないほどの株価上昇に不信感をもっていた株式の仲買人などが、銀行券や運河公社株をせっせと正貨に変えて海外に持ち出すようになる。
それまでは銀行券と金貨&銀貨の交換に困ることは無かったのだが、普通の市民までもが売りがずっと続けば金貨と銀貨が不足することに皆が気づきだし、金貨と銀貨に自由に交換できないことにあちらこちらから不満の声が上がるようになった。
運河が実際に開通するまでは利益が出ないため、あまりの過熱を不審に思った人が運河公社株と紙幣を売り払い、金や硬貨に替えて海外に持ち出し始めたため、取り付け騒ぎが起こった。
取り付け騒ぎが起こると支払い能力以上の現金が引き出され、運河公社会社株は暴落、バブルは崩壊し、ムスル運河計画は破綻した。
さらにタンジマート帝国中央銀行の発行する紙幣を、より安全な資産である金や硬貨に替えようとした人々が銀行に殺到したが、これに対応出来る金はそもそも銀行になかった。運河公社株は倒産によって紙屑同然となり、同時に銀行券は金や硬貨と替えられないため価格が大幅に下落して経済は混乱し、投資家には借金だけが残った。
こうしてタンジマート帝国で始まった金融不況は西方諸国にも波及し、多くの商人や貴族が没落する大不況となる。帝国では暴動に反乱が続き、セリムもオルハンもその鎮圧に躍起になっていた。
そうなると、もはやハーレムどころではない。スルタン・セリムは皇后フランツェスが勧めたお気に入りの女奴隷―――大方の予想通り、ハーレム最大派閥を率いるテオドラが、幼馴染のパルミラや切れ者のカーヤを抑えて選ばれた―――を慌てて妻に迎え、残った女奴隷は半数以上が一夜のうちに“解放”された。
バブルのモデルは南海泡沫事件




