508. 晴れ、のち
「強い……とは、思っていたが……」
ただ呆然と、夢でも見ているかのようにサベルが呟く。
「いくらリューゴでも、奴には苦しめられるだろうと考えていたぜ……だが、これほどか……」
「ほんとにね……」
彼を支えるジュリーも、信じられないといった面持ちで首を振った。困惑気味に顔を見合わせる恋人たちに反し、エドヴィンが高らかに笑う。
「かっかっか! ま、アリウミに掛かりゃこんなもんだろーよ」
白目を剥いて、潰れた鼻から湧き水ばりに血を溢れさせるアルドミラール。そんな敗者の腹から立ち上がった流護はというと、冷静にこの戦果を振り返った。
「相性だよ相性。あとこいつの最大の敗因は、俺を完全にナメてたことかな」
自身が語っていた通り。アルドミラールは一度、流護の戦闘を目にしている。そこから得られる情報はいくつもあったはずだ。
にもかかわらず、過去の多くの詠術士と同じように、一挙接近を許してそのまま倒された。三秒後にまっすぐ突っ込む、とわざわざ予告まで受けていたにもかかわらず。
理由は大まかに、ふたつの過信による。
ひとつは、自律防御の過信。まさかワン・ツーで……素手の攻撃であっさり霧散するとは想像もしていなかったのだろう。
そしてもうひとつは、ヘィルティニエの過信。
事前情報として、おそらくジ・ファールとヘィルティニエが流護を追い詰めたとの話だけを聞いていた。よってそれ以上に力を発揮できる自分ならば、確実に勝てるに違いないとの驕りがあった。
しかし実際のところは、先ほど流護が語って聞かせた通り。
膨大な魂心力を宿し、強力な神詠術を扱う相手であることは間違いなかったろう。ベルグレッテたち四人の消耗ぶりを見れば、それは一目瞭然だ。
だからこその、強大な力を得たがゆえの慢心。そこから生まれた、流護への過小評価。
そして、相性。
物騒な獲物を持っていようと、いかに強力な術を扱えようと、アルドミラールの身体能力はサベルから聞いた限り流護にしてみれば『並』。ジ・ファールのような軽快さもなく、下階で闘ったヴィニトフ兄弟のような技巧もない。
この世界における『並』は、流護からすれば動かない的と何ら変わらない。となれば、単にフィジカルで圧倒できる。
それら要素による、必然の決着だった。
「みんな、ケガは大丈夫なん?」
気絶したアルドミラールをふん縛った流護が一行を振り返ると、ベルグレッテら四人はそれぞれに肯定をもって応じる。そこでふと気付いた少年は、今さらのように周囲を見渡した。
「あ、そいやさ。セプティウス着てるとかいうナスビって奴は? いなかったのか?」
大理石の床や壁、荘厳な柱のそこかしこに刻まれた傷跡や焦げ跡。繰り広げられた激戦が容易く想像できるこの場に、もう一人のオルケスターの姿はない。
「オウ。あのナスビなら、あそこから退場したぜ」
いかにも悪そうに笑いながら顎をしゃくるのはエドヴィン。その指し示す先を見やれば、壁面上部に設けられた採光用の窓がきれいさっぱり枠だけになっていた。
「はは、なるほど」
聞けば、モノトラはトキシック・グレネードを持ち出したという。となれば、強制退去も致し方なしだ。本来であればアルドミラールと同じく制圧しての捕縛が望ましいところではあったが、麻痺ガスをばら撒くような危険ぶりを考えたなら致し方ない。この高さから落ちたなら、もはや戦闘不能と考えていいだろう。
これで敵戦力の大半を無力化、ベルグレッテたちとも無事合流を果たすことができた。
未だ遭遇しないキンゾル・グランシュアの動向も気にかかるところではあるが、その特異性――失われる訳にはいかない特殊な力を有していることを考えると、前線には出てこない可能性が高い。
この先へ行けば、いよいよオームゾルフと対峙できるはず――。
「……しかし参ったな。まさか本当に、俺たちの方が助けられるとは」
サベルが苦笑を交えてぼやく。
本来の作戦としては流護が敵戦力の大半を引き受け、その隙に彼ら四人がオームゾルフを拘束する――といった手筈ではあった。
トップたる聖女さえ押さえれば、流護がそれ以上持ち堪える必要もなくなるといった意図も含めて。
「まあほら。そこは臨機応変に、って話だったし」
しかし流護個人としては、どうにか耐え忍ぶなどといった考えは最初から持ち合わせていなかった。敵勢力を殲滅次第に駆けつけるつもりでいたし、前もってそう伝えていた。
「兵の中に白士隊はいなかったのか?」
「普通にいたよ。何ちゃら兄弟とかいうオッサン二人とか、いい感じで強くて楽しかったし……あとは、普通の兵士の中に明らかに動きが違うようなのがチラホラいたから、あれがそうだったんじゃねえかなってぐらいで」
若干名、流護のジャブにカウンターを合わせようとしてきたり、鋭い立ち回りを披露した者がいたのだ。もっとも、そうした相手には二割増しの力で対応し、結局は他の兵と同じ交戦時間で眠ってもらっていた。
「とんでもないわ……それで本当にたった一人で切り抜けてきちゃうなんて、思ってもみなかったわよ……」
しかしそんなジュリーの反応はきっと真っ当なものだ。
「ケッ、トクベツ不思議にゃ思わねーな。何つっても、お前のことだからよ」
犬歯を剥いて笑うエドヴィンのように、幾度となく異質な空手少年の闘いぶりを目にしてきた者でもなければ。
「……改めてありがとう、リューゴ。また助けられたわね」
「気にすんな。何回でも助けるし、必要ならこっちも助けてもらうし」
変わらず気遣いを欠かさないベルグレッテに笑顔で応じつつ、流護は奥へ続く通路の様子を窺う。
窓のない石廊はひっそりと薄闇に閉ざされており、ここからでは今ひとつ見通せない。
「んでもこれでようやっと、あとはオームゾルフ祀神長を捕まえるだけだよな」
ここでオルケスターの二人が待ち構えていた以上、最後の障害も取っ払ったと考えていいはず。仮に護衛が幾人か残っていたとして、今やさしたる脅威にはなり得ない。
と、同じく先の通路に目線を向けていたベルグレッテが小さく尋ねてくる。
「……リューゴ。下の階で兵士を見かけなくなった……と言ってたわね」
「ああ。なんか急にパッタリ会わなくなったんだよな」
あれほど次から次へと挑んできた法の守護者たちだったが、まるで波が引いたみたいに姿が見当たらなくなってしまったのだ。
「いよいよ敵わねーと思って逃げたんじゃねーか?」
エドヴィンがサラリと言うも、サベルが「いや」と首を横へ振る。
「いかに厳しい戦いを強いられたにせよ、ここはバダルノイスの本拠地だ。たった一人を相手に、兵団がこぞって尻尾を巻くとは流石に考えられんさ。だが、悟りはしたかもな。このまま続けても勝てんと」
残りは五十人前後のはず。確かに全兵力の四分の三を欠いたとなれば、正攻法では無理だと判断して別の策を講じている可能性もある。
「そういえば二階には、戦えない人を避難させる部屋があるって話だったわよね。向こうにしてみれば、あたしたちの狙いなんて知る由もないだろうし……せめてそっちの防備を優先しようとして動いてるのかも?」
そんなジュリーの推測が正しいのなら、流護たちとしては僥倖だ。
目的はあくまでオームゾルフの拘束であり、宮殿内の人間を鏖殺することではない。しかし、そうと勘違いして戦力を見当違いの方向へ集結させているのであれば、こちらとして願ったり叶ったりとなる。何の罪もない民たちは不安に駆られているだろうから申し訳ないところではあるが。
「そうあってくれれば楽観もできるが、この宮殿も広いからなァ。五十人程度だと、単純にリューゴを見失ったセンも考えられる」
「あっ。でもあれよね。残りの戦力をかき集めて、オームゾルフ祀神長を守ろうとしたりはしないかしら……?」
ハッとしたジュリーの言に対し、オイオイと表情を渋くしたのはエドヴィンだった。
「それだと、ここにいたら鉢合わせちまうんじゃねーか」
皆それぞれに消耗している。さすがに、今さら五十の軍勢と正面衝突するような真似は避けたい。
「そうなっても困る。いずれにせよ休憩はここまでにして、先に進むとしようか」
サベルが気合を着れ直すように息を吐く。
頷いた全員が、広間の先に続く通路へと目を向けた瞬間だった。
「その必要はございませんよ」
よく通る美声とともに、銀色の人影が現れた。
皆が――殊更にベルグレッテが、その表情を驚愕に染める。
汚れなき純白のローブに身を包み、同色の長い神官帽を冠したその姿。
優しく細められた瞳、長く伸ばされた髪ともに、目の覚めるような青銀色。白く透き通るような肌と小造りに整った面立ち、儚げながらも美しいその佇まいは、聖女の名を冠するに相応しい。
――少なくとも、外見だけなら。
三階奥の廊下からゆっくりとした足取りで広間へやってきたのは、他でもない――
キュアレネー神教会の元高僧にして現バダルノイスの王、そして此度の事件の元凶。
エマーヌ・ルベ・オームゾルフ、その人だった。




