521. クロウカシス
『大丈夫だよ、エマ。君のためならば私は、この命を棄てることすら厭わない』
『もう、メル……! その発言は許されないと……!』
けれど、その言葉は何よりも嬉しかった。
『我が国の状況は年々厳しくなっていくね……。エマーヌ、私にできることはないかな? 何かあれば、遠慮なく言ってほしい』
『ええ……今のところは平気よ。ありがとう』
余計な心配をかけたくはなかった。何より、言えるはずもなかった。
バダルノイスは着実に滅びの道を歩んでいる、などと。いかに『真言の聖女』と呼ばれようと。
親友に。かつてこの国を守り抜いた彼女に。そんなこと、口が裂けても言えるはずがない。
『エマーヌ、疲れてるんじゃない? 顔色が優れないみたいだけど』
『……大丈夫よ、私は……』
あなたがそばにいてくれれば、それで。
『気が付けば、私たちもいい歳になってしまったよね。エマーヌは、誰かいい人とかいないの? 結婚して主導者としての役目を分担できればさ、君の負担も減るだろうし』
『あら、メルティナ。そういうあなたはどうなの? いい加減、腰を落ち着けてほしいものだわ。雪撫燕さん』
……思えば、『真言の聖女』などと呼ばれるようになったのはいつからだったろう。
実に滑稽な話だ。
最も近しい人に、『最も大切なこと』を伝えられずにいるというのに。学生の頃から、ずっと。
『最近、大臣の依頼でレニン女史の娘さんと組んでるんだけどさ。これが実にできた子でね。もっと彼女のような人材が出てきてくれると嬉しいんだけどね』
『レニン氏の……ということは、あの最年少で宮廷詠術士になって、二つ名を授かった?』
いかに主導者の役目を担うオームゾルフとて、宮廷内の人の異動までは細かく把握できていない。
『ああ。レノーレ・シュネ・グロースヴィッツ。スヴォールンの異母妹の一人に当たるね』
このところ忙しそうにしているのはそのためか。いつもに増して宮殿を空けている。
『ねえ、メルティナ。次の聖礼式の日なのだけど……儀式が終わったあと、空いていないかしら? もし時間があれば……』
『っと、次の聖礼式の日か。ごめんエマーヌ、その日はレンと約束してしまったんだ』
レン。
私には、愛称で呼び合うのはやめようなんて言っていたのに。
『それでレンがさ、大人しそうな顔して意外と面白いところがあって……、エマーヌ、聞いてる?』
『聞いているわ。ただ、まるで恋人の惚気話を聞かされているようで、ちょっと胸焼けがしちゃって』
『ちょっ、妙なことを言うのはやめてくれ』
前にも増して、顔を見る機会が減った。
久しぶりに会えば、いつもこの調子で。
『レンは今後のバダルノイスにとって貴重な有望株だ。彼女が育てば、間違いなく君の助けになってくれるよ――』
分かっている。
彼女はいつだって私を思って、私のために動いてくれているのだ。
しかし、改めて気付いてしまったのだ。
私は、ただ――
「ぐ、う…………」
廊下の曲がり角で、オームゾルフは壁に寄りかかって息を吐いた。
休んでいる暇などない。しかし。
頭が割れそうだった。
慣れない戦闘や疲弊によるものだけではない。
「はっ……、は、――っ」
キンゾルによる『融合』処置を施された者たちが総じて味わったという、自分が自分でなくなっていくような感覚。頭が割れて、中から何かが飛び出してきそうな。
(そ、れでも……)
構わない。実際にそうなったとしても。
悪に徹すると決めたのだから、報いとして受け入れよう。
だが、それも全てが終わってからだ。今はまだ、倒れる訳には……捕まる訳にはいかない。
(……、――)
壁に手をつきながら、足を引きずって進む。
(今は、まだ……?)
改めて疑問が浮かぶ。
これからどうするのか。
スヴォールンが――『雪嵐白騎士隊』が戻ってきてしまった。
自分の罪が露見し、私兵も投降。モノトラたちは敗北。ベルグレッテ一行を引き受けたキンゾルはどうなったか。少なくとも旗色の悪さを感じるようなことがあれば、即座に身を引くだろう。
メルティナの確保に向かったミュッティたちはどうだろうか。
(メル……、)
ああ。彼女といえば……もう随分と長いこと、面と向かってまともに話をしていない気がする。
「いたぞ、こっちだ!」
思考を割る大声。
足を進める先に、三人の兵士の姿があった。
「オームゾルフ祀神長、どうか抵抗なさらず……!」
半端な敬意を残したまま、慎重な足取りで近づいてくる。
(……く、)
もはや精神力も限界だ。攻撃術を練り上げられるか――
身構えようとした瞬間だった。
突如として、これまでにない激しい地響きが全てを震わせる。
「うおっ、な、何だ!?」
兵士たちが千鳥足を踏む。
そして、両者の間にある天井と壁が圧壊した。
「うおわああぁっ!?」
「さ、下がれ!」
身体が浮き上がるほどの衝撃。耳が役目を放棄しそうなほどの轟音。瞬く間に、瓦礫と埃が視界を埋め尽くす。
(……、こ、これは――)
風圧と小さな破片を浴びながら硬直することしばし。
土煙が晴れ始め、ようやくに何が起きたのかを察する。
双方を断絶したのは、横たわる巨大な柱だった。
全長十マイレ、太さ一マイレにも及ぶ、豪奢な装飾の施された中庭の石柱。これが半ばからへし折れて倒壊し、すぐ脇――オームゾルフたちがいたすぐ近くの廊下を押し潰したのだ。
して、なぜこんなものが倒れてきたのか。
「……、」
視線を投じると、崩れ落ちた壁の向こう側に、緑に彩られた中庭の景色が見て取れた。
そして、その中を乱舞する白い閃光の応酬。屋内庭園に吹雪が巻き起こっているかのような光景。
それを繰り出しているのは二人の詠術士。
一人は、ミガシンティーア・エルト・マーティボルグ。
そして一人は、グリフィニア・セアト・マーティボルグ。
「どうしたどうした~、ん? ん? グリフよ~。せっかくお前の猿芝居に付き合って、慣れもせん『怒』を演じてやったのだ。もう少し私を楽しませんか! フハハハハハ! 彼らの足止めを買って出たのだろう? お前は」
「……、気付いていたんだね、ミグ」
「そんなことでは私の足は止まらんぞ~? フ、クク! クククク!」
長く乱雑な髪を振り乱し、その整った顔を彩るはこの上ない笑み。奇なる喜の騎士。
二つ名を、『爆氷操』。得意とする系統は『解放』。生み出した力をそのまま放出する、一般的な操法。しかし、彼の練度は他と一線を画す。メルティナとはまた違った形で。
「クク、貫け」
歯を剥いたミガシンティーアが、右手の五指を突き出すように腕を伸ばす。それぞれの指先から扇状に射出される閃光。
飛距離と比例して広がるそれが、前方の全てを貫かんばかりの勢いで唸り飛ぶ。
「グッ……!」
身を翻したグリフィニアの肩口をかすめた一条の残像が、すぐ近くの石壁をいとも容易く貫通、粉砕した。
それは、氷穿閃と呼ばれるミガシンティーアの攻撃術。その威力はメルティナの射撃に引けを取らない。離れれば広範囲の敵を射抜く拡散矢と化し、近距離であれば容赦なく全弾が命中する槍突となる。
「やはり強いね、ミグ……」
「フフ。降参か?」
「まさか。『彼』は、こんなものではなかった……あの鮮烈な、全てを燃やし尽くさんばかりの炎は……」
よろめき血潮を散らすグリーフットの顔には悲哀の歪み。追い詰められて敗北を悟ったゆえ――ではなかった。
その背中から爆裂する形で広がるのは――クモの脚に似た鈎爪が十本。術によって物体を生成する『創出』、その頂点に位置する技量であろう。
「いいいぃいいいいいぃなぁああああぁ!」
迸る絶叫とともに、跳ぶ。否、飛んだ。
氷脚で地を蹴ったグリフィニアは、弧を描き中庭を縦横無尽に駆け回る。横のみならぬ、縦の軌道。壁を、柱をカサカサと這い上る、文字通りの縦横。人知を超越した、変幻自在の挙動だった。
「きいいぃやああぁぁぁあ――!」
虫めいた高速移動、それに伴い繰り出される氷塊の雨霰。結果、砲弾のようなそれらが四方八方からミガシンティーアへと降り注ぐ。
「ハァ――ッッハッハッハハハハハハ! いいぞいいぞ! そう来なくてはな!」
喜の騎士は、両手から発した氷穿閃でこれを次々と迎え撃つ。
降り注ぐ氷岩石、遡る氷矢の乱舞。それらの激突により、壁が、芝生の地面が、そして石柱が巻き添えを食って破片を散らす。
(……、なんという……!)
まるで多くの攻撃が入り乱れる戦場だ。しかし、それを演出しているのはたった二人の男。
単純な魂心力の保有量であれば融合処置を受けた今のオームゾルフのほうが彼らよりも上だろうが、戦闘技術はそうはいかない。相手の裏をかき、刹那の判断を下し、的確な術を備えて放つ。その一連の流れ、組み立ての速度が常軌を逸している。これが一流の戦闘。
こうなっては兵士も近づけまい。スヴォールンの言っていた通り、並の者に止められる争いではなかった。
身を屈めるようにして、オームゾルフは瓦礫の陰に退避する。
互い譲らず争う、二人の『奇なる一族』。
彼らの戦闘によって、この堅牢な柱の一本が砕かれたのだ。加えて、それが倒れ込んだことによる宮殿の損壊。本来ならば前代未聞の大事、とても容認される行いではない。
(けれど……!)
――今、この時においては好機。
おかげで廊下が崩れ、先の兵士らは自分に近づくことができなくなった。
そして、
(すぐ脇が中庭……、ということは、確か)
近くに、外へ繋がる勝手口があったはず。
(脱出、しなければ……!)
これも氷神の加護か。
転がるように足を急がせたオームゾルフは、一目散に……取り憑かれたようにその場所を目指す。
「……はぁ、はぁ」
一歩一歩。
次第に重くなっていく身体を引きずりつつも、着実に。
(なん……としても……)
やり遂げなければ。
(バダルノイスの、ために……)
正直、ここから先の計画はない。朦朧と鈍った頭では何も考えられない。しかしとにかく、今は逃げおおせねば。どうにか仕切り直すのだ。
(諦め……る、わけには……)
もはや執念のみで、重い足を進めることしばらく。
やがて、目的の場所へとたどり着いた。
廊下の一角にひっそりと備え付けられた、地味ながら頑丈そうな扉。
曲がりなりにも一国の主導者たるオームゾルフは、これら勝手口から出入りしたことは一度もない。
だが、この場所は外に通じているはずだ。
(よ、し……)
取手に手をかける。
がご、とつっかえる手応え。押しても引いてもびくともしない。
(鍵が……!)
無論、そんなものなど持っていない。そしてもう、別の出口を探している余力もない。
(……く、ならば……!)
短く詠唱を済ませたオームゾルフは、扉へ向かってありったけの力を解き放つ。
頑丈そうな鉄戸は、派手にひしゃげて外側へと弾け飛んだ。蝶番が外れ、ただの分厚い鉄板と化して石畳へ倒れ込んでいく。
少し力を込めただけでこの威力。以前の自分ではこうはいかない。
「はぁ、はっ……」
四角く切り取られた空間から、外の冷気がぶわりと吹き込んでくる。
「は、は」
その身を切るような寒さはしかし、敵だらけとなった迷宮から脱出できた解放感となって聖女の身を震わせた。
「よ、し……」
雪に閉ざされた外の景色。やや殺風景だと常々思っていた宮殿の周囲は、今は何より待ち望んでいた――到達したかった場所だ。
しかしやはり以前から思っていたことだが、等間隔で植樹したほうがいい。冬は葉を落としてしまっても、春や夏には目を楽しませてくれるはず。
今度、メルティナに相談して何の樹を植えるか決めるとしよう。この事態が落ち着いたら、二人で、じっくりと。
「――」
戸口が失せた枠へ寄りかかるように手をかけ、外の様子を窺う。首を巡らせるも、兵士の姿はない。まるで人の気配すらない。好機。
(……よし、今、……なら、……………………?)
吹き抜けていく寒風が頭を冷やしたのだろうか。
ふと、途切れそうなオームゾルフの意識に今さらの疑問が湧き上がってきた。
いかに宮殿の側面部とはいえ、なぜ今この状況でここを全く固めていない? どうして勝手口の扉が施錠されていた? これでは日常で使うこともできな――
「オームゾルフ……!」
呼び声に振り向くと、後方の廊下の角からスヴォールンが現れたところだった。
「……!」
追いつかれた。聖女の思考に緊張が走る。
「……、馬鹿な……!」
が、間近に迫ったはずのスヴォールンはなぜかその表情を凍らせた。
常に冷ややかな彼にしては珍しい、こわばった顔。その小さな呻きは、相手を取り逃しかけているゆえの焦りか。
「……!」
一も二もなく、オームゾルフは外へ飛び出した。
妙にすり減った石畳に散乱している雪の塊を踏みしだき、扉を塞ぐための詠唱を始める。
『全く。大丈夫だって。君のことは、これからも私が支える』
でも、メルは今ここにはいないから。
『おっと、そうだった。我が主よ、お許しを。とにかくさ、いつまでも一緒に頑張っていこう』
そう、一緒に。だから、こんなところで捕まる訳にはいかない。
『ああ、それでこそだよ』
彼女が望む私でいなければ。だって。
『――――――私は、そういう君が好きなんだ』
「チィッ!」
詠唱を察し、猛然と駆け寄ってくるスヴォールン。
今にも倒れそうなオームゾルフにできることは限られている。
氷塊でこの出入り口を鬱ぎ、距離を稼ぐ。いかに彼のブリオネクといえど、そう簡単に壊せる代物ではない。
追いつかれるが早いか、詠唱完了が先か。
(氷神、キュアレネーよ……! どうか我に、加護を……!)
――その願いが通じたか。
結果は後者。
間に合った。
「よせッ……オームゾルフ、戻れエェ――ッ!」
そして、これほど稀有な場面はなかったに違いない。あのスヴォールンが、目を剥いて絶叫した。
翻ればそれは、届かないと認めた宣言にも等しく。
がぎん、と。打ち立った氷塊が、扉のあった箇所を完全に塞ぎ切った。
「……、やっ…………、た」
立ち眩みと頭痛に襲われながら、オームゾルフは自らが眼前に打ち立てたそれを仰ぎ見た。
敵を拒絶する、堅固な氷壁。うっすらと白靄を漂わせた、零下の鏡面。
間に合った。
ということはつまり、キュアレネーの導き。自らの行い、選択が正しかったことの証明。
(あ、あ……氷神、キュアレネーよ……)
ずずず、と。
遥か頭上で、何かが擦れるような……滑るような異音がして。
(感……謝、いた、します)
そして。
(…………ねえ、メル……私……がん、ばるわ。……だって…………わたしは……ずっと、あ)
『真言の聖女』と呼ばれながら。
終ぞ、口にすることのできなかったその思いと重なって。
ばがん、と鈍い音が聞こえた気がした。
オームゾルフが生み出した大きな氷塊。扉を塞ぐそれの前で、スヴォールンはただ一人立ち尽くしていた。
高い練度と並外れた力によって現界したであろうその白氷は、曇りガラスのように向こう側の景色をかすかに映している。
スヴォールンが駆けつけると同時に鳴り響いた、盛大な破裂音の連続。
直後、氷の壁から透過するのは赤い光のみとなった。
「………………」
男はただ、その歪んだ赤光を……血の色を見つめていた。
――冬場は、宮殿の屋根から雪が滑落する。
十数マイレもの高度から、凍結し硬くなった雪の塊が降ってくるのだ。極めて危険であるため、建物の脇に通じる各勝手口は、利用できぬよう厳重に施錠されている。外周部の見回りも行われていない。
宮仕えであれば誰もが知っている、冬期宮殿の決まりごと……。
「…………」
追い詰められ、もはやそこに至る思考すらなかったのかもしれない。知識として知っていても、一人で一階を利用する経験がなかったことも理由のひとつか。
ともあれ普段の彼女であればありえない選択、ありえない行動。それほど追い詰められていた証。
だが。
それを、どうにか止めることはできなかったのか。
スヴォールンは、確かに制止した。
「よせ、戻れ」と。
しかし、彼女は拒絶した。されてしまった。
追手のありきたりな怒号とでも思われたか、その意図が正しく伝わることはなく――。
「……」
青年は屹立した氷の表面に手を添える。術者がいなくなったことにより、遠からずこの塊は消失するだろう。
しかしそれはやはりどこまでも冷たく、硬かった。
最後まで変わることのなかった、両者の間柄を示すかのように。




