641. 兆候
「あちゃ。思ったより戦況分析できてなかったわ、リューゴくん」
「え? え!?」
たはは、と笑うナスタディオ学院長を彩花が二度見する。
「普通に勝つ気でいるみたいねぇ」
「……、」
だが、当然といえば当然だとベルグレッテは思う。
流護は、ガビム・ガヴジーンの逸話など知らないはず。そして、仮に語り聞かせたとしても無駄だ。むしろ知ったなら、より燃え上がる。
「実際、どうですか。学院長の見立てとしては」
どかした椅子を端に寄せつつ、クレアリアが尋ねる。
「そーねー。もしかすればリューゴくんなら、って思わせるものはあるわよね。攻撃術の威力を軽減する『封魔』の体質も、彼には関係ないし。とはいっても……今しがたの交錯を見ての通り、奴は結局のところリューゴくんの一撃をものともしてない。そりゃまあ、矢弾の掃射でも死なないぐらいだもの。でも逆に、リューゴくんが攻撃を一発でももらってしまえば……」
皆の視線が格子窓の外へ注がれる。怨魔の足下で横たわり、動かなくなってしまった人物。近くで転がる曲刀の持ち主へ。
「果たして可能なのかしら。手を伸ばせば届く超接近戦の間合いにおいて、一度も相手の攻撃をもらわず勝つ……なんてコトが」
「できる、と思います」
即断だった。
その答えを発したのは、ベルグレッテ――ではない。皆が注目する。腰を落ち着けて窓の外を見やる、蓮城彩花という少女に。
「アラ。言い切るじゃなーい。愛かしら?」
「流護の師匠が、そうでした。たった一発の攻撃ももらわないで勝っちゃう……っていうことが、何回もあったんです。なら、弟子の流護にだって……」
彩花は学院長の軽口には取り合わず、真剣な表情で外を……そこに立つ幼なじみの少年を見つめる。
「リューゴくんのお師匠さんとやらを知らないからアレだけど……今回の相手は、ちょっと穏やかじゃないほどの怪物よ」
「それでも、四肢を持って二足歩行をしてる。それなら……空手は、格闘技は通用します。……って、流護は前にそう言ってましたから」
「……一理あるかも」
ぽつりと言ったのはレノーレだった。
「……カラテの技術についてはよく分からないけど……今のリューゴは、間違いなくバダルノイスの時より腕を上げている。……あれからそんなに時間は経ってないけど、確実に強くなっている」
確かに、とクレアリアも同意する。
「まさか、『空賊』の『石驟雨』に対し真っ向から反撃するとは思いもしませんでしたからね」
二人の意見を受けて、学院長はわざとらしく肩をそびやかした。
「アラアラ。皆、気が付いたら随分とリューゴくんの虜になってるのね~」
「なってませんが」
即座の返しのクレアリアにはあえて付き合わず、年長者はこちらへと視線を転じてきた。
「で、ベルグレッテはどう思う? ……って、アンタには訊くまでもないか」
「ど、どうしてですか」
なぜか悟った風なジト目を向けてくる学院長に対し、少女騎士はややムッとして意を問う。
「だってどうせ、『リューゴならばどうにかしてくれるはずです』とか何とか言うでしょ、アンタ」
「そ、そんなこと……」
つい言い淀むと、彩花がやや口先を尖らせてこちらを見つめてきていることに気付く。
「……アヤカ、リューゴに闘ってほしくないんじゃなかったの?」
ひたすらうろたえていた彼女が、今はむしろ堂々と構えている。
その急な変化が気になったベルグレッテは、当人へと問いかけた。と、彼女はやや不服そうに頬を膨らませる。
「だってそう言うと、流護がやるしかないとか、信じてあげてとかって言うじゃん」
「それは……」
「だったらもう、私は信じる……。そりゃ怖いよ。戦ってほしくないよ。でも……」
祈るように、彼女は両手を胸の前で組み合わせた。
「今は……流護が負けるはずないって、信じる……!」
その姿を見て、ベルグレッテの胸の中に複雑な思いがよぎる。
彩花にそうあれと言ったのは自分自身だ。なのにいざこうなると、それはそれでモヤモヤした思いが巻き起こってくる……。
「おっほ」
学院長の楽しげな感嘆。同時、鎚で家屋でも叩いたかのような轟音。
ガビム・ガヴジーンの一撃をまたも回避した流護が、交錯法で拳を命中させたのだ。
「アレを一回成功させるだけでも奇跡じみてると思うけど……リューゴくん、当たり前のようにやってくれるわねぇ~」
名酒の風味を楽しむかのようなご機嫌ぶりだ。
「共に、『邪竜』を凌駕する怪物と人間。はてさて、どっちが上なのかしらね?」
だが、学院長が唸るのも頷ける。紙一重の回避から、同時の反撃。絵に描いたような、完璧すぎるほどの。
「…………」
「ん? どうかした? ベルグレッテ」
顎先に指を添える少女騎士に気付いたか、学院長が目ざとく尋ねてくる。
「……いえ。……実は、最近のリューゴについて……少し、気になっていることが――」
声をかき消すような轟音の連続だった。
一、二、三。剛腕を振り回す『封魔』に対し、流護は全て交錯法を成立させていく。
「……、……か、彼は、本当に人間なのか……?」
御者の兵士が信じられないように呟く間にも、外の戦闘はより熾烈さを増していく。
黒い右腕。
無造作に、横殴りに――そして暴悪に振り回されるそれを、流護は紙一重のスウェーで外す。髪が逆立つほどの風圧を受けながらも、左足を一歩前へ。渾身の右拳を巨大な牛面へ叩き込む。
だがまるで意に介さない相手は、返す刀で左腕をやはり豪快に薙ぐ。間一髪のダッキングでこれを潜った流護は、右足を踏み込んでスイッチしてからの左ストレート一閃。
しかし、直撃を受けたはずのガビム・ガヴジーンは何事もなかったかのように引き続き腕をぶん回す。流護は、その全てに対し回避ざま拳を合わせてカウンターを成立させていく。
されどまるで効いた素振りを見せない怨魔は、平然と前へ出ながら連撃を見舞う。掴まれる訳にはいかない流護は、後退しながら拳を当てていく――。
「……俺は、何を見てんだ……? これは現実か? 何だ、この闘いは……」
「あの『封魔』相手に……真っ向から、拳だけで……」
集まってきた傭兵たちが、広場で繰り広げられる戦闘に呆然とした視線を送る。
「し、しかし……これは、互角なのか?」
「攻撃を当ててるのは遊撃兵だが……」
「前に出てるのは『封魔』の方だ……」
彼らの言葉が示すように、判断の難しい展開だった。
次々と拳を直撃させているのは流護。一方で、ガビム・ガヴジーンはいくら殴られようともお構いなしに前進を続ける。ひたすらに腕を振り回してくる。
アキムがわずかに渋い表情でかぶりを振った。
「人と怨魔だ。いかに拮抗して見えようと、互角ではありえんさ」
一流の詠術士だろうと『ペンタ』だろうと、人間が強大な怨魔を撃滅するためには幾度も術を叩き込む必要がある。
一方で怨魔は、一流だろうと『ペンタ』だろうと、人間など一撫でするだけで殺せる。
原則、その力関係は変わらない。
「いかに遊撃兵殿といえど……一度でも喰らえば終わりだ。『封魔』の膂力を考えたなら、防御はもちろん……掠める程度も許されん」
アキムの評は正しい。
流護の最低勝利条件は、ガビム・ガヴジーンの攻撃を一度ももらわずに倒すこと。
パーフェクトゲームか、それとも死か。待ち受ける結末は、あまりに両極端なその二択しか存在しない。
そして、である。
「けど、可能なのか……? 一発の攻撃も受けずに倒す、なんて真似が……。正直、今……リューゴが避け続けてることすら、僕には神業を超えた奇跡にしか思えない……」
エーランドの呻きはこの上ない正論だ。
こうして悠長に戦局を眺めている次の瞬間にも、終わりが訪れるかもしれない。
長距離戦を得意とする詠術士が射撃に終始し、遠間を維持したまま相手を完封するのとは訳が違う。
手を伸ばせば届く。互いの息遣いすら聞こえるような間合いにおける格闘戦で、一度も相手に触れられぬまま勝利することなど可能なのか。
(ま、無理だよな)
『死』そのものでしかないガビム・ガヴジーンの剛腕を掻い潜りつつ、当事者である流護は他人事みたいにそう判じた。
例えば、ジャブ。距離計測の役割も兼ねるそれは、互いに当てる……当たることを前提とした牽制打だ。
(たまに起きるよーな開幕ワンパンKOとかは別としても)
人同士の闘いですら、少なからず双方の攻撃は当たる。全く触れられないことなどほぼないと思っていい。相手が人知を超えた獣となれば、もはや言わずもがな。
つまりわざわざ論理的に考えるまでもなく、ただの人間が何の恩恵もなしに『封魔』を真っ向から打ち負かすことなど不可能。こんな間合いで続けていれば、いつかは何かしらの攻撃をもらう。流護の身体能力をもってしても、だ。
(…………なんだけど)
その常識を認識しつつ、格闘少年はまたひとつ唸り飛んできた怪物の手を躱す。そして、返す刀のカウンターを突き刺す。
なお勢いの衰えないガビム・ガヴジーンに対し、下がりながらも的確に拳を当てていく。
不可能だ。考えるまでもない。
単純に、身体全体の動きよりも手を伸ばし触れるほうが速い。
熟練すれば相手の構えや肩の動き、わずかな前兆から察知して攻撃を避けることもできるようにはなるが、全ての攻撃に対しそれが可能かと問われれば話は別。
無類の英雄と呼ばれるようになった今のレヴィン・レイフィールドであっても、その認識は変わらない。
(往年の陛下ではないが……)
拳闘士として栄華を極めたヴォルカティウスも、現役後半は対戦者の攻撃を面白いようにいなして反撃する、といった戦法が際立っていた。
だがもちろん、一切相手の攻撃が当たらなかった訳ではない。的確に防ぐ、あるいは急所とならぬ位置であえて受けることで耐える。そうした守りの技術もあってのこと。
しかし今、流護に求められているのはまるで別次元。
全ての攻勢を完璧に避け、己の攻撃だけを当てて倒す。しかも、相手は数百発の射撃にすら耐えるとの伝説が残る『封魔』。
そのような所業、果たしてあのガイセリウスにすら可能なのか――
がぁん、とそれこそ砲撃じみた残響。
またもガビム・ガヴジーンの腕を潜った流護が、右の拳を当てたのだ。
よくぞ、と驚嘆する。完璧な回避と反撃は、もはや芸術のようだ。
「……、」
はた、と気付く。
(……そうだ。彼は……、――)
思い至ると同時、レヴィンはふと視界が眩むのを自覚した。
余計な思考に意識を割くと、光球の維持に支障が生じてしまう――
「大丈夫かね」
にわかにふらついた肩を支えたのは、アキムだった。
「光源の維持、ご苦労だった。もう君の手を煩わせることはない」
その言葉に周囲を見やると、ダスティ・ダスクの団員たちがいつのまにか火のついた松明を持ち寄っていた。
「……では、ご厚意に甘えましょう……」
ここまで維持し続けていた雷球を消滅させると、どっと肩の荷が下りた感覚に襲われた。
光源が松明のみとなりやや照度が落ちた広場で、流護と『封魔』はその変化を意識することなく接近戦を続けている。
「レヴィン様!」
駆け寄ってきたエーランドに反対側の肩を押さえられた。
「大丈夫だ、エラン。ありがとう」
直後、礼の言葉がかき消されるほど――ごっ、ごぉんと山間に木霊する大音声。
ガビム・ガヴジーンの両腕を当たり前のように潜り抜けた流護が、左右の拳を叩き込んだ残響だった。
奇跡じみた回避と反撃を幾度も成功させている……どころではない。手数が増え始めている。
「……、なんであんな真似ができるんだ、リューゴは……」
エーランドの呻きは、この一戦を見守る者全ての思いを代弁しているだろう。
ここでまず、恐るべきは『封魔』だ。
鈍重な外見と佇まいに反し、いざ攻撃に移れば常軌を逸したほどに速い。時間が飛んだのかと錯覚するような刹那の間に、その剛腕が振り抜かれている。
レヴィンの目をもってしても……否、他の誰だろうと、これを視認してから避けることなど不可能だろう。『封魔』の一撃は、そういった人間の知覚能力を超えた領域で振るわれている。
これに対峙する詠術士の策は限られる。相手の手が届かない遠間を絶対死守し、近づけさせずに立ち回る。
接近戦であれば、最低一枚の防御壁を常に保持し、受けた直後に反撃。これを繰り返す。
だが、語るほど簡単ではない。今日に至るまでこの怪物の討滅に成功した者はいないという事実が、端的にそれを示している。
そうした事情を踏まえたうえで、先のエーランドの言葉だ。なぜ流護はあんな真似ができるのか、と。
しかも、
「……彼には、恐怖心というものがないのか」
このアキムほどの手練が、思わずそう舌を巻くほど。
流護は飛んでくるガビム・ガヴジーンの一撃に対し、腕を掲げることすらしてはいない。避け損なった場合に備えて防御を固める素振りすら見せていない。守りなど無意味だったとしても、通常であれば本能的に反応する。
しかし風圧に目を閉じることもなく、威圧感に臆することもなく。大胆に踏み込んで、当たり前のように反撃を突き刺していく。
(回避に絶対の自信があるのか……? それとも)
単純な胆力だけではない。何か、確実に攻撃をいなせる保証があるのか。
それは、つい先ほど思い至ったことだ。
(そうだ。彼は……今ここに至るまで、『傷一つ負っていない』んだ)
一切の視界がきかぬ、闇夜の中でのドボービークの襲撃。レヴィンやアキムを始めとした全員が、どこから襲い来るか分からない怨魔の爪牙を警戒し、防御術を固め耐え忍ぶしかなかったであろう時間。
(リューゴ君は……あの時、どう対処していたんだ……?)
彼の頑強な肉体なら、神詠術がなくとも急所を庇い守りに徹することで凌ぐことも可能だったろう。
しかし、である。
流護は、『かすり傷のひとつすら受けていない』。
つまり、完璧に避けていたということになる。何も見えないはずの暗闇の中で、四方八方から飛んできたであろうドボービークの爪や牙を。
「さて、どうするべきか……。私が加勢したところで、趨勢が傾くような相手ではない。本来であれば彼がああして立ち回ってくれている間に、撤退の態勢を整えねばならないところだが……」
アキムが後方の円蓋を意識する素振りを見せた。
そう零す彼自身、しかし即座に動こうとはしない。
……予感し始めているのだ。
「夜の森を逃げ惑うなど、自ら冥府に逃げ込むようなものではあるがね。いっそ肚を決めて、偉業達成の瞬間が訪れることに賭けてみるのも乙か」
『拳撃』なる二つ名を持つ、特異な遊撃兵。彼が為すかもしれない、前人未到の快挙を。




