26. 大脱走
レイラの見る限り――着実に歳を取っていく間、ユリアは少しづつ計画を準備していった。
オルハンやセリムに接近し、そりの合わないフランツェスと折り合いをつけていったのも、誰もが彼女が自分の箱庭を拡大したいがためだと思っていた。それも間違いではないが、ユリア最大の目的は自分だけの庭付きの部屋を得ることだった。
ユリアの計画は恐ろしく周到に見えるが、最初から本気で脱走するために全てを仕組んでいたのかは疑わしい。
こういうのも失礼だが、ユリアは執念深いタイプじゃなかった。多分、半分は趣味の延長線上だったのだろう。運よく脱走に繋がればいいな、ぐらいにしか考えていなかったと思う。
ハーレムでの生活は恐ろしく単調だ。
放っておけば待っている退屈な日々に嫌気がさして、ユリアはカクテルづくりや劇団にコンサルティングなど色んなことをやっていたが、どれも当初は暇つぶしの一環でしかなかったはず。
「ユリアの様子がおかしい」
そして既に短くない付き合いである友人の僅かな変化を見逃すほど、レイラも鈍い人間ではない。
「最近、どうにも思いつめてるようなのよね」
妙な胸騒ぎを感じた時は、大体それは当たっていることが多い。特に、悪い予想であれば猶更だ。
レイラがミーナやザラ、他にもヤスミンやアレクサンドラといった知り合いを集めて何か変わったことが無いか聞いていくと、ザラが「あっ」と声を上げた。
「ひょっとして……」
「ザラ、何かあったの?」
「今朝、余ってるロープが欲しいって」
「渡したの?」
ザラが頷くと、レイラの顔が引きつった。自分で首を吊るのか誰かの首を吊るのか分からないが、とにかくユリアが追い詰められているらしいことは明らかだった。
「だってユリアがそんなことになってるなんて知らなかったし」
「落ち着け。まだ決まったわけじゃない。相手はあのユリアだぞ?ナディアとはわけが違う」
「分からないわよ。ユリアだって人間よ。どんな人間にも限界がある」
レイラを不安にさせていたのは、今朝のやり取りだ。いつものなら「イジメとかしてないし」と冗談めかして言う場面で、珍しく思いつめた表情でこう言ったのだ。
「イジメるつもりなんてなかった……でもそうね、イジメてたも同然だったのかも」
ユリアに異変が起こった原因に、レイラは心当たりがあった。
恐らく、例の「運河公社」の件だ。誰もが運河公社に投資する中、いつもなら商売っ気のあるレイラが頑として投資しようとしないことは、ハーレムの不思議の1つだ。
「友達なのに?」
「商売と友情は話が別よ」
正確にいえばレイラも最初の頃は投資していたのだが、あまりに急激な株価の高騰や帝国中が実体の無い好景気に沸き立っているのを見て引き上げたのだ。
(今回の好景気は、何かおかしいわ……)
レイラは、どうにもキナ臭いものを感じていた。確証は無いものの、ユリアが仕掛けたこの好景気には何か裏がある気がしてならない。
そしてユリアが最近、時おり思いつめているような顔をしているのも、決して無関係ではないだろう。全てが上手くいっていたら、あの単純で陽気なユリアなら素直に顔に現れるはずだ。
(注意して見守るしかないか……)
そう結論づけたはいいものの、一向に胸騒ぎは収まらなかった。
夜の闇が近づくにつれ、原始的な不安が胸を支配する。一刻一刻が苦痛に感じる、生涯で一番長い夜だった。
***
翌日の朝食に、ユリアがいないと最初に気づいたのはミーナだった。
朝食時にユリアがいない事は珍しいことではなく、気づいたミーナ自身それほど気にかけてはいなかった。もともとユリアは朝に弱いし、しばしば趣味の晩酌で寝込むことがあるのは皆が知っている。
それでも几帳面なミーナは、しっかり者の母親のようにユリアを起こしに彼女の個室へと向かった。
だが、どれだけ扉を叩いても出てこない。
この頃になるとミーナはユリアの秘書のようなポジションを務めており、その日も大宰相オルハンとの面談が予定されていた。そのため放置するわけにもいかず、ハーレム全ての部屋の鍵を持っている宦官長サルマンに相談する。
「入るぞ」
あっさりサルマンが扉を開けると、全てが一変した。ユリアの部屋はもぬけの殻で、机の上には書置きが1つ。
―――旅に出ます。探さないでください。
それから、大騒ぎが始まった。
宦官兵が続々とハーレムに入り、女奴隷たちは残らず自分たちの寝室に押し込められた。庭のプールからドレスが山ほど入った被服室、食糧庫にかまどの中まで捜索が入る。だが、誰もユリアを見つけることは出来なかった。
ハーレムから女奴隷が脱走した、などという話はタンジマート帝国が始まって以来聞いたことが無い。報告を受けたスルタン・セリムが入ってくると、宦官長サルマンは可哀そうなぐらい顔を真っ青にして震えていた。
「ハーレム中を捜索しましたが、どこにも見当たらず……」
「困ったことになったわねぇ」
皇后フランツェスは、どこか楽しげだった。いつも彼女は退屈さを破るものを何であれ歓迎しがちだが、この時ばかりはスルタンも苦々しげな表情を隠そうともしない。
実際、この頃になると経済に疎いスルタン・セリムも流石に例の「運河開発公社」のおかげで何やら大変なことになっていることに気づいており、その発案者であるユリアにも懸念を伝えていた。
どうもユリアはその度に現状整理と問題の原因の説明、そして対応策まですらすらと説明していたらしいのだが、もともと軍事にしか興味のないセリムは専門的な話を聞いてもほとんど理解できなかった。
そのくせ見栄っ張りなせいで、分かっても無いのに分かったふりをして「よきにはからえ」と丸投げしていたツケを払わされた事に気づいた。
そしてハーレムの外では、大宰相オルハンもまた顔を真っ青にしていたことだろう。かねてよりユリアの経済運営について「こんな賭博場みたいな経済が長く持つわけが無い」と警鐘を鳴らしていたのだが、その言葉の正しさが最悪の形で証明されそうになっていたからだ。
「ユリアとお前は親しかったな」
半日たってもユリアを見つけることができず、女奴隷たちは一人づつ呼び出されて尋問を受けた。特にユリアと親しかったミーナ、ザラ、そしてレイラはこってりと絞られた。
「何か聞いただろ。話せば悪いようにはせんぞ」
宦官長サルマンがレイラに脅すように言う。
本人は精一杯ドスを聞かせているつもりなのだろうが、宦官であるがゆえにその声は裏返っており、いつ責任を問われて処断されるか分からないという恐怖に震えていた。
「聞いてません。一言も」
それは事実だった。むしろ一言ぐらい何か言ってくれてもいいじゃないか、と思ったところでレイラははたと気づいた。
ユリアはしばしば、ハーレムの外の話をしたがった。新大陸での新しい商売だとか、帝国自由都市ライデンには見込みがあるだとか、リグリア共和国で自分と家族を失脚に追いやった新ドージェ一派に復讐するとか。
ずっと現実逃避の一種だと思い、現実逃避にしてはマシな方かなと楽しんで聞いてはいたのだが、ユリアはずっと大真面目で言っていたのだ。その証拠に、確かに今、レイラの目の前にあるハーレムという鳥籠からユリア・ヴィスコンティは姿を消していた。
――結局、ユリアの脱走方法が判明したのは、それから1週間も経った後のことだった。
捜査範囲をハーレムから王宮、王宮から帝都、帝都からその周辺まで拡大し、兵隊たちが手当たり次第に商店や民家に押し入って「最近なにか怪しいものは無かったか?」と聞き込みをしたところ、帝都郊外の農場でヘンテコな物体が見つかり、ハーレムまで運び込まれた。
運び込まれたものを見て、レイラは気づいた。これは、自分が長年ずっとユリアに卸していた布だ。絹や羊皮紙も混ざっているが、それを縫い合わせたらしい。
その途端、それが何なのか分かった。
「提灯だ!」
それは恐ろしく大きな提灯だった。よくよく見れば、提灯の下には小さな筏のような吊り板がついている。
(ユリアの奴、マジでやりやがった! 信じられない!)
あの日、ナディアの悲報を聞いた日の夜の事は、今でも鮮明に思い出せる。あれほど威厳と尊厳に満ちた光景を見たことは無かった。
ユリアは夜の中庭で、提灯を夜空へ飛ばしていた。さらに目の前の巨大な提灯に近づくと、筏の少し上には松明を固定していた跡があった。
それは後に気球と呼ばれるようになるものだが、とにかくハッキリしていることは1つだ。
ユリアは、ナディアを追悼するために作った提灯気球の巨大バージョンを作り上げ、皆が寝静まった頃、それに乗って空からハーレムを脱出したのだということ――。
もちろん、バレる可能性もゼロでは無かっただろう。夜ふかしした誰かが庭に出る可能性もあったし、夜間警備の衛兵に見つかるリスクもあった。
それでもユリアは意を決して断行し、かなり遅い時間帯に海峡から流れてくる霧に紛れて空から逃げ出すという賭けに出た。周到に準備をしてギリギリまで勝ち目を高め、そしてついには賭けに勝ったのだ。
ノリも尻も軽い女だったが、その行動力だけは誰もが認めざるを得なかった。しばしば彼女は突拍子もない発言をする夢想家だと思われていたし、実際に夢見がちな女ではあった。
ただ、見た夢を実現するために労力を惜しまず、日々の生活の中でコツコツと実現に向けて冷静に準備を続けていた点が、現実逃避との違いだった。ユリアは明らかに粘り強さと精神力の強さ、諦めの悪さと我慢強さにおいて、ただのホラ吹きとは一線を画していたのだ。
気球で夜逃げする系のヒロイン(主人公)。




