決意
「どういう事だ!!」
邸に帰り着くなり、男は長となって間もない夏月に食って掛かる。
「……済まん」
詰め寄られた方は、苦渋に満ちた顔で拳を震わせていた。
その様子にギリッと奥歯を噛み締め、男は一つ深呼吸する。
「それで、ヤブは何と言ってる?」
幾分、落ち着きを取り戻した声で尋ねれば。
夏月の顔は苦痛に歪む。
「分からないそうだ、意識が戻らなければ何とも……」
「……っ!」
怒鳴り付けそうになるのを寸でで堪え、男は踵を返してその場から足早に歩み去る。
「っ、秋……!」
呼び止める夏月の声が背に届いたが、男が振り返る事はなかった。
先代、奏月が他界したのは去年の終わり頃。
ぷつりと糸が切れた様に突然倒れ、そのまま帰らぬ人となった。
最後まで豪快な存在感は失う事なく、結果を見れば大往生ではなかろうか。
直ぐに夏月が跡を継いだが、間の悪い事に以前より流れていた眉唾な噂が。
笑い事では無くなってしまったのだ。
それは、州が統合されるやも知れぬと言うもの。
最も吸収されそうな州として、六州の名が上がっていた。
体調を崩されたと言う帝の容体も芳しくない様で、日に日に噂が現実味を帯びてきてしまう。
当然ながら州内に動揺が走り、それを抑えるには夏月は若く。
長としての経験も浅かった。
燻ぶる不安を打ち消せぬまま、どうするべきか悩む日々。
そんなある日、六州内に点在する五つの町の代表が織家を訪れ。
長に進言したのだ。
六州が預かる帝の皇女、冬音を一州に嫁がせろと。
冬音はもう少しで十六になる。
十五になった頃から、チラホラと輿入れ話が来はじめ。
その中に、第一州からの打診もあった。
合併を望むと噂されているのは、第一州と第二州。
次の帝の可能性が高いとされるのも、第一州の皇子。
望み通り皇女をくれてやる事で、六州の吸収を止めさせろ。
と言うのが、町の代表達の言い分であった。
確かに皇女を預かるとはそう言うもの、政治の駆引きの道具。
しかし今や冬音は大切な家族、心情的には納得できず。
さりとて代表達を黙らせる事もできず、知恵を欲した夏月は。
仕事で他州に出ていた秋津を、急遽呼び戻したのである。
男は部屋の戸を開けたまま、立ち尽くしてしまった。
「秋! お帰り」
中に居た睦春に、声をかけられた事で我に返り。
男は部屋の中へ入り込む。
「ただいま、……冬は?」
男の問いに、睦春の視線は目前の床に横たわる少女へ落ちた。
「熱が高くて…… まだ意識が戻らない」
「……」
床の側に腰を下ろし、男の手がそっと少女の頬に触れる。
途端、伝わる熱さに表情の険しさが増した。
「何が…… 何故倒れた?」
冬音が倒れたのは、秋津に帰郷を促す報せを出して直ぐの事。
その日も、町の代表達が夏月に詰め寄り不毛な押し問答が続いていた。
それまで当の冬音は、一言も口を挟むことは無かったが。
流石に見かねたのか、とうとう代表達に向かい宣言したのである。
「私が第一州に嫁げば貴殿方の気が済まれるやも知れませんが、その為だけに嫁ぐ気はございません。
それにより、確実に第六州の存続が叶うと言うのであれば喜んで嫁ぎます。
そうなる確たる保証はございますか?
無いと言うのであれば、それを得てから改めてお越しください」
これに代表達は鼻白んだ。
冬音の言う通り、皇女を嫁がせれば吸収されぬという保証は無いのだ。
返す言葉の無い代表達は、一度それぞれの町に帰る事を了承した。
漸く気の重いやり取りから解放され、一息ついたその夜。
冬音が高熱を出し倒れたのだ、それから意識が戻らず三日。
熱も下がらず、寝込んだまま。
帰宅してまずその事を聞かされた秋津は動転し、先ほど夏月に噛み付いた訳である。
「急だったのか、ずっと具合が悪かったのか……」
分からない、と睦春は小声で続けた。
冬音は具合が悪くとも口にしない、そのため周りが気をつけて見てきたのだが。
今回はゴタゴタしていて、気づけなかったのかも知れない。
冬音は常と変らぬ様子であったが、やはり己の扱いに対する話しを聞いていて。
心穏やかで居られた筈は無いのだ。
「一州に冬をやるだと?
彼処は確かに欲しいと言って来たが、病弱と聞いた途端に要らんと抜かしたんだぞ」
秋津は苦々しげに呻き、睦春は俯いてしまう。
「そんなところへ冬をやると言ったところで、此方の言う事など聞くかよ!」
「それは皆分かってるさ、ただ他にやり方を思いつかないから……」
元々、個別の部族が寄り集まり一つの国を成したのだ。
部族内、つまり州内の結束の固さは根強く残り。
土地に対する愛着も、誇りもある。
例え弱小であろうとも、合併吸収されるなど耐えられない事なのだ。
「次の帝が一州の皇子だなんて与太話を何故信じる、まだ子供だろう?
五州の皇子が最年長の筈だ」
秋津の疑問に睦春が顔を上げたが、眉根を寄せた渋い表情。
「二州が一州の皇子を推す気だと、噂を聞いてないか?」
「聞いたが眉唾だろう、早過ぎ……」
「報せが来たんだ、帝都から」
己の言葉を遮り、告げられた事に秋津は目を丸くする。
「……報せ?」
「来春、次期帝の選定の為に各州の長が帝都に呼ばれる。
正式な使者は、この夏くらいに来る予定だと……」
「もうそこまで話が進んでたのかよ……っ」
「だから、二州が動いてるのは確実らしい」
お互いに顔を顰めて俯き、黙り込んでしまう。
暫くして、睦春が真剣な眼差しを秋津へ向けた。
「なあ秋、護衛の仕事を辞めて夏を助けてやってくれないか?」
「何?」
「俺も頑張ってるつもりだが、なかなか力になれない。
他州の事も政治の事も素人だ、でも秋はあちこち見て来て俺達よりは知ってるだろう?
長になったばかりの夏に、この件は重過ぎるよ」
懇願する様に身を乗り出した睦春、その視線から僅かに目を反らせ。
秋津は溜め息をついた。
「それは…… またにしよう。
今はお前も夏も少し休め、俺が冬についてるから」
なおも食い下がろうとした睦春であったが、疲れているのも事実。
「看病と考え過ぎでまいってるだろ? 一度ぐっすり寝ちまえ」
秋津の言葉に反論の余地は無く、話しを切り上げ腰を上げた。
「春、夏に済まなかったと伝えてくれ」
部屋を出ようとした時、背中を向けたまま投げて寄越した秋津の言葉に。
睦春は暫し思案する。
ここまで聞こえていた、怒鳴った事への詫びなのか。
長の手助けをしてこなかった詫びなのか、どちらにしろ……
「それは自分で伝えろよ、何も今すぐじゃなくて良いんだから」
「……そうだな」
苦笑混じりの返答を聞き、今度こそ部屋を出る睦春。
庭に面した廊下は、仄かに茜色に染まり始めていた。
戸が閉められ、薄闇の降りた部屋の中。
横たわる少女の、急いた呼吸の音が耳につく。
男は改めてその顔を見下ろした。
熱の高さにも関わらず、常よりも青白い面。
瞼は固く閉ざされぴくりとも動かぬ、薄く開いた唇から忙しなく熱い吐息がもれていた。
「冬……?」
呼び掛けながら少女の額に触れ、返す手の甲で頬を撫でる。
熱い。
撫でた手を滑らせ、指先で唇をなぞれば。
焼けるような熱い吐息が、指を湿らせる。
「冬……」
触れても、呼び掛けても、何も反応を示さぬ少女。
男の中でえも言われぬ不安感が膨れ上がり、胃の辺りにずっしりとのし掛かった気がする。
――このまま目覚めぬかも知れぬ。
脳裏に浮かんだ言葉をすぐさま打ち消し、男は枕辺に置かれた水桶に手を伸ばす。
――熱さえ下がれば。
そう言い聞かせ、手拭いを濡らしかたく絞ると少女の額や首筋を拭った。
「熱が引かんな……」
夜、診療所の仕事を終えた光流が邸にやって来た。
冬音が倒れてから、泊まり込んでいる様だ。
「意識も戻らんか?」
医者の問いに、秋津は渋い顔で首を左右に振る。
「まずは熱を下げるしかないか、意識が戻らねば食事もできん」
「ヤブの熱ざましは効かねぇみてぇだな」
「失礼だな、身体の不具合ならすぐに効くさ。
今回はどうにも…… 精神面の問題かも知れん」
「……どうする?」
「仕方ない、少し強めの薬を出すからゆっくり飲ませろ。
あまり一度に多く飲ませるなよ、間違いなく徹夜だが文句は言わんだろう?
一晩かけて、湯飲み一杯分を飲ませろ」
「分かった」
珍しく素直に頷く秋津に光流は苦笑を浮かべたが、口に出しては何も言わなかった。
他の患者の診察などで、医者も疲れ気味。
秋津は一人で見るからと、光流を客間へ行かせた。
それから数時間。
皆が眠りにつき、静けさばかりの部屋の中。
男は三度目の薬湯を飲ませようと、少女をそっと抱き起こす。
不自然に揺れる身体、それでも意識が戻らない。
薄く開いた唇に薬湯を流し込む、反射で飲み込みはするが。
誰に飲まされているかも、分からぬだろう。
――ここに居るのに!!
不意に膨れ上がった己の感情に、男は大きく喘いだ。
目を開けて己を見ろ、強く揺さぶり叫びそうな衝動を必死で押さえ付ける。
再び華奢な身体を床に横たえた時、まるで心の叫びが聞こえたかの様に。
少女の両の目がぱかりと開いた。
「冬?」
目覚めたのかと、名を呼びその瞳を覗き込んだが。
焦点が合っていない。
ただぼんやりと、空を見詰めるばかり。
――耐えられない!!
少女が己を見ない事が、ここに居るの分からぬ事が。
突き上げて来る衝動を抑えきれず、男の手が細まった肩を掴むが。
「……え?」
僅かに少女の唇が動いた。
発せられなかった声、だが男の耳には聞こえた気がする。
『秋さん』
震える様に動いた唇は、確かにそう紡いでいたと。
「冬、俺はここに居るぞ」
食い入るように見詰める瞳は、やはり何も見ていない。
肩を掴んでいた男の手が、少女の頬を撫でる。
「もう一度呼べ…… 俺を見て呼んでくれ」
頬から唇へと、男の指先が滑る。
熱い唇をなぞる指に、カチンと硬質な感触が触れる。
その瞬間、男は衝動のままに動いていた。
身を屈めると、少女の唇に己のそれを重ねる。
「冬……」
そっと重ねては呼びかける、それでも反応を示さぬ少女の瞳に。
泣き出しそうな己の姿が映っていた。
「冬…… 戻って来い……」
男は深く、深く、口付ける。
先ほど指先に触れた、白珠の歯を割り忍び込めば。
中は焼ける様に熱い。
蠢く舌先がある一点を掠めた時、少女の身体に震えが走る。
宥める様に頬を優しく撫でれば、男の背に細く柔らかい感触を感じた。
それは少女の両腕。
震えるそれが、すがるように男の背に回され僅かな力がこもる。
しかし直ぐに力を失い、軽い音と共に床へ落ちた。
「冬?」
驚き顔を上げた男が見下ろせば、少女の瞳は閉ざされ。
幾分、落ち着いた吐息がもれていた。
――もう止めだ。
身を起こし少女の髪を撫でながら、男は苦笑する。
もう誤魔化せない。
どう足掻こうと消せぬ想い。
少女を失うかも知れぬ、その恐怖に思い知らされた。
報われぬかも知れない、拒絶されかも知れない。
泣かせるかも知れない。
それでも、もう消し去る事も誤魔化す事も出来はしない。
「お前が目覚めたら……」
伝えよう。
嘘偽りの無い己の本心を。
愛していると……
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