617. 朝焼けと覚悟
朝の光が少しずつ周囲をおぼろげに照らし、小鳥たちの囀りがようやく聞こえ始める。まだ黎明と呼べる時間帯。
「っ」
一呼吸。息を吸い込み、脚を奔らせる。
タタッと、土の大地を蹴る軽快な音が響く。
小刻みなステップワークで、構えたまま細かく横へ移動する。一瞬たりとも、同じ場所には留まらない。
円を描く軌道で時計回り、左、左、右と三連打の拳を突き出す。一歩踏み込んで右ストレート、左フックでフォロー、右アッパーで拾う。そして左の上段廻し蹴りを一閃。
「――、ふうっ!」
バックステップで飛び退き、ここでようやく空気を肺へと取り入れた。
「……ぜっ、はっ」
近場の台車にかけていた織物を手に取り、頭から伝ってくる汗をざっと拭う。
「流護?」
と、横合いから呼びかけてくる声があった。布切れを首にかけつつ顔を向けると――まだ薄暗い空の下、砦の角を曲がった彩花が少し驚いたような顔でやってくるところだった。
「おはよ」
下は簡素なゆるい寝間着、上は『どんぐり』と謎の単語が入った白Tシャツ姿である。
「おう。つーかそのシャツ笑うんだよなぁ……」
「まあわかる」
つい吹き出すと、着ている当人も怒るどころかはにかんだ。
「でも着心地いいんだよこれ……てかあんた、やっぱこんなとこに来てまでやっぱり練習してるんだ」
「そらそうよ」
と、有海流護は明るさを増していく朝の景色に目を細めながら答える。
「出先だからってサボってたら、あっという間に衰えるからな」
「へー……」
「てか、お前はどうした? こんな早くから」
「あ、いや。トイレ行きたくなって、目が覚めて。廊下の窓から外見たら、ちょうどここであんたが暴れてるのが見えたから」
「いや暴れてるて」
「なんの修業してたの?」
「そうだな。今はひたすら自分の身体を使ったフィジカルアップよ」
場所は砦の横手にある少し開けた庭。周囲に小さな林が広がる、ただそれだけの空間。
「先生方とかにも話して、この砦にいる間はここ借りてトレーニングしようと思ってな。兵士の訓練にも使われてる道具なんかも色々あるみたいだから。ちょっとしたもんならこないだ自作もしたし」
タタ、と足先のみでリズムを刻む。
「とりあえず今日は、フットワークとか、避ける練習だな」
「ふーん……」
練習を再開すると、その切れ間に彩花が尋ねてくる。
「なんで避ける練習なの? それより攻撃を練習して、相手をばーんってやっつけちゃったほうが早くない?」
「さすが彩花さん、言うことが凶暴っすね」
「はー? 失礼しちゃう」
呼吸を整えつつ苦笑する。
「いくら俺が強いっても、攻撃手段は直接の殴る蹴るだからな。リーチが短いから、どうしても詠術士が相手だと向こうの攻撃の方が早いことがある。昨日のマリッセラさんとかもそうだろ。詠術士ってのは俺の予想もしない術使ってきたりするから、どうしても守りの時間ができる。だから、掻い潜る練習も必要ってこった」
詠術士に限らず、この遠征道中における『空賊』ムシュバとの一戦も然り。空中から遠距離攻撃を仕掛けてくる相手に対し、徒手の流護は先手を取りにくい。反撃を狙うならば、まず敵の攻めを凌ぐ技量が求められる。
「はぁ、なるほど……」
呟く彩花だが、ちゃんと分かっているのかどうかは不明だ。元より流護としても、スパーリングをワインと勘違いしているような相手に詳しく説明しようとは思っていない。
すっかり明るくなって朝を迎えたダルクウォートン砦に、本格的な鳥たちの合唱が木霊する。
(……今日は……多分これ……ダメ、っぽいか? まだ分からんけど)
目を細めて周囲の風景を眺め、流護はそう判じた。ある程度動けば概ね、その日の調子は知れる。
(……そういや昨日の講義の時も……。安定しねえな)
自らの手に視線を落とし、思案する。
「? どしたの、流護。おっかない顔して」
「……いや。何でもねえよ。つかお前、朝早いな」
「…………なんかさ、あんまり寝つけないっていうか……眠りが浅いよね」
言いつつ目尻を拭う彩花の心情は、それとなく流護も察することができた。
ただでさえ異世界へやってきて日も浅く、何日もの時間をかけて移動し続けた危険を伴う旅路。精神的にも張り詰めているし、毎日寝床が変わるという経験にも慣れていないのだ。
「この時間だと、さすがにベル子とかクレアも起きてないだろ」
「そだね。みんな寝てる中、一人でいるのもなんかあれで」
「ま、無理して寝ることないし、眠くなったら昼寝でもすりゃいい。あ、ただそん時は誰かに付いててもらえよ。クレアでも、ミアとかでもいいから」
「……ん。ありがと」
動機から考えたなら再襲撃の可能性は極めて低いはずだが、彩花は一度オルケスターに狙われた身である。用心するに越したことはない。この遠い異国の地であっても。そして彩花も今や、そうした自分の立場というものは理解しているようだ。
「じゃあ、ミアちゃんに添い寝してもらっちゃおうかな~」
そしてこの満面の笑みである。そこで何となく気にかかったことを流護は尋ねてみた。
「そういや思ったんだけどさ。お前って、小さいもの好きじゃん」
「うん」
「小さいってんなら、クレアじゃダメなん? あとほら、そのクレアと今回の合同学習でよく一緒にいるちびっ子とか。なんかすごい偉い人の娘だっていう。リムっていったっけ」
小さいイコール可愛い。であれば、何もミアに固執することなく他の誰かでもいいはずだ。が、彩花は何だかちょっと気後れした風に困り顔となる。
「いやいや……クレアリアさんって、年下なのに私より何倍もしっかりしてるし、強いし……お世話したい、って感じにならないじゃん。むしろ私がお世話されちゃう側で。あとあのリムちゃんって子は、私もちゃんと話したことないけど……かわいいはかわいいんだけど、個人的には神秘的ってほうが先に立つんだよね。あの真っ赤な目とか……めっちゃ深い色で、瞳孔もキュッて縦長で細くて。あー違う世界の人なんだー、って感じしない?」
「まあ、分からんでもないが……」
「その点、ミアちゃんはさ……こう……日本人寄りの顔してて親しみやすくて、幼い感あるから守ってあげたくなるじゃん。そうそう知ってる? うとうとしてるミアちゃんのほっぺをつんつん! ってすると、『ムニャーン!』って言って顔隠して丸くなっちゃうんだよ。いや天使か?」
「いやそこは邪魔せんで寝かしたれよ」
何というか、色々と個人のこだわりみたいなものがあるのだろう。とにかく今分かるのは、ミアの災難は当分続きそうだということだ。
「…………っし」
「? どこ行くの?」
苦笑しつつ踵を返すと、彩花が怪訝そうに首を傾げてくる。
「砦の周り走ってくる。お前もまだ早い時間だし、部屋に戻っとけよ」
「あ。なら、たまには私も一緒に走ってみようかな? 何もしないと運動不足になっちゃいそうだし……。でも、このでっかい砦の周り走るって、かなり距離あるよね……?」
「まあそこそこな。じゃあまず全力ダッシュで一周、そっからちょっと落として早めペースで十周だ。レディゴッ」
「あっ、やっぱ部屋に戻りまーす……」
眩い朝日に包まれる砦の周りを、流護は走り始めた。一人で。
「おーっと、ここにいたー。ちょっといいかしら、リューゴくん」
昼休みの食堂。
一人でもりもりと肉を頬張っている流護の下へ、昨日の焼き直しのようにナスタディオ学院長がやってきた。違う点はといえば、ベルグレッテを伴っていることか。
「何すか? ベル子も一緒になって。また講義やってくれ、とかじゃないすよね」
結局、昨日あの後は色々と大変だった。
戻ってきたマリッセラに「さっきはどうも……」とノーサイドの精神で挨拶してみるも、「馴れ合うつもりはございませんわっ」と敵意丸出しで睨まれる始末。取りつく島もない。好感度ゼロ、下手をすればマイナスからのスタートである。
ベルグレッテたちの話によれば無術という特性そのものを疑われているらしいとのことで、しかし流護としてはそれをはっきりと証明する手立てもない。使っていないものは使っていないとしか言いようがないのだ。
とにかくそんなこんなで、しばらくはあの貴族少女の厳しい態度に晒される日々が続きそうなのだった。まあ、そうした奇異の目にはすっかり慣れっこである。
「アラ。またやりたい? アリウミ先生」
「いや、もういいっす……」
もうネタもないし、別に好き好んで目立ちたくもないのだ。
「それは残念。で、ローヴィレタリア卿から連絡があったわ。明々後日の六日、午前十時。王城に来てほしいそうよ」
「!」
学院長の報告を受けて、肉にかぶりつこうとしていた動作が思わず止まる。
護衛という名目でこの修学旅行に同行してきた流護ではあるが、遊撃兵としての本命はそちらだ。
即ち――バルクフォルトの王城関係者と、オルケスターについての情報を共有するため。
「明々後日……か。思ったより早かったっすね。こういうのって、もっと色々時間が掛かるもんかと」
「そこはさすが御大、ってところかしらねぇ。こうした決定が速やかに通るだけの権力を持ってる、ってワケよ」
現在のバルクフォルトにおける実質的な牽引者、というローヴィレタリア卿の肩書きは伊達ではないようだ。
ベルグレッテが話題を引き継ぐ。
「こちらからは当初の予定通り、学院長、クレア、リューゴ、私……そして、レノーレとアヤカの六名で伺おうと考えているわ」
「おう……」
これは事前に決めていた話でもあった。
実際にオルケスターと刃を交えた流護とベルグレッテ、レインディール王城関係者としての学院長とクレアリア、先のバダルノイスの騒乱を語るうえで欠かせないキーマンことレノーレ、かの組織にとって重要人物となるであろうカヒネの名を知って命を狙われた彩花。
レインディールの友好国として、バルクフォルトにもかの闇組織の危険性を認知しておいてもらう必要があるが、現状それを説くにはこの面子が適任という考えだ。
さて。ここで問題となってくるのが、相手側の信頼性である。
思いもよらない立場の人間――それも国の中枢に食い込むほどの大物がオルケスターに参画しているかもしれない、という噂はバダルノイス主導者だったオームゾルフの行いによって実証された。
一国の代表者ですら敵となり得るのであれば、もはや誰が『そう』であっても不思議はない。このバルクフォルト帝国の内部に潜んでいる可能性も……しかもそれがとてつもない大物である可能性も充分に考えられる。
そこで――
「……ベル子。今も『あれ』持ってるのか?」
それとなく、周囲を窺いつつ。声を潜めがちにした流護の問いかけに、少女騎士も控えめな頷きで応じた。
「……ええ。常に肌身離さず持ってるわよ」
今回、対象がオルケスターに関与する者であるかどうかを見定める目的で、ベルグレッテは『とあるアイテム』を持ってきていた。
これがあれば絶対に……確実に判別できる、とまでは言い切れない。が、少なからず効果は期待できるはず。
(……もし俺がオルケスターのメンバーだったら、絶対引っ掛かると思うんだよな)
学院長がニンマリと底意地の悪い笑みを覗かせる。
「実際、後ろ暗いところのある相手が『それ』を見れば、何かしら反応しちゃうんじゃないかしら〜」
メガネの奥で細められた鳶色の瞳は、その炙り出しを楽しみにしている風ですらあった。自分は幻覚という『嘘』を主武器としていながら、敵の欺きを見破ることを喜々としている。実にいい性格をしているというか、つくづく敵に回したくない人だよ、と少年は内心で首を竦めるばかりである。
「そうそう。皇帝陛下にも謁見することになると思うから、準備しといてね」
「あー……ヴォルカティウス帝、でしたっけ。ベル子と学院長は会ったことは?」
「ええ、あるわよ。ただ、もう何年も前になるけど……」
「アタシも同じね。でもあの皇帝陛下のことだから、すっかり忘れてらっしゃるかもだけどねー」
「が、学院長っ」
「おっと、聞かなかったことにしといて。ンフフフ」
元・拳闘士にして、何やら闘神に魅入られ様子が変わってしまったらしいと囁かれるバルクフォルトの王。どんな人物なのだろうか。
「あちらさんは、他にはどんな人が来るんすかね」
ローヴィレタリア卿にもレヴィンにも、目ぼしい大物を集めてもらえるよう頼んだと聞いている。
「さあ? アタシも、そこまでこの国のお偉いさんに詳しいワケじゃないしね〜。知り合いらしい知り合いなんて、御大とミッチーぐらいのもんだし」
「私も……。……ただ、」
短く言葉を切った少女騎士は、緊張気味に表情を引き締めた。
「どこの誰が『黒』であっても驚かないよう……そして惑わされないよう、心構えは持っておくべきなのでしょうね」
「……ああ。そうだな」
悲壮感すら漂わせる彼女の面持ちは、あのオームゾルフの件を受けての覚悟の表れに違いない。
果たして――この栄華極まる西海の大国にまで、闇組織の魔の手は伸びているのか否か。
(……とにかく……もう、やらかしゃしねえ)
勝ち切ることができなかった北国での苦い思いを噛み殺しつつ、明々後日に向けて気合を入れる遊撃兵の少年だった。




