261. 負けられない思いの果てに
『なんと! こっ、ここへきての反撃一閃――! 馬乗りとなって有利だったはずのダイゴス選手、なぜか突然リューゴ選手から離れようとした結果、痛烈な一撃をもらってしまったあぁ――!』
シーノメア渾身の絶叫が響き渡る中、見守る者たちの様々な思いが錯綜する。
(ダイゴス、なぜ離れた……? 何か、駆け引きが……あったのか)
額に浮かぶ汗を拭うこともせず、ドゥエンは訝る。
驚くべきは、流護の頑強さだろう。あれだけの攻め手を受けていたにもかかわらず、ダイゴスよりも消耗していないという事実。受けにおいても超人的だということか。
目が霞み始めているドゥエンは、もはや戦況を正しく見定めることができなくなりつつあった。
(ウソだろ、もらっ……ちまった! 何なんだよ、あの拳はっ……!)
ラデイルは歯を食いしばる。
ダイゴスが、何の考えもなく迂闊に動くとは思えない。離れようとしたのは、何か理由があってのことなのだろう。
しかし、そこへ突き刺さってしまった無慈悲な一撃。
まるで怨魔だ、と悪態をつく。どんなに技を尽くし、巫術を駆使して立ち回っても、ただの一発で全て覆される。理不尽にすぎる、怪物の所業。
(……決まった……!)
ベルグレッテは思わず震える。
ついに当たった。幾度となく勝利を重ねてきた、あの拳撃が。ダイゴス自身が最大限に警戒し、絶対にもらわぬよう立ち回り続けてきた、その一打が。
(やっと入ったか。手こずったじゃねェか)
ディノはふんぞり返って黒水鏡を仰ぐ。
あの拳の威力は身をもって知っている。およそ常人に耐えられるものではない。自分以外の人間なら、よほどの対策を講じていない限り凌ぐことはできない。ダイゴス自身、それを深く理解していただろう。だからこそ、決して拳をもらわないよう立ち回り続けていた。細心の注意を払って、慎重な綱渡りを続けていた。それが。ここでついに、足を踏み外した。
流護がひどく消耗していることもあって、決定打となったかどうか、といったところか。
「大吾、さん……、もう、いいよ……」
桜枝里の瞳に、涙が浮かぶ。
試合のつもりで見守ると決めたはずだったが、その気持ちはすでに消し飛びそうになっていた。ダイゴスの苦しそうな顔を見て、もういいと思わずにはいられなかった。
エンロカクは倒れた。少なくともしばらくの間は、生贄とされることもないはず。一旦は助かったのだがら、もうダイゴスが苦しい思いをすることなんてない。
だから、もう。
悶絶しながら後退し、それでも倒れず大地を踏みしめるダイゴス・アケローン。
幽鬼のように、その場にふらりと立ち上がる有海流護。
「ハッ……、ゼェッ、」
小さき強者の姿を見据え、ダイゴスは脂汗を拭うことすらできないまま思考する。
思い知った。有海流護という、この戦力。双方共に万全の状態だったなら、万に一つも勝ち目などなかったのだろう。
だからこの武祭で、たった一度だけでいい。この一戦だけ勝てれば、もうそれでいい。何としても勝ち、そして桜枝里を解放する。
『何。女など、時期が来れば相応しい者を宛がってやる。何処の馬の骨とも知れん女など、お前には必要ない』
そう囁いた長兄に、思わず仕掛けた時のことを思い出す。腕を捕られ、身動きできない状況へと追い込まれた瞬間のことを思い起こす。
腕を解放された直後、思ったのだ。
これが兄の力量。現在の兄と、現在の己。
強大な兄との力の差は、これほどまでに『縮まっていた』のだと。
昔は、何ひとつ見えなかった。自分が仕掛けたところで、躱す動作も、腕を捕られる瞬間も、全く知覚することができなかった。
しかし、今は違う。腕を捕られたところで、へし折られたところで、全力で反撃の術を発することができる。ドゥエンならば当然、防御術を潜めたうえで相手の関節を締め上げにいくのだろうが、それでも立ち向かえると強く思う。思っていた。
だが、驕っていただけなのかもしれない。思いたかっただけなのかもしれない。長兄の領域に届いたと。かつて夢見た、屈強な英雄の域に達したと。
勘違いも甚だしい。
自分など、所詮は凡庸な詠術士にすぎなかった。『絃巻き』とはいえ、『凶禍の者』のように無尽蔵の魂心力を有している訳ではない。己の力量を考えずに連発すれば、通常ではありえない魂心力の急速な消費から、死に至る危険性すらあると医師に指摘されている。
勝つために全力を尽くせば、死が待っているという矛盾。
特別な力どころではない。この身は、自らの力すら自在に使いこなすことのできない欠陥品だ。己が『絃巻き』であることを知ったかつての長兄は、自分のことのように落胆したものだ。
もう、何も残っていない。
そんな『絃巻き』の力を発揮した連続術でも、エンロカクの意識すら刈り取った最終手段たる雷舞抛擲からの拳でも、この男を倒すことはできなかった。体力も気力も使い果たした。
そして、今しがたの攻防。
絶対的に有利な立場だったというのに……気がつけば、まるで手のひらで転がされるように『動かされて』いた。
肉体を使った根本的な技術の練度が、自分とは……否、『この世界の人間』とは違いすぎる。天地がひっくり返っても勝ち目などない。
「……、れ、でも」
それでも、負けられない。倒れることはできない。無様な姿など、見せられない。
震える両の脚に意識して力を込め、相手を見据える。
「お主が……勝ったら……、サエリは、どうなる」
絞り出した声に、流護は答えない。ただ静かな瞳で、悟ったような顔で、佇んでいる。
「エンロカクの脅威が、去ったとはいえ……そんなものは……、一時的なものに、過ぎん」
次にまた何かがあれば、桜枝里は同じように生贄として選ばれる。断ち切らなければ、いつまでも続く。
その言葉に対し返ってきたのは、流護が発した疑問だった。
「じゃあ……あんたが勝ったらどうなるんだよ、ダイゴス」
何を言っている。話を聞いていたのか。
怨嗟のように重く、吐き出す。
「サエリを……救い出せる」
「そうじゃない」
即座の否定をもって、流護は言う。
「『あんた』はどうなっちまうんだよ、ダイゴス」
思いがけずその部分を突かれ、巨漢はにわかに返答に詰まっていた。
「俺らが崖の近くで並んで、外の闘いを眺めてた時……あんた、言ったよな」
『「神域の巫女」という、とうに死んだ古の悪習から。牢獄のような、あの城から。下らんしがらみの総てから、何としてもあ奴を解放する。自由にしてみせる』
「ああ言われて、気になったんだ。あんたが優勝して、桜枝里を解放したとしてもさ。結局あいつは、一人じゃこの世界を生きていけない。だから、ダイゴスが支えていくつもりなんだろうけど……それって、レフェの人たちに認められるのか? 許されるのか?」
「……」
「優勝した権利で桜枝里を解放することと、その後の桜枝里の面倒を見ることって……別問題だったりするんじゃないか?」
そして傷だらけの少年は、核心に踏み込んでくる。
「ようはダイゴスさ。優勝して、桜枝里を解放した後……『十三武家』とか学院辞めてでも、何とかしようとか考えてないか?」
舞い降りる沈黙。
答えないダイゴスの様子から、察したのだろう。
「アタリ、ってか」
「……あ奴は……帰る場所もなければ、飛ぶこともできん鳥のようなもんじゃ。檻から出して、そこで終わり……などという無責任な話もなかろう」
「すげえな、あんた。俺は……ミアの時、その覚悟が決められなかったのに」
でもさ、と流護は口にする。寂しげな顔で。
「今……学院って『蒼雷鳥の休息』の期間中だろ。こないださ、学院の防護術を施術し直すとかいう話になって、残ってるみんなで一緒に作業したんだよ。ハケ持って、壁に薬塗ったりしてさ」
傷だらけの顔に浮かぶ微笑を見れば分かる。そんな作業が、楽しかったのだろう。
「たまにはこういうのも悪くないって思ったけど……やっぱ、いつものメンツが足りねえんだよな。何だかんだネタにされるエドヴィンとか、あんま距離縮まってねーけどレノーレとか、ミアのことは絶対にやらんけどアルヴェリスタとか」
ぼろぼろの顔に、しかし瞳だけはきらきらと輝かせて。
「もちろんあんたもだ、ダイゴス」
秘密を告白するように、少し照れくさそうに。
「俺……この世界に迷い込んで、最初はとにかく何とかして帰ろう、って考えててさ。んでも、何だかんだで……今の生活が、楽しいものになってたんだよな。そっから、あんたが欠けちまうのは寂しいよ。どうせ数年しかねえ学院生活なんだ、もうちょい一緒にいよーじゃねーか」
そこで少年は周囲を窺うような素振りを見せ、声を潜める。
「桜枝里のことなら問題ねえ」
そうして、真顔で告げた。
「土下座して頼んでみようと思う」
瞬間、ダイゴスの思考に空白が生まれる。発言の意味が分からなかったのだ。
「……何が、じゃ」
「桜枝里を解放してくれ、って。レフェの偉い人に」
何を言っているのか、この男は。
「……通ると……思うのか、それが」
「だから俺は……そのために見合う功績を、手に入れる」
レインディール王国のアルディア王が自ら任命した遊撃兵。
そして、第八十七回・天轟闘宴覇者。それも、無術の少年が勝利するという偉業。これが現実のものとなれば、ガイセリウス信仰が篤いこの地においては、もはや伝説となることだろう。いずれは七十万の民たちの中で、流護の名を知らぬ者などきっといなくなる。
腕っ節だけでない。そんな『地位』を手に入れ、交渉を持ちかけようというのだ。
「もちろん、簡単にいくとは思ってない。ってことで最悪、以下のよーな手段も考えてるんだけど」
そう言って、遊撃兵はさらに声を潜めた。
「俺は記憶喪失なワケだ。で、桜枝里と同じ日本人。同じ黒い髪と黒い瞳。王様に聞いた話だと、珍しいらしいよな。髪も目も両方黒ってのは。そんでさ、この激闘で頭を打った俺は、ちょっと記憶が戻るんだ。そしてこう言う。『思い出した! 桜枝里は俺の姉ちゃんだったんだ! だから姉ちゃん返してください!』って」
たっぷり数秒ほども沈黙して。
「……前々から思っとったが……お主、阿呆じゃろう」
「う、うるせーよ。まあ今の話はともかく、さすがに今すぐにとは言わねーよ。何とか交渉して、そのうちレインディールに連れて行っちまおうぜ。この国にいたって、どうせまた生贄にされたりしちまうんだろ? だったらいなくなるのも一緒じゃん。学院にはまだ空き部屋もあるし、作業場のローマンさんに頼めば仕事だってもらえるはずだ。大体、巫女って結構長い間不在だったって聞いたぞ。実はいらねんじゃね? つか桜枝里がいなくなっても、他の誰かがまた巫女にされちまうんだよな。よし、もうやめちまえ、こんな風習」
「フ……ハハ、ハハハハ……無茶苦茶……言いよるのう」
思わず笑えば傷に障り、巨漢はかすかに顔をしかめた。仮にも遊撃兵であろうに、大それたことを言う。しかし、不思議と悪い心地ではない。
ちら、と横へ視線を飛ばせば、やや遠巻きに二人を囲う白服たちの姿。巻き添えを警戒してか、判定員らはかなりの距離を取って見守っている。
幸いにして流護の大胆すぎる『提案』は、彼らには聞こえていなかったようだ。仮に鏡を介して外の三万人や重鎮らの耳に届いていたなら、どれだけの騒ぎになっていたことか。
いたずら小僧っぽい流護の表情を見るに、そのあたりのことも織り込んで持ちかけた『秘密の提案』なのかもしれない。
「どうよ、ダイゴス。これであんたも今まで通りでいられるし……そこに桜枝里も加わって、もう言うことなしだろ」
にっ、と流護は歯を見せて笑う。
形骸化した『神域の巫女』。もはや誰もが心のどこかで不要と思っていながら、伝統という理由だけで続けている悪習。『千年議会』を始め、保守的な姿勢を維持したがる者たちは壊そうとすら考えない、錆びついた循環。
そう。外様の少年が少し考えただけでも分かる。今の時代には、もう要らないのだ。
桜枝里が消えて一時的な騒ぎにはなるかもしれないが、やがて何事もなかったように日常が戻るだろう。
それが、今のレフェという国。
そんなレフェから『逃げる』のではなく。正面から立ち向かい、交渉しようなどという少年の提案……。
「それにさ。どうせダイゴスのことだ、桜枝里には詳しく話してねえんだろ? あんたが勝ったら、色々と面倒なことになるかもしれないって。いや、むしろ絶対言ってないだろ。どーせ『お主は余計な心配せんでええ』とか言ってんだろ」
少年自身、寂しそうに言い募る。
「桜枝里、悲しむんじゃねえかな。自分のせいで、あんたに何かあったら。『十三武家』だとかアケローンを、捨てるような羽目とかになっちまったら」
だからさ、と。
有海流護は、理想の未来を提示する。
「いつになるかは分からんけどさ。みんなで、向こうで暮らしちまおう。一人、新キャラ追加だ。その方が、絶対楽しいって」
本人は、『神域の巫女』という弊風の核心を突いた自覚などないだろう。屈託のない、歳相応の少年の笑顔を見せる。面子も都合も無視した、ある意味年齢に見合った滅茶苦茶な意見。
「……そうじゃの」
ダイゴスも、釣られるように口元を綻ばせる。
アルディア王は、この少年をいたく買っていると聞く。
例えば、今の与太話。遊撃兵の姉が桜枝里だ、などという話になれば――かの型破りな王は、面白がって『乗る』かもしれない。水面下でレフェの重鎮たちにあれこれ働きかけ、いつか本当にその『夢』を実現してしまうかもしれない。
流護と桜枝里の外見はもちろん似ても似つかないが、確かに珍しいのだ。瞳も髪も黒という人種は。共に東寄りの地味めな顔立ちをしていることもあって、姉弟で通せないこともないだろう。
いつもの顔ぶれに桜枝里が加わった毎日。想像するだけで賑やかな情景が思い浮かぶ。きっと、楽しいに違いない。
まさにそんな、夢のような光景……。
「じゃが……」
姉弟の件はともかくとして。多大な功績を挙げた遊撃兵が牽制すれば、最悪、桜枝里がむやみに生贄とされることはなくなるかもしれない。
だが、そこに確証や強制力などない。カーンダーラのような危険分子が、他に潜んでいないとも言い切れない。
「叶うかどうか分からん夢物語を、ただ待つのは……性分でないのでな」
今、確実なことはたった一つ。
ここで勝てば、必ず彼女を解放することができる。
「強情だなあ」
「勝つ、と約束した手前……お主に全て持っていかれてしもうたのでは、男として格好がつかんという意地もある」
そう言って、深く腰を落とす。
「それに……一人の戦士として、お主と……決着をつけたいんじゃ」
かつて憧れた英雄を体現したような、この有海流護という男。かつて夢見た理想に、自分がどれほど近づけたのか。掛け値なしに、それを知りたかった。
「何より……、桜枝里が見とるんでな。やはり、是が非でも負けられんのう」
今になって、噛み締める。それはきっと、彼女を解放しなければという思いと同じぐらいに大きい。
当たり前だ。
どうせ惚れた女を助け出すなら、格好をつけたいに決まっている。
「ああ。俺もカタに嵌められっぱなしで、内心悔しくてしょうがねえしな。今になって、やっとイッパツ当てたんだぜ? もうちょい殴らせろ、この野郎め。……それにさ、」
対するこの男は、何ともさっぱりした笑顔を見せるのだ。
「俺だってベル子が見てんだ。負けられねーって」
互い、傷だらけの顔で笑い合って。
身構える。
「つーわけで悪いけど、今度から桜枝里は俺の姉ちゃんになる。どうも、リューゴ・ユキザキ・アリウミです。ダイゴスのことは義兄さんって呼んでやるからな」
「お主のような義弟は、何かと持て余しそうじゃ。一先ず、却下させてもらおう」
体力を回復させるための、けれどずっと続けていたいような馬鹿話もそこそに。
示し合わせたがごとく、互い駆け出した。倒すべき相手へと向かって。
「来たれ……雷節棍!」
ダイゴスが最初に覚えた攻撃術。特別、この形状の長柄を意識していた訳ではない。強さに焦がれ、修練に明け暮れた少年時代。初めて形として己の手に現れたのが、これだった。
――それがダイゴスの武器か。良い輝きだ。練磨し、励みなさい。そうすれば……いつまでもお前を支え続けてくれる、無二の相棒となるだろう――
もう十年以上も昔。かつての、長兄のそんな言葉がはっきりと思い起こされる。
長きに渡る修練の果て、必要最小限の詠唱と消耗で喚び出せるようになった相棒を、この両手に携える。紫電散らす長柄の棍。これほど手になじむものはない。術者がこれほどの死に体となっても、まだ共に闘ってくれるというのだ。
「っしゃ、行くぞおらあぁっ!」
対峙する少年も右腕をぐるぐると回し、腰溜めに構えて――
ひどい泥試合だった。
雷節棍が流護の顔を張り飛ばすが、もはや力が篭もっていない。しかし当の流護にも余力はなく、その一撃で身体をふらつかせる。
流護が反撃の拳を繰り出すが、あの豪打はもはや見る影もない。空振った腕に引っ張られる形で、ダイゴスに体当たりを仕掛けていく。双方よろめくのみで、もう攻撃の体を成していなかった。
空振ってたたらを踏み、辛うじて踏ん張って。
殴り合いとも呼べない、叩き合い。
互い、相手を倒そうとして腕を振り回しているというのに、それがむしろ双方の身体を支え合っているようですらあった。
『いいか、俺が適当言ってるワケじゃねーって証明してやる。お前が将来、天轟闘宴に出ることがあったなら――俺が、全力で補佐してやる。お前を、絶対に優勝させてやる』
……おお、思い出した。
それでラデイルの兄者は、ワシに手を貸してくれたんじゃな。軽い男を装っていながら、何とも義理堅い。
兄者、ありがとう。
ラデイルの兄者が鍛錬に付き合ってくれたおかげで、何とかアリウミの動きに付いていくことができた。
『お前は、何も心配しなくて良い。お前はただ、何時ものように……私の命に従っていれば、それで良い』
ドゥエンの兄者には、申し開きのしようもない。
兄者から教わった技の数々を、兄者の望まぬことに使おうとしとるのだから、まさに恩を仇で返すとはこのことなんじゃろう。
厳格で規律を重んじるその在り方が、民や家族を――ひいてはワシを守るためのものだということは、重々承知している。
じゃが……その鉄仮面の裏側に隠された優しさのほんの一片でも、サエリに向けてやることはできんじゃろうか。
『――実はな、サエリ。ワシは……強いんじゃ。お主が思っとる以上にの。自分で言うのも何じゃが、この国で一等強いかもしれん』
ううむ。少々、大口を叩きすぎたのう。
おかげで、何としても負けられなくなってしもうた。
ダイゴスの身体は、もう動かなかった。
大地に雷節棍を突き立て、それに寄りかかって立つのが精一杯だった。
視界に入るのは、目の前で右拳を腰溜めに引いた有海流護の姿。
苦しげな、傷と埃にまみれた顔。
少しは、食い下がることができただろうか。伝説から抜け出してきたようなこの男に、ひと泡ぐらいは吹かせることができただろうか。
「ぐぅ、ぉおお――――……!」
吼えた流護が、拳を打ち放つ。
あの迅雷のようだった鉄拳とは比べるべくもない、振り絞る力もなくなった一撃。
しかし巨漢にも、それを躱すだけの力はなく。飛んできた拳は、頬にべしんと当たった。
「――――、……」
殴るというよりは押しのけるように、拳がダイゴスの顔を振り抜いていく。
それでもぶれる視界と、舞う血飛沫。
傾ぐ巨体と、途切れかける意識――
そうして、男は支え失ったように崩れ落ちた。
『た、たた、倒れた――――ッ!』
喉がすり切れるのではないかと思われるほどの、シーノメア渾身の絶叫。
『倒れたのはなんと……っ、リューゴ・アリウミだあああぁ! 棒立ちとなったダイゴス選手に右の拳を放ち、その振り抜いた勢いのままっ! 前のめりに崩れ落ちたあ――!』
倒れ、うずくまるように片膝をつく流護。
雷棍を支えに、辛うじて立っている……踏ん張っているダイゴス。
三万の大喝采に掻き消されぬよう声を振り絞りつつ、音声担当の乙女は誰もが抱くだろう疑問を投げかける。
『しっ……しかしなぜ、攻撃を仕掛けたリューゴ選手の方が!? 体力的にも、わずかながらダイゴス選手より余裕があるように見えたのですが……!』
屈み込んだ流護に、立ち上がる気配はない。それどころか、苦悶の表情で脇腹を押さえている。
『……恐らく……効果が、切れたのです』
ドゥエンが隻腕の右手を顎下に当て、推論を口にする。額には、珠のような汗が浮かんでいた。
『効果……って、一体何の……』
『リューゴ氏が……使っていた、アーシレグナの葉の効果。即ち……痛み止めの効力が、です』
何か、あらゆる苦痛を与える処刑器具に叩き込まれた気分だった。
「ぐ……、が…………!」
流護の口から、苦鳴の呻きと涎が零れ落ちる。その糸引く粘液を拭う余裕すらない。
これまでの闘いで刻まれてきた傷たちが、唐突に自己主張を始めていた。
様々な詠術士たちの術を捌き続けてきた右腕が。エンロカクの爆風陣を受けた左脇腹が。バルバドルフの神詠術爆弾やジ・ファールのヘィルティニエに打たれた全身が。プレディレッケに叩き折られた左腕が。そして、ダイゴスの術に貫かれた左脚や右脇腹、凄まじい拳を受けた左頬が。
無事な箇所を探すほうが難しいほどの満身創痍。戦闘状態の興奮によって分泌されるアドレナリンだけでは、到底紛らわすことができない激痛の奔流。
(……く、ヘバッてる……場合じゃ、ねぇ、ってのに……!)
しかし、追撃は来ない。
辛うじて顎を上向ける。
すぐ目の前。立てた雷棍に身を預けて佇むダイゴスが、荒い息をついていた。
この男も、とうに限界など突き抜けている。
そして時間的に考えるならば、流護に見舞ったあの右拳の――身体強化の効力が切れ、反動がその身に返ってきているはずなのだ。
アーシレグナの効果が切れたであろう流護と同じように、全身を苛む苦痛と格闘している。
もういい。休もうぜ、ダイゴス。
声がまともに出せれば、そんなことを言っていたかもしれない。
桜枝里のために、自分を犠牲にする覚悟で勝ち続けて。立ち続けて。
『その女子の治療費も、医師の手配もこちらで手を尽くそう。じゃから――勝利を譲ってくれ、とワシが云ったならばどうする?』
先刻持ちかけられた、ミョールにかかわるこの提案だって同じこと。
さすがにただの権限で、そんな真似ができるはずはない。仮にこの内容を実現するならば、『ダイゴスが』相応の代償を支払うことになるはずなのだ。
(……ったくよ、そんな……何でもかんでも、一人で背負い込もうとしやがって……!)
震える膝に、力を込めて。
(少しぐらい……俺にも、背負わせろっての……!)
霞む視界の中、確かに目が合う。
これだけ満身創痍になってなお、ダイゴスの顔には浮かんでいた。例の、「ニィ……」と形容したくなるあの不敵な笑みが。
流護も、無理矢理に笑い返してみせる。上手く笑顔になっているかどうかは、もはや分からない。
ここまできたら――もう、根性比べ。意地の張り合いだ。
砕けそうなほど奥歯を噛み締め、砕けそうな全身に力を込める。
立ち上がるべく、全ての力を集約し――
「お、ぉ――ああぁあぁああ――――ッ!」
有海流護は、立ち上がった。
「しゃああぁ……っ!」
再び、その足で大地を踏みしめた。
雷の棍に寄りかかって立つダイゴスと、正面から向かい合った。
どうだ、立ってやったぞ、と。
そして。
「……、――――」
そこが、終着点だったかのように。
がくんと、膝が折れたように曲がって。
流護の身体は、ゆっくりと仰向けに倒れ込んでいった。
ひらり、と。
緩やかな風に、舞った。
首に巻かれていた、参加者の証たるリングが。力なく解け、頼りない紐となって。
その瞬間。
最後の一人。
ただ一人のみとなる天轟闘宴の勝者が、ここに決定した。




