546. 残火
華やかに賑わっている印象が強いレインディール王都ではあるが、少し裏通りに入るだけでその様相は一変する。
表の明るく活気に溢れた雰囲気とは正反対、陰気で殺伐とした空気が漂う。
薄汚れて黒ずんだ路地や壁。割れて放置された石畳。横倒しになったゴミ箱からは腐臭を放つ何かが溢れ、そこに鼠やハエの群れが集まっている。
たむろする人間の様相も見るからに異様だ。
道端に座り込んで呆けている浮浪者、空になった酒瓶を抱えて一人で喋っている酔っぱらい、鋭い目つきで油断なく周囲に視線を飛ばしている集団。
環境、人、空気……全てが結託し、見事な負の空間を作り上げている。
そんな掃き溜めじみた区域の一角を、有海流護は一人で歩いていた。
本来であれば、いかにも平民然とした十五、六歳の少年が単独でうろついていい場所ではない。そうするのはもちろん自由だが、あっという間に取り囲まれ、身ぐるみを剥がされるなり暗がりに連れ込まれるなりするのがオチであろう。男女の別すらない。金と『穴』があればそれでいい、と考える者も少なくないのだ。この場所には。
しかし今、流護に近づいてくる人間はいなかった。
誰しもがジロリとした一瞥こそくれるものの、その先の暴力的な行為に及びはしない。
王都の暗がりに棲む彼らは、嗅覚に優れているのだ。
危険、即ち強者を嗅ぎ分ける感覚に。
ゆえに、気付いている。自分たちより遥かに小さな……幼さすら残る少年に対し、敵う相手ではないと。もちろん暗部とはいえ王都、単純に遊撃兵だと知る者もいるに違いない。
とにかく、総じて理解しているのだ。
目の前を行く存在の、生物的な強さを。
そうして世間的には危険な区画を何事もなく平和に歩き続けた流護は、やがて一軒の宿の前へと到着した。
(……ここだな)
そこかしこがボロボロになった、木造の平屋。事前に知っていなければ、宿泊施設とは思うまい。看板は破損し、隅に打ち捨てられている。掲げ直すつもりもないらしい。一見小ぢんまりとしているようで、存外に奥行きがあるようだ。
軋んだ戸を開けて中に入ると、屋内も外観から察せる通りの薄汚れた装いだった。
隅の席で札遊びに興じていたガラの悪そうな男たちが、無遠慮な視線を投げてくる。彼らは何事かヒソヒソと囁き合った後、連れ立って外へ出ていった。
「ちょいとお兄さん、営業妨害はやめておくれよ」
退店していく集団の後ろ姿を惜しくもなさそうに見送りつつ、黒ずんだカウンターの向こうからそんな言葉を投げかけてくるのは、顎ひげを生やした悪人面の壮年男。
その発言からして、ここの主なのだろう。しかし一見する限り、とてもまともな職の人間とは思えない。そもそも椅子にふんぞり返っており、客を迎える態度ですらない。
「いや、何もしてないっすけど」
流護が真っ当な主張を返すと、
「遊撃兵、なんてのが来る時点で営業妨害なのよ。で、何か御用ですかい? こんな何もないボロ宿に。やましいことは何もしてませんぜ」
自己紹介は必要ないようだった。
「いや、ちょっと訊きたいことがあって」
「何です?」
「……ここによく、ディノ・ゲイルローエンが泊まってたって聞いたもんで」
「はあ、ディノのヤツねぇ。とんと見かけてませんぜ。去年の夏ぐらい……ほれ、あのテロの一件があった頃からか。一回もね」
去年の夏。
王都テロ以降といえば、やはり天轟闘宴だ。隣国レフェで不意に出会い、交戦し、果ては一時的に共闘を結んでプレディレッケと対峙した。
「まっ、旅に出るなんて言ってたしな。しばらくは戻って来ないんじゃないですかねぇ。で、何? 今更、ヤツがどうかしたんですかい。何かやらかしたんで?」
あれ以来、ディノはここへは戻っていないようだ。
そして少なくとも、この店主は『知らない』らしい。流護は投げかけてみる。バダルノイスで齎されたその情報を。
「――あいつが死んだ、って言ったら信じるっすか?」
店主の軽薄な目つきが、やにわに鋭さを含んだ。
「あんたが殺ったの? ヤツの死体は?」
「いや……そういう噂を聞いたんで」
「じゃあナシだね。そんなこたぁ、実際に闘り合った遊撃兵さんこそがよーく分かってるんじゃないのかい」
取り合うのも馬鹿馬鹿しい、とばかりに店主は肩をそびやかした。
「……俺ぁこう見えて、裏の事情にはそこそこ通じてるんですがね」
『こう見えて』も何も予想通りすぎるほどだが、そこは黙って耳を傾ける。
「強ぇヤツ、悪ぃヤツ、狡猾なヤツ……色んなヤツを見てきたし知ってるが……あのディノの小僧は、そんじょそこらのとは毛色が違う」
「……でしょうね」
「世界にゃきっと、俺の知らん強ぇヤツもゴマンといるんだろう。んでも例えばそいつらを一箇所に集めて競わせたなら、自然と順位がつくよな。強いヤツらの中でも、一等強いヤツが決まる訳だ。で、ディノの野郎はそこで当たり前のように頂点に立つ。そんな器だよ、あれは」
流護こそが、身をもって体感したことだ。
これまで様々な強敵と渡り合ってきたが、やはりディノは別格だ。もう一度勝てるか、と問われたなら間違いなく疑問符がつく。
例えばたった今の店主の発言は、奇しくも天轟闘宴をそのまま表現している。
一箇所に集まり、頂点の座を目指して鎬を削った歴戦の猛者たち。
ディノも参加していたが、最終的には流護が優勝を飾った。
しかし、である。
(……)
あの場において、流護はディノと闘い勝利した訳ではない。
他の誰も、あの男を打ち負かしてはいない。
『黒鬼』乱入という非常事態が発生し、その対応のためにディノは自ら離脱した。結果、失格と判定されただけ。
その仮定は否応なく脳裏をちらつく。
もし、あんなことが起きず平常通りに武祭が続いていたなら? つまりあの獄炎の男が健在だったなら、結果はどうなっていたのか――?
そうした疑問符を無視できない。それほどに別格。
しかし同じように、ミュッティやメルコーシアも別格だった。
きっと、あの二人だけではない。オルケスターには、他にもああいった強者が属しているのだろう。
ディノがあの連中と闘ったら、果たしてどうなるのか。実際、ナインテイルと呼ばれる者がディノを殺した――などとキンゾルは放言している。
(俺だって、野郎が簡単にくたばるなんて思っちゃいねぇ……)
だが、気がかりであることは確かだ。
ディノの現状について何か情報が得られれば――と、ここまでやってくるぐらいには。もちろんベルグレッテやミアには内緒で、仕事という方便で。
とはいえ、あまり実のある話は聞けそうになかった。
「で、そんな下らん話をしに来たんですかい? んなことより、しっかり仕事してくださいよ遊撃兵殿。例の幽霊とかさ。どうなのよ」
「? 幽霊?」
全く覚えのない話を振られ、困惑のままおうむ返す。
「あ、もしかして知らんのかい? ここ最近、夜になると王都のどこからか不気味な声が聞こえることがあるんだと。住民どもも気味悪がってるらしいぜ」
「はあ……」
また、何とも胡散臭い話が出たものだ。
「幽霊かどうかは知らんが、妙なのが迷い込んでても困る。しっかり調査してくれよなぁ」
そう語る店主自身、半信半疑のようだ。手元の日刊紙を開きながら片手間でぼやく。もう話すこともないという合図だと察した流護は、短い挨拶とともに安宿を後にするのだった。




