299. 黒曜のアリアンロッド
巨獣と小さな人間、両者の立会いを見守る者がいた。
(あの男……たった一人で、術も……武器すらも使わずに、ズゥウィーラ・シャモアと……!)
岩陰に隠れ息を潜めるその人物は、『銀黎部隊』の一人である女騎士リサーリット。
二号車につくため走り出したまではよかったのだが――ズゥウィーラ・シャモアが並木に体当たりを仕掛けてへし折った際、砕けた幹の破片が凄まじい勢いで飛んできた。咄嗟に避けこそしたものの、すぐ近くの段差に足を取られて転倒、足首を負傷。処置は自分の術で済ませるも、そうこうしているうちにすっかり遅れを取ってこの有様である。
ほのかに漂う青い霧のおかげか、みっともなく転んだ様は誰にも見られなかったようだ。反面、誰にも気付かれず置いていかれる形となったのだが。
(どうして、私は……っ!)
何という不甲斐なさか。
昼間になると、途端に力を出せなくなる。夜の訪れと共にこの身を包む万能感や全能感が、まるで夢だったように消え失せてしまう。
「情け……ないっ……」
思わず呟いた声は震えていたが、どうすることもできない。
兄に言われるまでもなく、昼間の自分ではズゥウィーラ・シャモアと闘うことなど到底不可能。
ここに留まればすぐ目の前に怨魔が。戻ったところで、アマンダたちと交戦中の怨魔がいる。今から三号車のほうへ行くなど愚の骨頂。
となれば、先に進むしか――二号車を追うしかない。
足はひとまず大丈夫。いつでも動ける。が、
「っ……」
身が竦む。
すぐ間近で少年と対峙するズゥウィーラ・シャモア。怨魔が駆けるたび、その振動が自分の身体を揺らしてくる。
完全に逃げ遅れてしまい、今はもう自分一人しかいない。下手に動いて、あの化物に目をつけられたりしてしまったら――
「~~っ」
昼間には、能力だけでなく勇気まで削げ落ちてしまうようだ。
あの遊撃兵みたいに、ひょいひょい躱すなんて真似などできるはずもない。というより、怨魔の速度に追従してあんな動きができることが信じられない。
(あの男……本当に、人間なのか……?)
そんな疑念すら湧いてくるほど、『拳撃』の実力というものは常軌を逸していた。
強力な使い手――例えばアマンダやオルエッタなら、単純な火力のみであれば彼を上回るだろう。しかしそれは、当然ながら神の恩恵あってこそだ。
少年の一挙一動、そこに派手な神詠術の彩りはない。しかしその肉体や動きはまるで怨魔に劣らない。さながら、人の形をした怪物。
すぐそこで闘っているのは、人と魔の異形が二体。
「…………、」
ともあれ、腹を括るしかない。
今この場において、自分は足手まとい以外の何者でもない。
こんな岩陰にいても、いつ戦闘のとばっちりを食うか分かったものではない。それにあの遊撃兵が負けてしまうことがあれば、次はすぐ近くにいる自分が危ない。
(本当に、私は……)
惨めでたまらなかった。
それでも。
リサーリットは息を潜めながら、その場から走り出す機会を……逃げ出す機会を静かに窺った。そうするしかなかった。
「……チイッ!」
これまで幾多の怨魔を斬り伏せてきた愛剣の一閃は、脚の剛毛を撫でるだけに留まる。毛とは思えない硬質の感触が、腕に痺れるような手応えを返す。
「くっ!」
真上から降ってきた頭突きを氷の防護壁で押し返しながら、アマンダ・アイードは悪態をついた。
「ったく、欝陶しい……!」
「あらあら。きつそうね~」
「うるさいわよ、オルエッタ」
少し離れた位置で観戦する相棒のほうを見ずに返し、熟練のロイヤルガードは眼前の敵を仰ぎ見る。
(これが……ズゥウィーラ・シャモアか……)
当然ながら、こうして自ら対峙したのはこれが初めてとなる。
十五年前、『ラインカダルの惨劇』と呼ばれる事件を引き起こした怨魔。子供十名、兵士八名が犠牲となったそれは、忌まわしき厄災と呼ぶべき類のものだった。数ヶ月前に起きた王都テロでは、構成員の中にその惨劇の当事者がいたと聞く。
実際に自分で相対してみて驚いたのは、異常なまでの猪突猛進ぶりだ。この怨魔は出現してからこれまで、一貫してアマンダ『のみ』を狙い続けている。一緒にいるオルエッタのほうなど見向きもせず、ただひたすらに襲いかかってくる。
「……、」
自分にはまだ、抗う力がある。
しかしあの事件でこの怪異に出くわした子供たちは、一体どれほどの恐怖を味わったことだろう。一人、また一人と、あの暗黒の口腔内に為す術なく消えていったのだ……。
(……さて……)
そんな思いをよそに、アマンダは互いの戦力を分析する。
振り回される頭突きは、己が防御術たる絶氷楯で完璧に防げる。裏を返せば、普段の戦闘で用いるような攻撃術応用の薄膜では、さすがに防げない。
一方でこちらの剣は、怨魔の硬い短毛や筋肉を前に弾かれる。魂心力を防御術に集中しているため、攻撃に回す余裕もない。相手の身体があまりに大きすぎて、オーグストルスのように満遍なく凍らせて閉じ込めることも容易ではない。相手の膂力を考えたなら、力技でぶち破られる可能性が高い。
総じて、決め手に欠けるままの――互角。
(……ふん。それでも長期戦でじっくり闘るか……もしくは『あれ』を使えば、仕留める自信はあるんだけど)
アマンダは防御に特化した戦士である。堅実に立ち回り続ければ、勝てる確信はあった。
しかし、今はそれどころではない。この一体を迅速に仕留め、もう一体を追わなければならない。
ただ早く倒すのならば、己の切り札を使うのも有効だ。しかしそれでは、周囲の人間を巻き込んでしまう。もちろん、傍らのオルエッタも例外ではない。消耗が非常に大きいのも難点だ。
一介の騎士として、悪名高いこの怨魔を一人で仕留めてみたい気持ちがない訳ではないが、
「……おっと。準備完了したみたい。悪いわね、鹿。あたしとしても少し残念だけど……お遊びの時間は終わりよ」
誇りや功績より優先すべきものがある。そう割り切ったアマンダの声を受けて、ズゥウィーラ・シャモアは凄まじい勢いで顔を横向けた。
即ち――これまで手出しすることなく脇で観戦していた、オルエッタのほうへと。執拗にアマンダのみを狙っていたはずの、その怪物が。
「あらあら。今までアマンダしか眼中になかったのに。さすがは怨魔だけあって敏感ね~」
白き麗人の可憐な唇が。
不穏な言葉を、紡ぐ。
「――死の気配に、敏感なのねぇ」
優しさを残したままの声にゾクリとしたものを感じながら、アマンダは頼れすぎる相棒へ続きを託す。
己が『防』の騎士ならば。
彼女は、比類なき『暴』の騎士だった。
「時間稼ぎ完了。頼んだわよ、『ブラッディフィアー』」
「ありがと、アマンダ。お蔭様で整いました」
友人への感謝とともに、白の令嬢は進み出る。
真白の髪が揺れ。
銀の瞳が、鋭く濃い光の尾を引いた。
欠点は二つ。
一つ、詠唱時間が長いこと。
完成までに五分少々を必要とする。それ自体はさして珍しいことではないが、この間、わずかほどの神詠術すらも使うことができなくなる。持てる魂心力の全てを、この術のために注がなければならない。
一つ、詠唱保持ができないこと。
絶大すぎるそれを、押さえ込んでおくことができない。
この二つの制約は、合わされば詠術士にとって致命的な要素となる。
保持が不可能であるため、敵を前にしてから詠唱を始めなければならない。そのうえで神詠術を使わずに、五分もの間を凌がねばならない。
それは矛盾だ。人は術がなくては闘えないというのに、その術を発動するために無術で闘う必要があるのだから。
到底現実的でないその条件を乗り越え、使いこなすのが彼女であるが――今この場においては、単一の対象のみを執拗に狙うズゥウィーラ・シャモアと、その猛攻を凌ぎきる防を備えたアマンダ・アイードが、期せずして比較的容易に制約を満たす礎となった。
「――闇の盟主アポフよ。総てを原始の黒へと染め上げ給え――」
オルエッタの歌声めいた呼びかけに応えたのは、耳障りな濡れそぼった爆音。
『黒』が、墨をぶち撒けたように――荒々しく、乱雑に現界した。
びしゃあ、と虚空に黒い軌跡を描き、術者たる白き麗人を抱きながら渦巻く。
それはさながら闇の大蛇。
液体とも気体ともつかぬ、妙な質感とぬめりを帯びたそれは、空間そのものを蝕むように滞留する。そんな闇がぬるりとした尾を引けば、その後には黒い泡がごぼごぼと弾けて消えた。
白く清廉なオルエッタ自身とは――あまりに正反対。ただただ暴力的な、不吉な、おぞましいまでの、黒。
入れ替わりで下がったアマンダがつまらなげに呟く。
「鹿、お前は判断を誤った。あたしよりも先に、オルエッタを狙うべきだった。その闇を纏われる前にな。そうすれば、万に一つの勝機もあった……かもしれん。もう遅いが」
『白き宵闇』。
授けられたその二つ名を体現したかのごとく、白の女は黒の闇に包まれて微笑む。
「オルエッタ、参ります」
宣言した女を前に、怨魔は地響きさながらの咆哮をもって応えた。
金管楽器の重低音を十倍にも増幅したかのような猛り。か弱い生物であればそれだけで死に至りそうな衝撃波を振り撒き――
同時だった。
ズゥウィーラ・シャモアが一際大きく首を横向きにしならせたのと、漆黒の残光を放ったオルエッタが鋭く滑り込んだのは。
ロック博士が戯れで作った、『ダルマオトシ』という玩具がある。
それを彷彿とさせる光景だった。
オルエッタが『振り向く』。背に闇の翼めいた残像をたなびかせ、手に漆黒の曲剣を携えた白の女騎士が。一呼吸の間もなくすれ違っていた敵を、振り返る。
「手応え、確かに頂きました」
現象の結論から述べるならば。
ズゥウィーラ・シャモアの四肢、その全てが――水平に断たれていた。
静寂の間を置くこと一拍。
怨魔の巨体は滑るようにずり落ち、凄まじい振動を伴って大地へと激突した。そこで『ようやく』振り抜かれた首と頭が、皮肉にも切断された自らの下脚四本を豪快に弾き飛ばす。横薙ぎされた首の勢いに引っ張られる形で、巨大な胴体が血風を撒き散らしながら横一回転した。
舞い上がる砂礫や血泉、怪物が『滑り落ちた』ことで巻き起こる余波の全てを纏わせた闇の奔流で弾きながら、汚れ一つない純白の女騎士は告げる。
「――闇の主アポフよ。その絶大なりし力の一端、私にお貸しくださいな」
か細い右手に握られた黒い曲剣が、高々と頭上へ掲げられた。長さは一マイレ程度。
「冥の壱。黒神の御手たる冥暗の血刃。その限りなき慈悲にて、愚者を優しく抱き導き給え――」
静かな言霊に応え。
彼女の携えるその剣が――、爆発したように伸長した。
それは形容するなら、黒き稲妻。尖った鋭角を中途にいくつも作り、精緻な直線とは呼びがたい歪みを帯びながらも、先端は天を貫く勢いで激しく、長く高く伸びていく。
ほどなく、今しがたの姿からは程遠く禍々しい凶刃が完成する。
全長、十マイレ強。
童話の挿絵として描かれるような雷に酷似した形状。刺々しい刃を随所へ散りばめた、例えるなら『禍』という言葉を体現したような――長大すぎる漆黒の断頭刃。
暴悪な金管楽器とでも表現すべき咆哮が、並木を、大地を震わせる。首と胴だけになってなお、ズゥウィーラ・シャモアは反撃に転じた。口腔を限界まで広げ、長い首で弧を描き、オルエッタを飲み込もうと差し迫る。
しかし。
矛盾とも表現できるほどの制約を乗り越えたその存在は、すでに怪物を完膚なきまでに凌駕していた。
「――然様なら。縁があったら、来世でまた会いましょ」
本能で躍りかかった『暴食』に対し、断罪の刃が振り下ろされた。
怪物の鉄塊じみた頭部が、太く長い首が、重厚な筋肉に鎧われた膨大な胴体が――中央を迸った黒線によって斬り開かれ、文字通りの真っ二つとなりながら裂けていく。オルエッタへ飛びかかろうとした勢いが仇となり、盛大に左右へと爆ぜ割れながら倒れていく。それはどこか、巨大な蕾が花開く光景にも似ていた。
降り注ぐ骨片や肉塊、臓腑、とめどない血雨。その物量はまるで、ズゥウィーラ・シャモアによる最後の抵抗とでもいうべき激しさだったが――纏わせた黒のうねりでその全てを弾き散らしながら、オルエッタはいつも通りの顔で振り返る。純白のその身を、わずかほども汚すことなく。敵の抵抗など、返り血の一片すら浴びぬと宣言するかのごとく。
赤い暴雨によって虹すらかかるのではないかと思わせる凄惨な光景の中。
「おーしまいっと! さあさあ行くわよ、アマンダ!」
一刀両断。
十五年前、忌まわしき悪夢を生み出した怨魔を一蹴し。
血肉の雨がようやく止んだ中、白の麗人は事もなげに笑った。
「……、相っ変わらずのバケモンだわ」
アマンダ・アイードは確信している。
このオルエッタこそ。
レインディールで最強の攻撃力を誇る女詠術士であると。
朱と臓物、そして肉片に彩られた、むせ返る血臭立ち込める大地。そんな世界を作り出した白き麗人は、長いスカートの裾を摘み上げて歩きながら大きな息をつく。
「んん、歩きづらい……。さあさあ、行くわよ。今すぐ行くわよ……!」
アマンダ自身も、吹き飛んできた血風臓物骨片その他を絶氷楯で弾いてはいた。しかし――あれだけの暴威に晒されて汚れ一つない同僚を見て、思わず引きつった笑みを浮かべる。
「オルエッタ、あんたってさ」
「何かしら?」
「一生結婚できないと思うわ」
「あはははは。どうして今、この時にケンカを売ってくる必要があるのかしらね~」
慈愛に満ちた笑顔ながら眉をひくつかせる長年の友人に対し、アマンダはふっと口元を緩め、
「だってあんた、自分より強い男じゃなきゃダメなんでしょ」
最大級の賛辞を込めて、そう返した。




