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第七十九話 Leriche症候群3

「うちの旦那なんだけど、最近調子が悪くてねえ。元気がまるでないんだよ。本人はあまり先生のお世話になるわけにはいかないって言うんだけど、診療を受けさせたほうがいいかもって思ってねえ」


 ギルドの酒場のマスターであるシング、その奥さんであるソフィアはそう言った。

 見た目は五十代のちょっと太めの女性である。昔はすごく美人だったのかもしれないが、今では酒場の豪快なお母さんというのがすごく似合う人だ。マスターであるシングさんもそれなりにがっちりした体型のひげ面だから、二人がそろうとそれなりに迫力がある。そうでなければギルドの酒場を切り盛りなんてできないのだろう。

 酒場の仕事を抜けてきているのだろうけど、すでにかなりの夜更けである。客も少なくなっている時間帯であるために彼女がそんな事を気にする素振りはない。


「さっきも足がだるいだるいって言うんだよ。それもここ最近はすぐに言うようになっちゃって」

「歩くとだるいんでしたよね」

「そう、痛いとか重いとかそう言う時もあるけどいつも同じ感じらしいわ」

「腰が痛いとかは言わないですか?」

「腰はないわね」


 そう言われてみれば、シングは両足のふくらはぎをさすっていた。休めばすぐに治るらしい。その症状には心当たりがあった。そしてそれが両足というところで僕の何かにひっかかった。待てよ、このまま行くともしかして……。


「それにだね……」


 ソフィアはちょっと言いにくいことでも言おうとしているようだ。


 しかし、僕にはすでに思いつく病気があった。そして、それが当たっていたならば僕はこれから聞きたくない話を聞かなければならなくなるかもしれない。シングとソフィアの年齢でまさかとは思ったが、その年齢であるからこそ聞いた時のダメージがはかりしれないほどにでかい。

 それもレナの前でシングとソフィアが何かをやっているところを想像したとか思われたくない。というか想像なんかしたくない。してない。してないから。



「ちょっと待ってください、ソフィアさん」


 僕は話を遮った。レナの前でしてはならない。絶対に阻止だ。酔いが吹っ飛んでいるのが分かる。ユグドラシルの町の城壁にリッチが現れた時ですらこんなに焦っていなかった気がする。


「も、もしかして、最近元気がないくせにマスターが浮気しているんじゃないかとか思ってません?」

「な、なんで分かるんだいっ!?」

「あー、もういいです。もういいですから、それ以上言うのはやめましょう。やめてください。お願いします」


 あまりに驚いたのか続きを言いそうになるソフィアをなだめて、僕は続けた。


「マスターの名誉のために言っておきますけど、最近調子が悪い原因が僕が思っている病気だったとしたら浮気はしてないはずですから安心してください」


 ソフィアは驚きを隠さない。レナは話の筋が分からなくて混乱している。


 僕はこういう日にレナがかなりお酒を飲んでて良かったと本当に思った。完全な思考能力を持ったレナならば、なにかしらのつっこみがあるかもしれないし、それをされると本当に困る。


「ちょうど、その病気の治療ができるようになるかもしれないんです。目途が立ったら診察させてください」


 ソフィアは上機嫌になって酒場に戻っていった。さっさと帰そうとする僕を、レナがいぶかしんでいる。


「え? 何の病気か分かったの?」

「うん。たぶん、血栓性けっせんせい大動脈分岐閉塞症だいどうみゃくぶんきへいそくしょうだ」


 血栓性けっせんせい大動脈分岐閉塞症だいどうみゃくぶんきへいそくしょう、正式病名はLericheルーリッシュ症候群という。腹部大動脈がヘソのあたりで左右の足のほうに分かれる部分が閉塞している病気だ。多くは動脈硬化でなるわけだが、外傷だとか血管炎だとかさまざまな病気が関係する場合もある。


 なぜ、わざわざ僕が血栓性けっせんせい大動脈分岐閉塞症だいどうみゃくぶんきへいそくしょうという名称を用いたか。それはこのLericheルーリッシュ症候群という病名の由来にあった。というよりもLericheルーリッシュ症候群と言えば僕の書いた本を読んでいるレナには何のことかばれてしまう可能性がある。


 そもそも血栓性けっせんせい大動脈分岐閉塞症だいどうみゃくぶんきへいそくしょうは1814年にロバート=グラハムという医師が発表した病気であるが、その後にルネ=ルーリッシュが1940年に三つの症状が出るということと共に発表し直したためにLericheルーリッシュ症候群という病名が一般的になった。その三つの症状というのが一定の距離を歩くと足に痛みが出ること、足が痩せてくること、そして最後が勃起不全ぼっきふぜんである。あれが、起たなくなる。


 大動脈の分岐部が閉塞するのだ。その先に血が流れるわけもなく、足だけではなく下半身全体に血が足りなくなる。血がたりなくなると、起つものも起たない。



 ソフィアはあのまま放っておくと、旦那との夜の性生活がなくなったという話をし始めるつもりだったのだ。

 そんなのレナの前でどんな顔をして聞けばいいというのだ!?

 だいたい、その年齢でまだ仲良くやっているというのは素晴らしいことではあるのだが、今の僕の精神年齢的に彼らは同じか少し低いくらいであって、そんな話を聞いて耐えられる精神を僕はしていない。それもレナの前で。


「足に血がいってないの?」

「うん、お腹まわりとか他のところから足が壊死えししない程度にはまわってくるけど、歩くとまったく足りなくなるから足が痛くなるし、やせていってしまうんだ。もちろん程度がひどいと足が腐ってしまうこともあるんだけど、ゆっくり病状が進行したんだろうね」


 ズボンをはいていたら足が痩せているかどうかなんて分からない。だけど、あの歩き方はたしかに医療用語で間欠性跛行かんけつせいはこうと呼ばれる、一定の距離を歩くと血が足りなくなって痛みやだるさ、重みなどが生じる症状だった。

 そして男という生き物にとって、使う使わないに限らず勃起不全ぼっきふぜんというのは精神的にくる・・。シングが元気がなくなるのも当然だった。おそらく彼はその原因が年のせいだと思っているのだろう。Lericheルーリッシュ症候群の原因は加齢からくる動脈硬化かもしれないので、あながち間違っていないが精神的にくるのは間違いない。本当にもう同情しかないし、同じ男として早く治してあげたい。

 

 勃起不全のことを全く伝えていないためにレナはまだ納得しきっていないようである。だけど、お酒のせいか早く帰って眠りたいという意欲の方が強いようだった。これに便乗してこの話は終わりにしようと思う。


「ちょうど人工血管が必要になりそうだ。明日はヴェールのこともあるし、忙しくなるよ」

「そうね、早く帰って眠りましょう」

「ああ」


 今度こそ診療所の戸締まりをして、僕らは僕らの家に帰ることにした。




 ***




 翌朝にユグドラシルの町の西門にたどり着くと、すでにそこにはヴェールがいた。


「今日は何をするの?」

「ゴブリンを捕まえて、新しく作った医療器具を試すんだ」

「え……結構えげつない事しているのね」

「今回が初めてだけど仕方ないよ、人に使う前にどうしても使えるかどうかを試しておかないとね」


 借りた馬車の中には手術で使う道具が入っている。と言ってもオートクレーブなどで殺菌したわけではなく、できるだけ代用品で済まそうと思っている。実際に手術に使う道具をゴブリンにというのは心情的にやりたくはない。それでも電気メスを始めとして替えのきかないものはあった。


「で、何をどうするの?」

「それはその場になってから説明するけど、詳しいことは教えられないよ」

「なによ、いいじゃない」

「駄目です」

「私もあの診療所で働くって言ったでしょ?」


 どこまで本気なのだろうか。彼女が魔法人形のような存在で、なにか他に目的があるのだとしたらそれは何なのだろうか。


 あまりにも情報が少なすぎて、僕はノイマンたちが何かしらの合図をしてくれるまで待つことにした。レナも不安な顔をしている。ヴェールが実力を隠しているかもしれないという話は今朝したばかりだった。


「あ、あれはノイマンたちじゃない?」


 馬車に揺られながらヴェールが指を指した。すでに馬車は町からある程度離れた郊外である。もう少し進めばゴブリンたちが出る平原だった。ここならば、いいだろう。


「降りようか」


 ヴェールが逃げられないように僕は馬車の車輪を固定した。前方ではアレンとノイマンが僕たちを囲むように広がった。他にもいる。あれはジャックとシルクだ。おそらくはノイマンたちが応援を頼んだのだろう。


「え? なにこれ?」


 後ろは僕らに任せたということか。



「ヴェール、聞きたいことがある」


 アレンたちがかなり近づいてから僕はやっと声を出した。

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