646. 変わらぬ朝
窓の外から届いてくる小鳥たちの囀りが、蓮城彩花の意識を少しずつ呼び覚ましていく。
「ん……」
薄く透けるカーテン越しに差し込む薄明かりの中で重いまぶたをどうにか開くと、すぐ隣にぼんやりと誰かの顔が浮かび上がってきた。
目をこすって視界をクリアにすれば、同じベッドに横たわるミアが寝息を立てていた。
ただでさえハネ気味な彼女の赤茶けた短い髪は、寝癖によって大爆発を起こしている。しかし、そんな様子も愛らしい。眠りは浅めなのか、小鳥たちの鳴き声が響くたびに小さな口元をむにゃむにゃと緩めている。これは紛うことなき小動物だ。
(んむ……)
そうだ。夕べは横になってミアとのお喋りを楽しんでいたが、いつの間にやら記憶がない。揃って寝落ちしてしまったようだった。
「…………、」
平和な朝の訪れに、彩花は心からの安堵を噛み締めた。
数日前のあの、アシェンカーナ族の里での恐ろしい夜が幻のようだ。同じ世界の中で起きたこととは思えない……。
「ん……」
身を起こして大部屋内を見渡すと、すでに空になっているベッドがみっつ。ひとつはミアがすぐ隣にいるからで、もうふたつはガーティルード姉妹のものだ。他のルームメイト……マデリーナたちは、未だ寝息を立てている。
(ほんっと規則正しいんだ、あの二人ってば……)
懐中時計を確認すると、時刻は朝の五時を少し過ぎたところ。
彼女らはとっくに起床し、朝の鍛錬を行っていることだろう。……いや、あの姉妹二人だけではない。
「……」
ミアを起こさないようそっとベッドから降りた彩花は、足音を立てないよう意識して部屋のドアへ。下の隙間から差し込まれている鍵を拾い上げ、廊下へと出る。施錠して、そうしてあったように下の隙間から鍵を室内へと滑り込ませた。
藍色の長い髪をたなびかせ、ベルグレッテ・フィズ・ガーティルードが肉薄する。
「ふっ!」
鋭い呼気とともに右手の木剣を縦一閃するが、有海流護はこれをひらりと半身に翻って躱す。
「はぁっ!」
その回避動作に合わせ、挟み撃ちとなる位置へ滑り込んだクレアリア・ロア・ガーティルードが右手に握った木剣による刺突を繰り出した。流護はこれを左手の腕甲で受け、そのまま滑らせながら横へと傾ける。
「――ちっ!」
いなされたと判断したクレアリアは躊躇なく木剣を手放し、その手をぐっと握り込む。拳による攻撃へと切り替え、振りかぶろうと弓引く素振りを見せた。
が、遅い。
「ぅわっ!?」
伸び切っていた彼女の右腕を掴んだ流護は、もう片方の手を相手の肩へと添えてその場でくるりとターン。
「っ!?」
遠心力に引っ張られたクレアリアはダンスでエスコートされたみたいに同じく横一回転し、
「っ、この!」
往生際悪く(誉め言葉)、密着状態から右の膝蹴りを繰り出してくる。
「おっと」
これを流護は同じく膝を上げることで受け止めて、もう一回転クレアリアの身体を横にぶん回した。ほんの少しだけ強めに。
「きゃっ!?」
「あぁっ!?」
その結果、軽々と宙を舞ったクレアリアは追撃するべく踏み込もうとしていたベルグレッテに体当たりをぶちかます結果となった。
いきなり突っ込んできた妹をどうにか受け止める姉だったが、二人揃って地面へと倒れ込む。
「いたたたた……、申し訳ありません、姉様」
「大丈夫よ、気にしないで」
揃って座り込む二人を見下ろしつつ、流護は気遣いの言葉をかけた。
「っと、大丈夫か?」
すぐさま睨みつけてくるのは妹さんである。
「全く! 余裕げで腹立たしいですねっ」
「……リューゴ、このところ身のこなしに一層磨きがかかっているわよね……まるで当てられる気がしないわ……」
生真面目な姉はというと、結果を噛み締めるように頷いた。
「『石驟雨』を捌き切ったかと思えば、あの『封魔』を真っ向から打ち倒すぐらいですからね……。もはや、単純な近接戦闘であればアリウミ殿に勝てる人間などいないのでは」
「はっはっ。早くも最強になってしまったか」
大口を叩いて笑う少年だが、もちろん実戦とはそう単純なものではない。
例えば今の流護が、あのシステマ使い――メルコーシアにリベンジできるかとなれば、それはまた別の話。
(仮に、野郎と闘って『線』が見えたにしても……)
相手の猛攻を避けることができたとしても、逆にこちらの打撃が当たるかどうか、といった根本的な問題がある。何せかつての一戦では、有効的な攻撃をまともに浴びせることができなかったのだから。
一方で、メルコーシアであればあの『封魔』にどう立ち向かうだろうか。いかにあの男……あのシステマの技巧であっても、あれほど頑強な怨魔に打撃を『効かせる』ことができるとは思えない。
(……、……俺らの予想が正しければ、多分あいつは……。……、まあそれは置いといて)
ともあれ、直接的な物理攻撃を得手とする二足歩行生物の最高峰とでも呼ぶべき存在だった、『封魔』ガビム・ガヴジーン。この相手に大したケガもなく勝利できた事実は、間違いなく流護が一年前から成長できていることの証であろう。
そして成長という観点で見れば、それは少年だけに限らない。
「てか、今のクレアの判断はよかったぞ。剣を受け流されたって一瞬で判断して、素手に切り替えようとしたろ」
実はこれは、容易にできる選択ではない。人は武器を手にしていれば、どうしても本能的に依存する。それが封じられても拘泥し、いっそ捨てたほうがいい状況であってもすがってしまい、結果として勝機を逃す。
「何もさせてもらえませんでしたが?」
ぶんむくれな妹さんだが、流護はいやいやと笑う。
「発想はよかったんよ。ただ、拳を握って振りかぶろうとする時間で隙が生まれた。クレアの場合なら『掌底』とかいいかもな。そのまま、スッと平手を突き出す。握り拳って手首がブレやすいから、殴った時に変な角度で当たったりして痛めやすかったりもするし」
手のひらを振りながら実演する。
「平手による突き出し、ですか。時折、苦し紛れに出すこともありますが……威力に乏しそうですね」
「実際、拳には劣る。でも正中線を狙えば充分な有効打になるし、その一撃で倒そうなんて思わなくていい。一瞬だけ怯ませるとか、態勢を立て直せれば御の字だ」
何より、神詠術などという異能が存在する世界である。その掌底はいかようにでも魔法的なカスタマイズができよう。流護にはできないやり方で。
「それでも的確な場所に的確な攻撃がコツンと当たりゃ、誰だって倒せるよ」
「貴方が相手でも、ですか?」
「当てさせねえけどな!」
「きーっ、腹立たしいっ」
「ははは。で、お前は何してん?」
クレアリアとのやり取りもそこそこにして、少年は顔を横向けた。
「わわっ、気付いてたの!?」
建物の角から顔を半分だけ覗かせていたその人物こと彩花が、驚き顔でうろたえる。
「あら、アヤカ……おはよう」
「おはようございます、アヤカ殿。これは不甲斐ないところを見られてしまいましたね」
「おはよう! 全然! そんなことないよ! 流護が脳筋なだけだよ……!」
姉妹に対するフォローなのか流護に対するディスりなのかよく分からない発言を放ちつつも、幼なじみの少女は心配げな視線を向けてきた。
「……流護。『白い線』とかいうの、今も見えてるの……?」
恐る恐るといった様子で尋ねてくる彩花へ、少年はかぶりを振る。
「いや。それが今日は全然見えんのよな。別にコンディション悪い訳でもないし……上手く言葉にできんけど、まあ今日はダメなんだろうな、って感じはする。これをいつでも見えるよう仕上げていかんとだな」
より一層ジト目になるのは座り込んだままの妹さんだ。
「『線』が見えてない貴方に、我々は一撃とて浴びせられない訳なんですね……」
「はっはっ。それはまあ、単純に実力差なんで……」
「腹立たしいですね!」
「すいません!」
「それにしても、未だに信じがたいわ。攻撃の軌道が、前もってはっきりと見えるだなんて……」
ベルグレッテが神妙な面持ちになるも、流護は言ってやる。
「それ言ったら君らには神詠術があるやん。俺にもちょっとぐらい変わった能力あってもいいべ」
とはいえ、『これ』は決してファンタジーな魔法の類などではない。
あくまで研鑽と集中の果てに至ったアスリートとしての感覚だ……と、空手少年は考えている。
この相手なら、今の立ち位置、心理状態ならばこう仕掛けてくる。そんな予測。
経験から積み重ねた、いわば『読み』の極致だ。
例えば日本国内の試合で大々的なアップセットを起こしたある総合格闘家は、これから放とうとしている自らの攻撃の予告線が見え、必中を確信したようなケースがあったという。
いずれにせよ、血の滲むような練磨と実戦の果てに至れる境地のひとつである。
「攻撃の予兆みたいのが見える……。片山先生が言ってたの、本当だったんだね……」
彩花も信じきれていなかったようだが、
「まあな。でも、史実でもそういう話ってあるんだよな。ガキん頃、ジジイが言ってたろ。合気道の創始者なんかもそうだったらしいし。銃弾の軌道とか見えたらしいぞ」
しかし偉大な先達たちと同様の感覚を会得したとはいえ、自惚れるにはまだ早い。これを活かせなければ意味がないのだ。
まず、ソーンに入る頻度を少しでも高める必要がある。師たる片山ですら常時ではなかったとのことなので難しいかもしれないが、少しでも確率を向上させる必要がある。
先のガビム・ガヴジーン戦では、攻撃が来ると分かっていながら、その予告線上からの退避が間に合わない場面があった。見えても動けないのでは何の意味もない。
少しでもゾーンに入れるよう自らを高める。
そして、いかなる状況でも即応できるようフィジカルを鍛える。結局はこれまで同様、日々の修練を続けねばならないことに変わりはない。
「けれど……もし自在に見えるようになるとすれば、これほど心強いことはないわよね。暗闇の中でドボービークの攻撃を躱しきれたのも、その白線が見えてたからなんでしょ?」
「まーな。うっすらとだけど」
少女騎士の言に同意する。あれには流護自身驚いたのだ。
一切が見えない漆黒の闇の中ですら、敵の攻撃の軌跡だけはそれとなく知覚することができたのだから。
あの狡猾で残忍、それでいて臆病な小さい怨魔が、闇に乗じたならどのように襲いかかってくるか。攻撃時にいちいち寄声を発していたこともあって、比較的『読み』やすかったのだろう。
特に皆には話していないが、このバルクフォルトへやってくる道中の『空賊』戦もそうだった。
そこまで明確にではないが、うっすらと攻撃の兆候を捉えることができていた。背後からの攻撃も、天空から降り注ぐ石礫の豪雨も。
そのおぼろげな感覚が自信となり、パフォーマンスに繋がっていた部分は間違いなくある。
もっと遡れば、近頃は目の調子に以前にはなかったような違和感を覚えることが増えていた。
(……つか、そもそもこうなった切っ掛けは――)
立ち上がって服の埃を叩いたクレアリアが懐中時計を取り出す。
「おや、もうこんな時間ですか」
釣られて時間を確認してみれば、すでに六時になろうとしている。
「本日は朝から合同討論でしたね。鍛錬もよいですが、勉学も怠らないようにしなければ……」
「ふふ、そうね。リムちゃんに、頼りになるところを見せておかないとだものね」
そんな風に微笑む姉に対し、妹は納得のいかなそうなむくれ顔となる。
「べ、別にリム殿は関係ありませんがっ」
流護から見ても分かりやすい。
クレアリアは明らかに、リズインティ学院との共同学習でコンビを組むことになったリムという少女に対してお姉さんぶっている。まあ昔なじみのようだし、普段の面子の中では自分が最年少のため、余計にそうしたい思いもあるのだろう。
「では、私はお先に部屋へ戻ります。そろそろレノーレが起きている頃でしょうし。アヤカ殿、部屋の鍵は?」
「あっ。かけて、下の隙間から部屋の中に入れちゃったけど……」
「ええ、構いません。承知しました」
去っていくその背中を見送った彩花が尋ねてくる。
「二人はまだ続けるの?」
「ベル子はまだおっけーか?」
「リューゴが大丈夫なら付き合うわ」
「あーはいはいそうですかそうですか!」
「いや、何急にキレてんのお前……」
なぜか突然投げやりになる彩花。相変わらず情緒がジェットコースターである。
「うし……じゃあベル子、例のやつ頼むわ」
「あ……うん、分かったわ」
「うっわ例のやつとか言っちゃって! はいはい阿吽の呼吸! 行きつけのバーかな!」
「いやさ……どうした? つかちょっと静かにしといてくれんかお前……」
いきなり精神が荒廃した幼なじみをなだめつつ、少年と少女騎士は互い数メートルの間を保って向かい合った。




