553. 怪談
それは別世界からやってきた少女が、ささやかな冒険譚を繰り広げる数日前のこと――
――どの地域にも、怪しい噂話のひとつやふたつは存在する。
近頃、とある小国の片田舎で囁かれるようになったそれも、おそらく同じ類のものだった。
『森の奥の廃屋敷に、白い服を着た女の幽霊が現れる』。
子供たちの間でそんな話が広まり始めたのは、昨年の秋頃。
現場が深い森の奥であることや、元より薄気味悪い雰囲気の漂う場所で近づこうとする者も少なかったことなどから、大人たちはよくある怪談話のひとつとしてあまり気にかけていない様子だった。ただ、騒ぐ子供たちに「そんな場所に行くから怖いお化けに遭うんだぞ」と戒める程度だった。
「それで君は、その幽霊を見たんだね?」
黒い礼服に身を包んだ男が、屈み込んだ姿勢で目線を合わせて問いかけると、
「うん! おじさんは、信じてくれるの!?」
いかにも腕白そうな少年は、元気よく目を輝かせた。
「ああ、もちろんだとも。それで、その幽霊がどんな見た目だったか覚えているかい?」
「えっと……まっしろい服をきた、女のひと!」
「ふむ……。他に特徴はなかったかな。背の高さとか、どんな髪だったかとか」
「背は高かった! たぶん……、おじさんと同じぐらい。あと、髪は黒だったよ。長くて、でもおでこ丸出しだった。あの家の窓のとこにいて、僕と目があったの。そしたら、お化けがニーッて笑ったんだ!」
「それで、君はどうしたんだい?」
「走って逃げたよ! 怖かった~……」
「なるほど。それが今年の初めぐらいの話なんだね」
「うん。僕、もう二度とあそこには行かない……」
「教えてくれてありがとう。お礼にこれをあげるよ」
男は礼服の内側からそれを取り出し、少年に差し出す。
「わあ! いいの? ありがとう!」
彼は満面の笑顔で、手渡したもの――包み紙に覆われた飴玉を受け取った。その丸く黒い表面には、白い斑模様が浮かんでいる。
(さて……)
走り去っていくその小さな背中を見送りながら、男はここまでで得た情報を頭の中で精査した。
昨年の秋頃から、外れにある森の放棄された屋敷に女の幽霊が現れるようになった。白い服を身に纏い、背は高く自分と同程度。黒の長髪で、やや赤みがかった色をしていたとの証言も得られている。そして基本的には、額を露出した髪型である。
噂が広まり出した頃、興味本位で件の廃屋に足を運んでみた者も幾人かいたそうだが、その幽霊も必ず現れる訳ではないらしい。
それでも目撃者は少なからず存在し、幽霊の外見的特徴も概ね一致している。証言によっては服装に若干の違いがあり、鍔広帽を被っていたとの話も存在する。
街の大人はさして気にかけてもいないようだが――
(……くそっ、決まりだな……俺が引くことになるとは……)
溜息をついた男は、覚悟を決めて首を巡らせた。
問題の森は、ここから西部に位置する。
やや重い足取りで、男はその方角へと進み始めた。
なるほど聞いた通り、鬱蒼と茂った森だった。
この地方は冬でも比較的温暖ゆえか、木々に葉を落とした様子は見られない。青々と伸び広がった枝葉たちは、空を覆い隠さんばかりに生い茂り存在を主張している。
そのおかげで昼間でも薄暗く感じるほどの林道をしばらく行くと、やがて噂の廃館が見えてきた。
元は立派な邸宅だったのだろう。かなり大きく、貴族の別荘か何かだったのかもしれない。わずかに高貴な面影を残すそれは、朽ちて色あせた建物の成れの果て。今や、建造物の死骸と表現しても問題なさそうだった。幽霊が現れるにはうってつけの環境に違いない。
(……死骸、か……)
意を決した男は、足下の枯れ枝を踏み折りながら屋敷へと近づいていく。ぱきぱきと鳴り響くその音は、意外なほど大きく樹林の間を木霊するように駆け抜けた。
すっかり錆びて赤茶けた外柵沿いにぐるりと回り込み、玄関へたどり着く。
扉に触れ、取っ手を掴んで引き開ける。鍵はかかっておらず、薄汚れた戸板は悲鳴に似た甲高い軋みを発しながらも来訪者を迎え入れた。
放棄されてどれほどの年月が経過しているのか、内装もひどい有様だった。剥がれめくれた壁紙、ひび割れた床板、各所にこびりついた黒ずみ。独特のカビ臭さが鼻をつく。
部屋は崩落した瓦礫によって大半が埋まっており、すでに住居としての機能を失っているように見える。
が、しかし――
(……こっち、か)
足の踏み場を選んでいくと、自然と進める箇所があった。
まるで導かれているかのごとく、男は二階へと上がる。
所々抜けている床板に足を取られぬよう、慎重に歩を進める。しばらく行くと、崩れかけた廊下の突き当りに、大きな両開きの木扉が現れた。
すでに、屋敷へ踏み入って十五分ほども経ったろうか。行き着いた末にあったその取っ手を握り、朽ちてなお厳かなその戸を引き開ける。
玄関と同じく耳障りな残響とともに、その室内の光景が明らかとなった。
他の部屋と違い、そこには生活感があった。古いが損壊はしていない机や椅子、棚などの調度品。中央に据えられたボロボロのソファで――
「あら。よくここが分かったわね」
悠然と腰掛けていたその女が、男に向けて微笑みかけた。突然の来訪者に対し、何ら驚いた様子もなく。
「……捜しましたぞ」
ここまでの苦労が込められた男の一言。
「ご苦労様」
しかし、女は実に他人事といった様子で鼻を鳴らす。
そんな彼女の風体は、薄暗いこの場で見る限り、街の噂で語られた幽霊そのものだった。上下一繋ぎの白いワンピース姿が目立つ、背の高い女。
髪は赤みがかった黒色で、肩口から背中にかけて長く伸ばされている。前髪は額より上で左右に分けられ、顔を覆い隠すことはなかった。
やや平坦な面長の顔立ちに、離れがちの両眼は闇めいた黒。無彩色の姿に浮かぶ口元の紅が、不気味なほど映え存在感を主張している。
白を基調としたその佇まいにしかし、清廉さは感じられない。目に見えぬ禍々しい何かが溢れ出ているようで、男を臓腑の底から不安にさせた。
「そんな所に突っ立っていないで、お入りなさいな」
その異様な女がにこやかに促すが、
「……いえ……」
男の足は前に進もうと……部屋の中へ入ろうとはしなかった。できなかった。
改めて、室内に視線を投じる。
(…………、……)
古びた家具類、破れたカーテンやソファで飾られた廃屋の一室。それはいい。
異様なのは、そこかしこに並べ立てられている人形の数々だった。それも、愛玩用の小さなぬいぐるみ――ではない。衣服店で飾られているような等身大の、洒落た服を着せられた若い男たち。それが、部屋の中に十数体。家具の合間合間に、様々な姿勢で佇んでいる。いずれも、美しい顔立ちをした若い男ばかり。
(……今回は、また……多いな……)
男のそんな苦い胸中をいざ知らず、
「それで、用件は何なのかしら?」
悪びれた風もなく尋ねてくる女。男は、必要なことだけを率直に告げた。
「カヒネが消失したとのことです」
「ああ、それで」
納得したとばかりに立ち上がった彼女は、サイドテーブルの脇で虚空を見つめ佇んでいる少年に寄り添った。
「久しぶりに暴走したのね。それにしたって、私には関係ない話だわ」
「しかし……決まりですので」
「そこは臨機応変に動きましょうよ。額面通りの仕事しかできない男は魅力に欠けるわよ?」
「……は……」
だとすればいいことを聞いた、と男は胸中で唸った。
今後より一層、謹直に言われた通りの仕事だけをこなす存在になろうと。間違っても、この女に気に入られることがないように。
「第一、私がここを離れたら『皆』の世話はどうするのよ。ねぇーぇ? ランドルフ?」
そう笑った女が、傍らの人形の頬へ指を這わせる。当然、ランドルフと呼ばれた『彼』は返事も身じろぎもしない。
その代わりのように。どさ、と重い音。
ランドルフの――人形の右腕が外れ、絨毯の上に転がった音だった。
「あら」
気付いた女が屈み込み、それを拾い上げる。
「もう。まだ拗ねてるのかしらね? ランドルフったら」
その作り物の右腕の表面を手で撫でるようにしながら、女はくすりと笑った。
「ランドルフはね、子供の頃からずっと絵描きを目指していたんですって。だから彼にとって、筆を握る右手は何より大切なものだったの」
うっとりと呟いた女。その赤々とした口元が、一瞬で裂け広がる。愉悦の形に、不自然なほど大きく。
「――だから、彼の右手を愛撫したあの瞬間の快楽は忘れられないわ。炭化して黒い塊になった自分の腕を信じられないように見つめていた、あのボウゼンジシツとした顔……」
――男は――オルケスター構成員たる男は、知っている。
ここに飾られているこれらは、ただの人形などではないと。
「右腕を失ったことに気付いたランドルフは、もう狂ったように叫んだわ。でもそれは、決して痛みのためだけじゃなかったの。何よりも、二度と絵が描けなくなってしまったことに対して嘆いたのよ。彼はのたうち回って、きれいな顔を醜く歪めながら懇願したわ。『もう、殺してくれ』って」
恍惚の表情で、まるで恋する乙女のように語る。
「貴方にはあって? 彼のように、自分の全てを賭してまで打ち込めるものが。それが失われるなら、死んだほうがましだと思えるほど大切な何かが」
「いえ……」
苦く吐き出すと、女は困ったような顔で唇を尖らせた。
「あら、ダメよ。何の取り柄もなく、漫然と生きてるだけじゃ。殿方なんだから、素敵な夢を持たなくちゃ」
それをぶち壊しておいてよく言う、と思いながら男は視線を転じる。
女の隣で微動だにせず佇む『ランドルフ』は、無言で虚空を見つめていた。……とても、女の語った『最期』を思わせぬ凪いだ表情で。
(……、慣れんな。いつ目の当たりにしても寒気がする……)
ここに飾られている少年や青年たちは、人形などではない。
全て、かつて生きていた人間。
つまり、本物の死体だ。
これが、目の前にいる白い女の――ナインテイルと呼ばれる存在の『趣味』。
眼鏡に適った男を嬲り殺し、その死体を腐らぬよう加工したうえで飾り立てる。愛玩用の人形として。
「ふふ。あっちのスコッズは将来を期待された料理人。その向こうのサロは劇団の売れっ子演者だったの。皆それぞれ得意なことがあって、夢があって……キラキラ輝いてたのよ。素敵よね」
物言わぬ彼らに代わって、ナインテイルは自慢げに微笑む。
(その夢とやら……輝きとやらを自らの闇で塗り潰しては、悦に浸る……。相も変わらず、悪趣味なことだ)
それはさながら、夜の街で娼婦を買う好色家のように。実に軽々しく気まぐれに、ナインテイルはこの凶行へと走る。
大陸各地で男を物色しては隠れ家を作ってそこに集め、飽きたら放棄を繰り返す。
後始末をさせられるほうはたまったものではない。過去には、この『死体展示室』が無関係な市民に見つかってしまったこともある。そうしてとんでもない殺人鬼が近くに潜んでいると囁かれ、ゴーストロアめいた噂が広まっていくのだ。
(まさか今回、俺が当たりを……いや、『外れ』を引くとは……)
男は長らく行方知れずとなっていたナインテイル捜索の任を受けて、この地方に立ち寄った。その折、近場の街で一人の少年が唐突に消えたとの情報を入手した。もしやと思い、そこを足がかりに情報を集めていくうち、ここで入手したのは女幽霊の噂。ナインテイルと一致するその外見的特徴に予感を覚えたが、それが的中した形となる。
正味な話、自分ではなく他の誰かに見つけてほしかった。かかわりたくない。
その感想は、屈強なオルケスターの兵隊ですら誰もが抱くものに違いなかった。
「あらランドルフ。きれいな顔が汚れていてよ。フフフフフ」
衣蓑から白いハンカチを取り出したナインテイルは、うっとりとした表情を浮かべながら死体の頬を拭った。
――そんな彼女の最古の記憶は、貧民街のゴミ溜めに埋もれていた光景だという。そんな境遇から当然、名はない。親の顔も知らない。
始まりこそ底だったが、団長クィンドールによって見出されたその『ペンタ』は、間違いなく最強にして最悪の存在となった。なってしまった。
長く巨大な尾にも見える九本の黒い炎を自在に操ることから――ついた呼び名は、ナインテイル。
そもそも常人とは一線を画す『ペンタ』だが、そんな彼らを百人並べて競わせたなら、その中で一から百までの序列が決まるだろう。
ナインテイルは間違いなく、そこで頂点の座に君臨するに違いない怪異だった。
オルケスターとて、順風満帆に無傷でここまでやってきた訳ではない。闇の世界を生きる以上、存亡をかけた争いは幾度も経験している。その鉄火場においてあらゆる脅威を排除してきた一人が、他でもないこの女だった。
事実、彼女はこれまで幾人もの『ペンタ』や強大な怨魔を屠っている。
奔放な振る舞いが許されているのも、そうした戦力としての実績や期待があってこそ。
(……団長とテオドシウス殿以外にいまい。『これ』を止められる人間など……、……いや……あのお二人ですら、真に殺り合えばどうなることか……――)
きっと、神の手違いだ。
得体の知れぬ、底なしの災禍を内包するこの存在は、どういった訳か人間の女の姿をもってこの世に顕現してしまった。そう思えるほどの絶対的強者。
そのように内心で肝を冷やす男の胸中などいざ知らず、
「ここにいる殿方は、誰も彼も素敵ではあるけれど――」
ランドルフに義手をはめ直したナインテイルは、部屋の奥へと足を向けた。
「やっぱり、イチオシは貴方よ」
壁際に立つ、その美男子――の死体に、ナインテイルは腕を絡ませる。
そして、その名前を囁いた。
「ねーぇ? ディノ」
そこで、男は今更ながら気付く。
部屋の最奥。傍目に見ても、殊更大切にされていると察せられるその人形。
否、死体。
赤い髪と赤い瞳を持つ美青年。
(……、こ、れは)
知っている。
昨年の夏。男も任務のため、団長補佐デビアスとともにレフェ入りし、あの天轟闘宴の観客席に座っていた。
ゆえに、知っている。覚えている。
ディノ・ゲイルローエンと呼ばれる『ペンタ』。あの苛烈極まる闘いぶり、自信に満ち溢れた不遜な面構えを。
だからこそ。
(……、…………ッ……、……)
男は、全身から冷や汗が吹き出すのを感じた。
オルケスターの兵隊として、顔色ひとつ変えずに人を殺める程度の胆力は身につけている。
それでも、己が信じられないものを見る眼差しでナインテイルと青年の死体を見比べていることを自覚した。
「フフ……本当に素敵よ、ディノ。あれだけ強気に荒ぶっていた貴方が、今や私の言いなり。……ああ……はぁ……」
熱っぽい息を吐いたナインテイルは、物言わぬ死体の耳……頬……首筋へと舌を這わせていく。
その行いに、女としての艶めかしさはない。強大な蛇が舌先をちらつかせているとしか思えない――得体の知れぬ怪物が骸を貪ろうとしているとしか思えない光景だった。
それこそ、餌に巻きつく蛇のように。立ち尽くす『青年だったもの』へと四肢を絡みつかせながら、ナインテイルは細めた視線をジトリと送ってきた。
「悪いんだけど、お引取り願える? 私はこれから、ディノとの時間を過ごしたいの」
「は……」
男の役目はナインテイルを連れ帰ることだ。黙って引き下がるべきではない。
しかし、限界だった。
死体に装飾されたこの部屋、そしてナインテイルの『狂気』を目の当たりにしてなお、任務を全うできるだけの精神など持ち合わせてはいなかった。
彼女とて、組織内での役目は理解しているはず。
「……では、今日のところは失礼致す」
ひとまず、日を改めるべきだろう。
この場から開放されることに心からの安堵を覚えながら、男は早足で廃屋を後にするのだった。




