511. 氷神
オームゾルフと向き合うどころではない。
彼女と同じ階に留まっているだけで、自分たちはやがて死に至る――。
誰もが行き着くであろうその結論に抗うかのように、
「オラァ!」
我が物顔で壁面に端張る白氷へ向かって、エドヴィンが本日幾度目となるかも分からないスキャッターボムを撃ち放った。
くぐもった爆発、こんもりと生じる黒煙。
すぐに視界が晴れ、着弾点を凝視した彼は、クッと忌々しそうに喉を鳴らした。
攻撃が命中した部分の氷は、ほんのわずかに表面が溶け削れたのみ。本来の石壁すら露出していない。
「クソったれ……! このザマじゃ……あの階段塞いだデケぇ氷なんざ、とても壊せそーにねーな……」
そんなエドヴィンのぼやきには、サベルが反応した。
「仮に壊せて下の階へ逃げられたとして、ここは敵の本拠地だからなァ。大元であるオームゾルフ祀神長をどうにかする以外に、状況が引っくり返る道もないだろうぜ……。リューゴと遭遇してない無傷の兵士もまだいるんだ」
飽くまで聖女が歩いて追ってくるのであれば、あるいは振り切ることも可能なのかもしれない。
が、彼女をどうにかしない限り、流護たちはバダルノイス全土に知れ渡るお尋ね者のままだ。
そもそもこれは一度限りの奇襲作戦。オームゾルフの虚を突き、一挙攻め立てて押さえるための。
時間をかければかけるほど、趨勢は敵側に傾いていく。
例えばこうしている間にも街の騒ぎが鎮められ、増援がこちらに向かっているかもしれない。
オームゾルフ一人に対してすらこの有様。流護含め、皆の疲労の色も濃い。とてもではないがこれ以上、余計な兵の相手をしている余裕はない。
(……逆に考えりゃ、今のこの状態なら敵の増援がいても三階には上がって来れないんだけど)
あんな力任せの手段を使う以上、この三階に他の人間はいないのだろう。そもそも襲撃の報を受け、宮殿内の民間人は二階に避難中のはず。
この場には自分たちと、そしてオームゾルフだけ。
ピンチではあるが、チャンスでもあるのだ。それもおそらく、最初で最後の。
「とは言うがよ、あんなのとマトモに闘り合ってられねーよ……。氷で扉を固められちまう前に、その辺の部屋に入れねーか? 一旦、隠れて態勢を立て直してよ……」
「廊下に俺たちの姿がないことに気付けば、オームゾルフ祀神長ならすぐに各部屋を改めるだろう。見た感じ、三階は部屋数も極端に少ないからな……すぐに見つかるぞ。それに室内なんてのは、まさしく袋小路だぜ」
エドヴィンとサベルの二人は逃げ場がないことを今さらのように噛み締めてか、ともに重い溜息を吐く。その呼気もまた、白くこんもりと色づいた。
「クソったれが……第一、あのとんでもねー吹雪……あいつ自身は寒くねーのかよ」
やけくそ気味に毒づくエドヴィンだが、それを言い出したなら、寒い寒くない以前に呼吸すらまともにできるとも思えない。あれはもはや、それほどの域の暴風壁だ。
ベルグレッテが硬い表情で答える。
「今のオームゾルフさまは、自身の周囲の冷気すら完璧な制御下に置いている……そういうことでしょうね」
自らの火の粉で火傷を負うことも珍しくないエドヴィンはその難しさを理解できたようで、ただ言葉を失う。一方、ピンと来ない流護は率直な疑問を口にした。
「それって、そんなにすごいことなんか?」
「自らの力によって影響を受けた大気までもを完全に制御する……それは、あのディノですら不可能な所業のはずよ」
「!」
その男の力量を誰よりも知る流護としては、そう例えられると何よりも素直に分かりやすかった。
「だからこそ、サベルさんの完全制御は稀有な力なのよ」
「なるほど……」
サベルは美術館でのアルドミラールとの戦闘において、自らは影響を受けることなく相手だけを熱に巻こうとした。結果として失敗こそしてしまったが、そんな戦術は完全制御という特性を持つ彼だからこそ可能な離れ業だったのだ。
その当人が、お手上げといった様子で手のひらを上向ける。
「だがオームゾルフ祀神長は今や、似たような真似を自力でやってのけてるって訳だ……。ったく、商売上がったりだぜ」
不安げなジュリーが眉を八の字にして問いかけた。
「ねえ、ベルグレッテちゃん。制御もそうだけど……あれだけのとんでもない力をずっと放出し続けられるものなのかしら? すぐに魂心力が底をつくんじゃないの?」
「……おそらく『融合』処置を受けた詠術士は、無尽蔵に近い魂心力を有しています。消耗を期待するのは難しいかと……」
「何か……何かないの? 弱点とか、付け入る隙とか……」
「……あるとすればやはり……オームゾルフさまが荒事に不慣れであることでしょうか。例えば先ほどあのかたがアルドミラールを攻撃した際、己の力を把握しきれていないような印象がありました」
『……ふむ。人体を損壊するならば、この程度で充分なようですね』
圧倒的な氷塊で瞬殺していながらも、自分で自分の力を確認しているような雰囲気だった。
「戦闘技術で我々に及ばないことは、戦士でないオームゾルフさま自身が誰よりも理解している。だから、あのかたは選んだ……。真っ向から交戦するのではなく、圧倒的な力を振り撒き続けることで、私たちを近寄らせずに殲滅しようと」
「…………近寄らせずに、か」
流護が呟くと、女性陣の注目が集まる。
「だよな。オームゾルフ祀神長は俺らに『近付かれたくない』から、ああやって吹雪をぶっ放してる……」
いかに優秀な詠術士であろうと、強大な力を得ようと、冴えた頭脳を持っていようと、オームゾルフが『戦闘の素人』であることに変わりはない。唯一の弱点はそこだ。
(…………つまり、接近さえできれば……)
基本的には先のアルドミラール、そしてこれまで倒してきた多くの詠術士たちと同じように。
ただ違うのは、近づけば死に至る絶対零度を纏っていること。神詠術と魂心力が、これまでの敵とは段違いであること。
「クソ、寒ィってんだよ……!」
エドヴィンが手のひらに載せている火球をより大きくするが、焼け石に水ならぬ極寒に種火か。
「俺たちがいくら火を出したところで、気休めにしかなりそうにないな……」
サベルがパンでも千切って撒くみたいに、小さな紫炎を周囲に放る。
特殊だというその力は、ぽとりと落ちた白氷の上でも燻るように燃え続けている。……が、やがて根負けしたかのように縮まり消えていく。
少しばかり暖かくなったかに思われた空気は、あっという間に元の冷たさに戻ってしまう。
「…………」
冷たい氷上で儚く消える紫色の輝き。
その様子を眺めていた流護の脳裏に、ある考えが閃いた。
「なあ、サベル」
「ん? どうした、リューゴ」
「何だっけ……あんたの炎の特殊な力って、さっきの話の完全制御と、あともう一個……」
「ああ、『万物炎上』だな」
「そうそれ。確か……何でも燃やせるんだよな。石とか水なんかでも」
「そんなとこだ。とは言っても、根気よく水やら氷やらをぶつけられ続ければ消えるし、デカすぎて延焼しづらいものや俺の力を上回るものは燃やせない……というより、火の方が負けて消えちまう。この氷もそうだな。とりあえず火はつくが、オームゾルフ祀神長の力が強くて溶かすまではいかないってとこか」
「……でも一応、何にでも火がつきはする……ことだよな」
そこで流護が目をつけたのは、その万物炎上なる特徴だ。
「…………思ったんだけどさ、――――」
脳裏に浮かんだ『その提案』を、少年は口にする。
それを聞いた皆が少年の顔を凝視した。何を言っているのか、との思いをありありと表情に浮かべて。ベルグレッテですらも。
「…………おいおいリューゴ、本気で言ってるのか?」
そしてその能力の操者たるサベルも、明らかな難色を示す。
「いくら何でも危険すぎる……無茶にもほどがあるぜ、それは」
「そうよリューゴ……! そんなことをしたら、いくらあなたでも無事では……!」
「それに今も言ったが……オームゾルフ祀神長の氷や吹雪が相手じゃ、俺の炎ですらすぐに消されちまう。もって数秒だ」
心配顔のサベルとベルグレッテに対し、流護は心配無用と笑った。
「大丈夫。数秒ありゃ充分だから」
「……ったく、好き勝手言ってくれる。……だが、そうだな……。他に策があるかと言われりゃ……」
どの道、このまま逃げ回っていても凍死するだけだ。それはもう全員が理解している。
「でも、リューゴ……」
「大丈夫だ。ベル子は、回復術を準備しといてくれ。とびきりのヤツをさ」
一方的に告げて、流護は上着のボタンに手をかける。ひとつひとつ外し、この極寒の中で脱ぎ放った。
「うわわはー、寒みー! エドヴィン、ちょっと火頼むわ。火力上げて上げて!」
「オ、オウ……」
重しとなる防寒着を脱いで普段通りの身軽な装いとなった流護は、焚き火に当たるみたいに彼の生み出した炎に身を寄せた。
「アリウミ……相変わらず、お前って奴ぁよ……」
「ん? 何だよ」
「……イヤ、他に打つ手もねーか。こーなりゃ頼んだぜ。お前ならやれんだろ?」
「当たり前だろ。期待してくれ」
自信たっぷりに言ってのける流護だったが、ガチガチと寒さに歯を鳴らしながらなので説得力に欠けたかもしれない。
「リューゴくん……きみってば、思った以上にとんでもない人なのねぇ……」
「任して」
「褒めてないけど……でも本当に成功したら、褒めるどころの騒ぎじゃないわよね……」
ジュリーは半ば放心状態のようだ。
「…………リューゴ、ごめんなさい」
「どしたベル子、なんで謝る」
「私の詰めが甘かった……。『融合』を嫌悪するあまり、その本質が見えていなかった。……オームゾルフさまが施術を受け入れたことだって、可能性としては充分に考えられることだったはずなのに……。私は、そこから無意識に目を逸らしてしまっていた」
少女騎士はきっと、最後の『よすが』としてすがりたかったのだ。
いかにオームゾルフが悪の道へ落ちても、かの外法に身を委ねることだけはないはずだと。それで聖女の罪が消える訳ではないと分かっていても。
何もかもを俯瞰して見られるようになっても、なお。この世界に生きる信仰者の根源たる思いとして、それだけはないはずだと。
「ベル子が謝ることじゃないだろ。ただ、そんだけ『融合』が強力で……言い換えりゃ、魅力的だったって話だ。オームゾルフ祀神長は、それを分かって受け入れたんだろうし」
「……、魅力的……」
「あ、いや。そんな言い回しすると、ベル子は怒るかもだけどさ」
「……ううん。きっと、リューゴの言うとおりよ。魅力的、なのよね。成功すれば、あれほど莫大な力を得られるんだもの……」
この世界に生まれ落ちた時点で定まっている、個々の限界。
持たざる者は元より、恵まれた者までもがさらに上の領域へ至れるかもしれない可能性。
神詠術を授けてくれた神に対して侮辱的だと思いながらも、おそらくその誘惑に屈する人の数は少なくない。
こんな殺伐とした異世界に生きるなら、尚更に。
(そういった意味じゃ、ハンドショットも似たようなもんだ。そんなもんを見境なくバラ撒くオルケスター……。このまま放っとくと、またどっかで同じことが起きるかもな……)
ともあれ今は、この状況を打破することが先決。
流護はエドヴィンが維持してくれる直火で暖まりながら、入念なストレッチに励む。
「――おっと、来るぞ」
やがて吹いてきた、突き刺す冷たさを伴う一陣の風。
サベルがその出所である後方の廊下を睨む。
「……リューゴ、準備はいいか」
「おっけー」
そうして曲がり角から、移動する猛吹雪が現れた。
石壁、天井、絨毯を氷雪に固めながら前進する白銀の暴風。それを纏う華奢な人影。
青銀色をしたオームゾルフの静かな瞳が、無感情にこちらを捉えている。
「――――、は」
有海流護は神の存在など信じてはいない。
が、その威容や迫力を前に漠然と感じた。
それは、先ほどもふと脳裏をよぎったことだ。
冷たく激しく、それでいて美しく、神聖さをも宿したオームゾルフの厳粛なる佇まい。
もし仮に氷神キュアレネーが実在するならば、まさにこのような姿形なのではないかと。
「――よっし、やるぜ」
だが例え神が相手だろうと、今さら気圧されはしない。
あの時、宣言したのだ。
例え神だろうが、邪魔をするなら殴り倒すと。
「サベル、ジュリーさん、エドヴィン。そんじゃ頼んだ」
「あァ、任されたぜ……!」
「ええ……! もう、やるしかないわね!」
「オウ!」
とうに腹は括っている。
「……」
逃げようとしない一行の様子に違和感を覚えたか、オームゾルフの歩みが止まった。
双方の距離は二十メートル前後。
この間合いで相対しているだけで、みるみる体温が奪われていくのを感じる。
「……しっ!」
覚悟を決めて、流護は青絨毯を蹴った。
後ろではなく、前へ。
絶対零度を纏う氷神の体現者へ向かって、迷うことなく一直線に。




