616. 水麗のヴァルキュリア
決闘開始から、すでに一分以上が経過しただろうか。
有海流護としては、相手が学院生だからとて侮っているつもりはない。
明確な動きこそなかったが、静かに佇むマリッセラの纏う『揺らぎ』が秒単位で膨れ上がっていくことも感知していた。あえてこちらに見せつけているかのごときそれを。
そのように、絶えず相手の動向に気を配っていたからこそ。
「――――――――」
刹那、流護は当惑した。
マリッセラとの距離は、およそ十メートルほど……だったはず。
はず、というのは。
今この瞬間。
そこに、彼女の姿がないからだ。
影も形も。あれほど濃密だった空間の揺らめきも。
忽然と消えた。
あるのは――、水。
それも、中空に漂うわずかな球体の雫たち。よく見れば無数に舞うそれらは、ランダムに散らばっている――のではない。
(……流、れて――)
流護から見て、右側へ。残滓のように、それらが寄せ集まって尾を引いている――。
ほとんど跳ねるような勢いで真後ろへと振り返った流護。
その眼前、零距離に。
屈み込んで白い槍を携える、マリッセラの姿があった。
回り込まれたのだ。真後ろに、わずか一瞬で。有海流護が虚を突かれ、見失うほどの速度で。
「――――――――――」
たなびく柔らかな金糸の髪。右手に握り込まれた水流の槍。そしてその細身の背から伸びるは――銀色に輝く、力強い二対の翼。ジェット噴射ばりの激しさで下方へ細かな粒子をまき散らしている、その正体は水だ。彼女の姿を見失った流護の視界に映っていた水滴。床にぶつかったそれらは、白光の粒子となって虚空へ散っていく。
射殺さんばかりの鋭く青い双眸。引き結ばれた口元。絢爛たる両翼と長槍めいた水の閃光を携える勇ましくも美しいその姿は、まるで天空から地上へと降臨した戦乙女――
「ふっ!」
そんな水翼の麗人は立ち上がりざま、伸び上がる軌道で槍を突き出す。
かららら、と乾いた音。刺突を紙一重で躱した流護が、手甲で弾き滑らせた響きだった。
伸び切ったマリッセラの右腕を払った流護は、彼女の攻撃・立ち上がりの起点となった左足を蹴り払う。正確には――足甲を添え、押す。本当に蹴りつければ、ケガでは済まないからだ。そしてこの挙動だけで、マリッセラの細身が空中で一回転した。
「っっ!?」
さすがに集中が途切れたか、彼女の槍と翼が弾けるように消滅する。
「くうっ!?」
体勢をひっくり返され横倒しとなった彼女の真上から、流護は覆い被せる軌道で左の下段突きを叩き落とした。
「……!」
目をつぶったマリッセラの鼻先で、握り拳を寸止め。
地に伏した彼女と、片膝をついて拳を振り下ろした流護の構図が制止すること一秒、二秒。
「ほぉい! それまでぇい!」
アンドリアン学長の声が響き、場は生徒たちの歓声に包まれた。
「うおぉ、一瞬の決着……!」
「え!? 何があった!? 見逃さねーように凝視してたらよぉ! 目が痛くなったから瞬きしたら終わってる!?」
「はぁー、やっぱりマリッセラでも駄目なのか~!」
止めていた息を吐き出すように胸を撫で下ろしている者も多い。長く続いた静から、刹那の動。交錯の瞬間を見逃さぬよう、今か今かと刮目していた者も多いようだった。
身を引きながら、流護はマリッセラへと言葉をかける。
「えっと……ども。びっくりしました、すごい速さで」
彼女はゆっくりと起き上がりながら、重々しい溜息をひとつ。
「…………それは嫌味ですの?」
言いつつ立ち上がって、服をぱんぱんと払った。
「……本日のところは、わたくしの負けですわ……。けど、諦めませんから。必ず、貴方の本質を詳らかにして差し上げます……! 失礼っ!」
目元をぐしぐしと拭ったマリッセラは、そう言い捨てると全力ダッシュで大広間から出ていってしまった。
「あっ……」
呆然とその後ろ姿を見送る流護の下へ、ガーティルード姉妹とミア、彩花が駆け寄ってくる。
「さっすがだよ! やっぱりリューゴくんの勝ちだね!」
「おーう」
「流護、ケガはないの!?」
「なかろうて」
「さすがですね、アリウミ殿。マリッセラ殿の『銀翼』を、ああも危なげなく見切るとは」
「『銀翼』……」
貴族少女が消えていった出入り口を眺めながら、少年はクレアリアが発したその言葉を反芻する。
ベルグレッテも同じくマリッセラが消えていった出入り口へと目をやりながら、流護の呟きに答える形で告げた。
「ええ。水属性の使い手は、防御や回復といった技術に重きを置く人が多い傾向にあるんだけど……マリッセラは、稀有なほど機動力と攻撃性に特化している詠術士なの」
「なるほどな。いや、普通に一瞬見失ったからな……。ビビったわ」
流護としては油断など露ほどもしておらず、どんな攻撃が来ようとも応じる腹づもりでいた。そう期して集中を高めていたうえで一瞬、視界から彼女の姿が消えたのだ。相手の『起こり』と、目の瞬きが重なった。反応がもう数瞬遅ければ――舞い散る飛沫の軌道に気付かなければ、見事にバックスタブを決められていただろう。
ベルグレッテの好敵手、そしてリズインティ学院首席との触れ込みに偽りなし、といったところか。むしろ機動力だけなら、もはや十二分に一流の域へ達している。
「マリッセラさん、すごかった! ばーん! って、一瞬で流護の後ろまで飛んでって! 背中から羽が生えたみたいにキラキラしてて……! 速いしきれいで!」
「語彙力死んでんぞ」
「うっさ!」
まだ神詠術を見慣れていない彩花は興奮しきりだ。
「つーか、マリッセラさん出てっちまったけど……」
「気持ちの整理がつかなかったんでしょう。しばらく放っておけばよろしいかと」
相も変わらず冷たいほどに淡白なクレアリアさんである。
そこへ、腰を曲げ気味にしたアンドリアン学長がゆったりとした足取りでやってきた。
「流石でございますのう、遊撃兵殿。マリッセラ君の銀の翼に対しても、まるで危なげなく……。そしてやはり……」
周囲に居並ぶ女子陣の顔ぶれを見渡して。
「剛き男は、女子にも関心を寄せられるということですかのう〜! ふぉっふぉっふぉっ!」
下世話な垂れ目と微妙な中腰で両手の小指をおっ立ててくる至大詠術士にげんなりしつつ、流護先生の受け持った時間は終わっていくのだった。




