87. 交錯
「雨、降りそうですね……」
馬車の窓から外を眺めていたリーフィアが、独りごちるように呟いた。
「ん、そうね……。我らがウィーテリヴィアはいらっしゃるかしら?」
ベルグレッテも小さく答え、窓から外を眺める。
今にも泣き出しそうな空の下。
武装馬車は学院と王都の中間地点である、なだらかな谷へと差しかかっていた。
周囲にあるのは岩山だけの、荒涼とした風景。
わずかな草木も見当たらない殺伐とした景色を眺めていると、心まで荒んでくるような気がしてしまう。そんなことを思ったベルグレッテは、気分を変えるべく明るい声で提案した。
「ね、リーフィア。今日はこれから予定ある?」
「え……いえ、なにも、ありませんけど……」
「そっか。それじゃよかったら、一緒にお茶でもどう? たまには」
「えっ……、い、いいんですか?」
リーフィアは不安半分、嬉しさ半分といった表情で、同席している研究者の一人へと顔を向ける。
「ベルグレッテ殿が一緒ならば、問題ありません。夕刻までに帰ってきていただければ」
研究員の女性が柔らかい笑顔を見せた瞬間――ドンッと、馬車が揺れた。
「ひゃっ」
リーフィアがかすかな悲鳴を漏らす。
小さな石にでも乗り上げたのかと思うベルグレッテだったが、外から聞こえる激しい馬の嘶きが、そうではないことを物語っていた。
「何だ?」
同乗している兵士の一人が、張りつくように窓へと顔を近づける。
刹那。
窓ガラスを突き破って飛び込んできた大きな火炎弾が、兵士の頭に直撃した。
頭を炎上させながら吹き飛んだ兵は、反対側の壁へと叩きつけられる。そのまま、力なく倒れ込んだ。
「きゃあああぁっ!?」
「な、何だッ!?」
リーフィアや研究員たちの悲鳴、もう一人の兵士の怒号が重なり、馬車内が混乱の渦へと叩き落とされる。
ガクンと一際激しく揺れ、馬車が減速し始めた。
「……っ!?」
ベルグレッテは瞬時に思考を巡らせる。
――そんな馬鹿な。
昨日、ミアが流護に言った通りなのだ。
この武装馬車に襲撃をかけてくる酔狂な輩など、まずいるはずがない。基本的にこの馬車を利用しているのは、重要な役職に就いている者か、『ペンタ』ぐらいのものなのだ。襲撃を仕掛けるなど、自殺行為にも等しい。
とすれば。仮に襲ってくる者がいるとしたら、それは何も知らない愚か者か――それとも、
「窓に近づかないで、壁際で伏せて!」
ベルグレッテは研究員とリーフィアに指示を飛ばし、馬車の外へと飛び出す。
ほぼ停止するほど速度を落とした馬車から身を躍らせると、狙い済ましたかのごとく火炎弾が飛来してきた。
少女騎士は水流を展開させ、火の球へ叩きつける。消しきることはできず、軌道の逸れた火球が明後日の方向へと飛んでいった。
(重、い……っ!)
攻撃の来た方向を睨み据えるベルグレッテ。
岩山の高みに、馬車を見下ろす人影があった。風にたなびくブラウン色のローブを纏ったその姿。フードを目深に被っており、素顔は窺えない。身長も高すぎず低すぎずで、男性にも女性にも見える。
「ふざけんじゃねぇぞ、この野郎が! 気は確かか!?」
馬車を停止させて御者台から降りてきたひげ面の壮年男性が、ベルグレッテの隣に並び、人影を見上げて睨みつける。
「たった一人でこの馬車襲うなんざ、頭イッちまってんのか!? 与太話のネタにでもなりてえのかこら!」
御者の言葉に、ベルグレッテは思わず聞き返していた。
「え……一人? 敵は一人なんですか!?」
「おうさ、間違いねえよお嬢さん。襲ってきたのは、あそこにいるアイツ一人だ。他に人影はねえ」
周囲を切り立った岩山に覆われた道。赤茶けた岩の上に佇む人影。
武装馬車を襲撃するだけでも信じられないというのに、敵はそこにいる一人だけだという。無知な愚者か。それとも――
襲撃を成功させるだけの自信と実力を持つ、恐るべき手練なのか。
「下りて来んかい、おらっ!」
御者は右手に風を収束させ、こちらを見下ろすローブ姿に向けて放った。
ごばあっ――と凄まじい音を立てて渦巻く風の一撃が、襲撃者の立つ足場を砕く。崩落する岩が大地を振動させ、土煙を巻き上げ、周囲を覆った。
――と。
砂塵に染まった視界の向こうから、火炎弾が飛来する。
「おらぁ!」
御者の男性は風を巻き上げ、火球を完全に弾き散らす。
「ひゃっ……」
思った以上の風圧に、ベルグレッテがふらりとよろけた。
「おっと、大丈夫かいお嬢さん。久々の実戦なんで、気合入っちまっていけねえや」
ひげ面の御者は、にかっと豪快な笑みを浮かべる。
「お、お見事です。えーと……」
「おう、名前か? 俺はアントニスだ。光栄ですぜ、ガーティルード家のお嬢様。なんて、な」
屈託のない少年のように笑って、アントニスは砂煙の立ち込める中で身構える。その佇まいには隙がない。
「は、はは。心強いです」
ベルグレッテはアントニスの心配など『当然』しない。
馬車の運送業、その中でも街の外を担当する御者には、元傭兵や元騎士といった経歴を持つ者が多い。
基本的には安全な街道を行く馬車だが、時には野盗や怨魔に襲われる可能性のある危険な道を通ることもある。そんな中、客や荷物を無事に運ぶ仕事だ。脅威を退けられる猛者が望ましい。
アントニスも、背丈は流護より頭二つ分ほど高い程度と大きいほうではないが、身体は岩みたいにがっちりとしていた。右の二の腕には大きな古傷も見られ、突然の襲撃に全く動揺しないその振る舞いからも、かなり実戦経験を積んでいることが窺える。若い頃は戦場を渡り歩いたのかもしれない。
さらには一般の馬車ではなく、この武装馬車の御者を任されるほどの人物。並の騎士を遥かに上回る使い手であることは間違いなかった。
「自分でやっといて何だが、視界悪くていけねぇや」
アントニスが左腕を横に振るえば、巻き起こった風が立ち込める砂塵を吹き飛ばす。
周囲を切り立った崖に囲まれた谷の道。
二十マイレほど離れた道の中央に、ローブの裾をはためかせて立つ襲撃者の姿があった。
「ご無事ですか!」
馬車から兵士の一人が降りてくる。ベルグレッテが敵を見据えたまま「ええ」と頷くと、彼は襲撃者を睨みつけた。
「貴様、よくもオズムを……」
先ほど火炎弾を受けてしまった護衛の名前なのだろう。……やはり、助からなかったようだ。
兵士は腰から銀色の剣を抜き放ち、切っ先を刺客へと突きつけて高らかに吼えた。
「――雷の神、ジューピテルよ! 愚者に裁きを!」
バヂッと音を響かせ、剣先に収束した雷球から稲妻が迸る。
ローブの襲撃者は一歩も動かず、腕も振るわずに炎の渦を喚び出し、雷撃を打ち払った。
その刹那、アントニスがまさに風を思わせる速度で襲撃者へと肉薄する。
「ケンカ売ったのはおめぇさんだ。三対一だが、文句ねぇよな?」
竜巻のような風を右腕に渦巻かせ、アントニスは襲撃者へ向かって右拳を振りかぶった。
襲撃者はその場で避けるでも防ぐでもなく、大きく後ろに飛び退いた。アントニスの大振りの拳が、虚しく空を切る。
瞬間。
ゴバァッと凄まじい音を立てて、直前まで襲撃者のいた場所を、横殴りの旋風が食い破るように薙ぎ払った。
「ちっ、上手く避けるじゃねえの!」
アントニスはその場で、近接の間合いから逃れた襲撃者へ向かって左拳を突き出す。
拳から発生した突風を受けた刺客が、殴られたように大きく後ろへ弾け飛んだ。
「おらよ、終いだ!」
片膝をついた襲撃者へ向かって、右手をかざすアントニス。轟音を響かせ、手のひらに風が収束していく。一際、激しく集まる豪風。増幅の術式を組み込んでいる。
ローブの襲撃者は片膝をついたまま、体勢の立て直しが間に合っていない。アントニスの岩をも砕く一撃、その増幅版だ。この術が決まれば、間違いなく終わ――
(……違う!)
ベルグレッテは瞬時に察知し、叫んだ。
「アントニスさん、だめ――」
言い切るよりも早く。片膝をついた襲撃者は、小さな火の玉を鋭く放り投げた。
小石程度の小さな火の玉が、風に乗ってアントニスの手のひらへ吸い寄せられる。そのまま渦巻く風に接触、引火した。
「うおっ!?」
瞬時にして屈強な御者が炎の竜巻に包まれ、炎上する。
「ぐおああぁああぁ!?」
「ア、アントニスさんっ!」
炎に包まれながら転がるアントニスへ、ベルグレッテが慌てて水流を掃射した。派手な音と水蒸気を上げながらも、鎮火に成功する。
「だ、大丈夫で――っ!?」
言いかけたベルグレッテへ向かって、ローブの裾をたなびかせた襲撃者が走り込んでいた。駆け寄りながら構えられたその手が、妖しく輝く。
――近接武器を形作ろうとしている。この敵の属性は炎。この間合いならば、炎の長剣。
そう読んだベルグレッテは、迎え撃つべく双つの水剣を生み出し、身構える。
少女騎士の読み通り、敵がその手に神詠術を発動し――
「…………、!?」
そしてベルグレッテは、言葉を失った。
目の前で起きた、ありえない現象に。




