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終天の異世界と拳撃の騎士  作者: ふるろうた
7. 天に轟くは、闘いの宴
239/676

239. エレボス

 懐かしい旧友に再会したかのように――ある意味間違いでもないが――、流護は草葉を踏みしめそちらへと歩み寄っていく。

 対するその大きな男も、「ニィ……」と不敵な笑みを深めてきた。


「ダイゴス……やっぱり、残ってたのか」


 ごく自然に、流護は「やっぱり」と口にしていた。


「お主こそ……とは言えぬな。間違いなく、残るだろうと思っとったからの」

「そりゃどーも……」


 こうして近くで相対して、初めて気付く。ダイゴスは傷だらけだった。千々に破れた民族衣装、そこかしこに滲んだ赤色の染み。泥や血の跡に汚れた顔。流護自身もボロボロなのは自覚しており、今すぐ倒れ込めばさぞかし気持ちよく眠れるだろう心地だったが、この巨漢も大差ない傷を負っていた。


「えーと……闘います?」


 流護は頬をポリポリと掻きながら、潰し合いにそぐわぬやや間抜けな問いを投げかけていた。


「そうじゃの……ワシも、もう後戻りはできん。挑ませてもらおうかの」


 まるで昼飯にでも誘い、相手もそれに応えたかのような問答。

 それでもしばし――仕掛けるでもなく、無言のまま向かい合う。


「……もしかしてさ、ダイゴス」


 構えるでもなく不敵な笑みを見せる巨漢に、少年は語りかける。


「桜枝里のため……か?」


 出場している理由を訊いているのではない。これほどボロボロになってまで、勝ち残っているその理由を尋ねていた。


「そうじゃの」


 はぐらかすでもなく、巨漢は肯定する。

 これまでダイゴスが桜枝里をどう思っているのかよく分からなかった流護だが、今ははっきりと分かる。何の情も抱いていない相手のために、ここまで身を削って闘うはずがない。

 少し、ホッとした。明らかにダイゴスを好いている桜枝里だったが、ダイゴスもまた同様だったのだ。

 それにしても大人だな、と思春期の少年は思った。

 きっと自分なら、想いを寄せる女の子のために闘っているのか――などと問われれば、ムキになって否定してしまいそうだったから。


「…………、」


 そして。流護は思わず、この巨漢から目を逸らしていた。

 自分がこの武祭に参加した理由。成そうとしている目的。そこに、桜枝里を救うことは含まれていない。せめて彼女を狙っているらしきエンロカクを倒す。そんな一時凌ぎしかできそうにない。ひとまず桜枝里を狙う脅威はなくなるだろうが、いつまた彼女の身が危うくなるか分からない。……考えがない訳ではないが、正直現実味のなさすぎる案だ。


「お主が気に掛けることではない」


 心情を察したのか、ダイゴスは低く呟く。


「お主は……旅の共となった女子おなごを救いたいんじゃったの」

「……ああ」


 魔闘術士メイガスに襲われ、重傷を負ったミョールを助けるため。莫大な治療費を獲得し、医師の手配を要求するため。

 そこでダイゴスは、思いもよらなかったことを口にした。


「その女子の治療費も、医師の手配もこちらで手を尽くそう。じゃから――勝利かちを譲ってくれ、とワシが云ったならばどうする?」

「え……はぁ!?」


 さすがに流護は困惑した。まさかこの巨漢が、真顔でそのような提案を持ちかけてくるなど思いもしなかったからだ。


「いや、んでも……俺、負けてレインディールの看板に泥塗る訳にもいかねーし……」

「フ、冗談じゃ。そう、申し訳なさそうな顔をするな」

「いや……、そんな冗談言うキャラだったっけか、ダイゴス先生……」


 冗談、なのかもしれない。しかし。優勝したいという気概があるからこそ、飛び出したセリフであるはず。その思いは、決して『冗談』などではない。難敵であるディノに「勝ちを譲ってくれ」と茶化した流護のように。


「ディノとは遭遇したか?」


 見計らったかのように、巨漢の口からその名が飛び出してくる。


「……アイツが出てるの知ってたのか。まあ、一応。ただやっぱ、楽に倒せる相手じゃねえ。あん時は多分中盤過ぎぐらいだったし、あんま消耗もしたくなかったんで、とりあえず逃げさせてもらったよ」

「よう逃げ切れたの」

「はは……ギリギリだったけどな」

「となると……奴もまだ残っとると見て間違いないの。『打ち上げ砲火』の様子からして、残り人数は十五弱というたところか。その中に残るお主とディノ……難儀な話じゃ」

「……?」


 その物言いに、流護は違和感を覚えずにはいられなかった。桜枝里を助けるうえで排除必須な、あの難敵の名前が出てこなかったからだ。


「いや、あの……まず何より、エンロカク倒さなきゃだろ」

「倒した」

「え?」

「エンロカクならば……ワシが、倒した」

「――――」


 少年は絶句した。


「少なくとも……武祭の規定上ではな。奴のリングは外れ、敗北者となった。白服連中が奴を運び出していったが、何事もなく護送完了しとればいいんじゃが」

「……は、は」


 ダイゴスがエンロカクを倒した。そう聞いて――流護の心のどこかで、またも「やっぱり」と声がした。

 確信を持てずにいた。けれど常に、かすかな疑念がまとわりついていた。


 ダイゴス・アケローンというこの男。

 実は、とてつもなく強いのではないかと。


 桜枝里と初めて顔を合わせたあの日。王城の修練場で、ダイゴスと立合ったときのこと。ダイゴスは一手遅れ、直前まで流護のいた空間を正確に突いていた。わざと外し、避けられているように演出していた。王宮騎士たるベルグレッテや、武道経験者である桜枝里にすら悟られることなく。

 今にして思えば。ダイゴスはあのレドラックファミリーとの抗争劇の際にも、一人だけほとんど無傷で帰還していた。

 この男は――ミディール学院に一年以上も在籍していながら、その実力のほどを完璧に隠し通し続けている。

 己を偽ろうとしたところで、何かしらボロが出るものだ。身についた所作や振る舞い、武術となれば尚更。それを周囲に全く悟らせないとなれば、一体どれだけの技量を持ち合わせているのか――。


「できる限り、戦闘は回避する方針じゃったんじゃがの。あの化物とやり合うただけで、この有様じゃ」


 ボロボロになった自らの身体を見下ろし、そう自嘲気味に笑う。


「……が、まだ終わっておらん。いや……ここからが本番、か」


 空気が、変質する。


「すまんな、アリウミ。勝たせて――貰うぞ」

「……!」


 それは錯覚か。「ニィ……」と見慣れた不敵な笑みを浮かべるその巨漢が、より大きく見えた――気がした。






「……む」


 草薮の揺れを感じ、白服はそちらへと足を向けた。

 暴走しているというエンロカクか、それとも残り少なくなった参加者か。いずれにせよ、確認しておくべきだろう。

 参加者であれば何も問題はないが、エンロカクならば己の命にかかわる。白服の男は慎重に、相手に悟られぬよう身を低くして、そちらへと歩みを進めて――


「――――――――は?」


 思わず、思考の全てが吹き飛んだ。

 いかなる状況にも対応できるよう、鉄の精神と肉体を備えているはずの白服が。『それ』を目撃し、ただ呆然となって硬直した。

 思いつかなかったゆえ、であるのかもしれない。

 なぜ、こんな状況が生まれているのか。どうして、こんな相手がここにいるのか。およそ、己の脳内からあらゆる知識を引き出しても、その理由が全く考えつかない。

 たっぷり十秒ほども立ち尽くしていただろう。

 必然とでもいうべきか、周囲をキョロキョロと見渡していた『それ』と――目が合った。


「……ッ!」


 針のような隻眼の視線を受け、思わず身構える。

 頭のどこかで声がした。無駄だ。逃げろ。逃げてどうする? 仮に逃げられたとして、『これ』をどうする? どうなる? 天轟闘宴はどうなる? いや、それどころではない。なぜこんなことになっている? なぜ、なぜ、なぜ――

 もはや鉄の精神は崩壊し、思考も定まらなくなっていた。

 耳に届いたのは、突風めいた凄まじいまでの風切り音。目に映ったのは、黒く霞む何か。遅れてやってきた風圧と、首に感じる衝撃――






 きらり、と眩い光が反射した。

 それは――凄まじい勢いで首と胴体を分離させながら吹き飛んだ白服の懐から飛び出した、小さな黒水鏡。

 遥か上部、屋根のように広がる葉々の隙間から差し込んだ天の光が、鏡に反射して煌いていた。

 ぼん、と黒い残影が迸る。

 その一閃によって、宙を舞っていた鏡が粉々に砕け散った。それにより、細かな破片が光を受けて乱舞する。ある意味で美しい光景だったが、彼はそれが不愉快だったらしい。

 吼えた。

 きぃん――と大気を震わせる、金属質の残響。およそ生物の発する声らしからぬ、巨大な剣と剣を叩き合わせたような音色。






 その咆哮は。

 森の各所に残る戦士たちの気を惹くには充分すぎた。






「……?」


 地上より遥か高み――樹齢五百年は超えそうな、緑苔に覆われた巨大樹の枝上にて。

 向かい合い、隙を窺い合っていた炎と雷の両者は、示し合わせたように訝しげな顔を見せる。


「何だァ? 今の音はよ」


 ディノは視線を地上へと落とし、辺りを見渡した。


「……」


 ドゥエンも黙り込み、思案する様子をみせて――


「…………まさか、な……」


 思い当たる節があるのか、ぽつりと零す。


「有り得ん事だが……運営委員としては、念の為に確認せねばなるまい。悪いがディノ君、今度こそ失礼させて貰うよ」


 返事を待たず、ドゥエンはあっさりと宙空へと身を躍らせる。


「ふーむ」


 頭を掻きながら唸り、ディノも後に続いた。

 枝から枝を渡りながら、炎と雷の詠術士メイジが行く。その身のこなしは、樹上で暮らすましらよりも軽快だった。


「ドデケェ金属音みてーだったが、違うな。声か」

「恐らくはね。ところで、君は来なくても良いのだよ」

「オレを放って飛び出すぐれーだ。面白ぇコトが待ってるんだろーなと思ってよ。こういう勘は、外したコトがねェ」

「後悔しても知らんよ。思い過ごしでなければ……私は、あの声の主を知っている」

「ほう。何モンだ?」

「奴は――」






 黒板を引っ掻く音。あれを何倍にも増幅したような、身体の芯に響く嫌な音だ……と流護は思わず眉をしかめていた。

 どうやら、森の奥から響いてきたようだったが――


「何だ、今の……?」


 まさにダイゴスとの戦闘が始まるか否か、といった瞬間だったため、何となく水を差された気分になってしまった。

 対峙する巨漢へ目を向けると、


「……ダイゴス?」


 当のアケローン三男は、緊迫した表情で木々の合間を睨んでいた。


「……まさか、の……」


 ぽつりとそう零し、しばらく逡巡するように森を見つめていたが、


「すまん、アリウミ。勝手を言うが……この勝負、しばし預けさせてくれぬか」

「え?」


 それだけ言い残し、ダイゴスは足早に歩き始めてしまう。その足は、当然というべきか森の奥へ向かおうとしている。


「ちょ、ちょっと待った。今の音がしたとこに行くのか? 何だってんだ?」


 流護も慌てて後に続く。


「……あれは……音ではない。声じゃ」

「こ、声? あれが?」

「ああ。恐らくは、じゃが。ラデイル……次兄が言っておった特徴と一致する」

「どういうことだ?」


 流護としては、いきなりのことにもう訳が分からない。ダイゴスは緊迫した表情のまま、慎重に言葉を紡ぐ。


「思い過ごし……じゃといいんじゃがの。そも、絶対にありえんことのはずじゃ。そ奴は――」






 整えられた芝生の上を、握り潰されたコップの残骸が転がっていく。


「いや……いやいやいやいや、ちょっと待てよ、オイオイオイ」


 ラデイル・アケローンは頭を掻きむしり、こわばった表情を黒き森――『無極の庭』へと向けていた。

 さすがに距離があるため、森から直接聞こえた訳ではなかった。が、眺めていた売店脇の黒水鏡から響いた、その金属音――否、声。


「な、なんだ? 今の音……」

「びっくりしたなぁ~……、耳が痛えよ」


 売店に並ぶ観客たちの声が、どこか夢心地に感じられた。皆の耳を震わせた『あれ』がラデイルの想像通りのものならば、とびきりの悪夢へと変貌することになるが。


(いや、こんなとこで……、『無極の庭』だぜ、ここは……。絶対に有り得ねぇ……んだ、けど)


 状況や場所を考えるならば、絶対にありえない。そんなこと、起こるはずがない。

 しかし、確かにその咆哮は聞こえた。森の中から。


(いや待てよ。そういやぁ……、鏡……)


 つい先ほどのことだ。森の中に設置された黒水鏡が何者かによって破壊され、ツェイリンが憤慨していた。


(そういや……奴は、鏡が――)


 考えるより早く、ラデイルは駆け出していた。






 鏡を通して響いた奇妙な金属音に、客席はざわめいていた。

 複数の鏡から同時に響いたため、殊更にやかましく感じられたように思える。


『い、今の音は……何だったのでしょうか……?』

『むう……何じゃろうの。武器や術がぶつかり合った音にしては、あまりに大きすぎるしのう。ちょいと、追うてみようか』


 森の中の黒水鏡が拾った音――その強さや方角を頼りとし、発信源を割り出すようだ。ツェイリンが意識を集中し始める。


「……、」


 こん、と。

 ベルグレッテの手から、水筒が滑り落ちた。右隣――座る者がいなくなった席の下へと転がっていく。

 それを拾うことすら忘れ、少女騎士は呆然となっていた。


(……あの、音は……)


 ある。

 聞き覚えが、ある。

 何だったか。どこで聞いたのか。

 とてつもなく不吉な、本能的に危機感を覚えさせる、耳障りな咆哮。


(……咆、哮?)


 ――今、なぜ。さらりと、そう思った?


『わ、わ! ど、どなたでしょうか!?』


 焦ったシーノメアの声に鏡を見れば、解説席に一人の男が駆け込んできたところだった。ハネた短髪が特徴的な、整った顔立ちの美青年。ベルグレッテも知っている人物だった。


『何じゃ、ラデイルの坊やか。「映し」の最中じゃぞ』

『失礼。でもそれどころじゃないぜ、ツェイリン姉。さっき、鏡が割れたって言ってたよな。その近くに他の鏡は? 何枚ぐらいある?』

『三、四枚じゃろうかの』

『映せるかい?』

『少々待ってお……、む? また一枚割られとるぞ! 全く、どこのうつけじゃ!』

『鏡が嫌いなんだろうね。最初に割られた鏡と、最後に割られた鏡。その延長線上に鏡はあるかい?』

『成程のう。先回りして、下手人の姿を捉えようという肚か』


 次々と進んでいくやり取りの中、シーノメアが慌てて口を挟んだ。


『か、鏡を割ってる人も気になりますけど……先ほどの凄まじい金属音? も気になりますよねっ』


 ラデイルが目を細め、極上の笑顔を向ける。


『シーノメアさん、だったね。音声担当、お疲れ様。美しい声に違わず、綺麗な女性だ……。良かったら今度、一緒に食事でも』

『ひぇえ!? いや、あの、その……!』

『ははは。続きはこの局面を乗り切ってからにしようか。……恐らく、同一犯だよ。鏡を割ってる奴と、さっきの金切り声を上げた奴はね』

『金切り……声? えっと……誰かの声、なんですか? さっきのが?』

『すぐに分かるはずさ』


 場面が切り替わり、鬱蒼とした森の一角が映し出される。他の場所よりも獣道の幅が若干広く、何者かがやってくればすぐに分かるだろう。


『おっ、いいね。ツェイリン姉、しばらくここを映し続けて。これなら……見えるはずだ』


 そう呟いたラデイルの顔の脇へ、通信の波紋が広がる。


『はいはいっとー』

『ラデイルよ。お主、何をしておる?』


 響いたのは、国長のしわがれた声だった。

 その弁はもっともだろう。突然乱入してきたラデイルに、観客たちは困惑した様子を見せている。……端々からは、女性の黄色い声も上がっているようだが。


『おっと国長。すみませんね』


 ラデイルは首を巡らせ、やや離れた位置に屹立する王族観戦席を仰ぎ見る。が、距離も高さもあるため、双方の視線が直に交わることはない。表情すら見て取ることはできない。


『先程の音……鏡の件もそうじゃが、お主……何か知っておるのか』

『予想にすぎませんが。それも突拍子がなさすぎて、説明したところで誰も信じないような予想です。これは説明するより、見ていただいた方が早いかと。じき、この道を通るはず。現れるはずですよ。……奴が』

『奴、じゃと?』

『ええ。奴、です』


 三万の人々が。国長カイエルが。その隣席の桜枝里が。『十三武家』を含む貴族たちが。解説席の面々が。ベルグレッテが――釘付けとなって、黒水鏡を見つめる。何の変哲もない、森の風景を。固唾を飲んで、そこに現れるはずだという何者かを待つ。

 時間にして数分ほどが経っただろうか。

 薄暗い森の景色――延びる獣道の途上に、『それ』が姿を現した。


「――――――――――え?」


 漏れたのは己の声か、それとも近くに座る誰かの声か。ともあれ、その心情は同じものだったに違いない。



 ――巨大な、カマキリだった。



 体長は約四マイレ弱。人より遥かに大きなその身は、闇のごとき黒一色。流線形に、かつ鋭角的に発達した、攻撃的すぎる躯体。凶器という言葉を形にしたならこうなるのではないか、と思わせるほどの刺々しさ。全体的に金属質の硬い光沢を帯びており、さながら黒曜石で造り上げた彫像のようだった。

 しかし決して、製作物の類ではありえない。

 その証として、確かに動いている。鉄棒めいた四本の長い脚を蠢かせ、温もりの欠片も感じられない眼――右眼を周囲へと巡らせている。隻眼だ。左眼は、潰れているようだった。折り畳まれた二振りの鎌は、地に引きずりそうなほど大きい。

 冗談としか思えないような巨大生物が、ひたひたと森の中を歩いている――。


 通称、死神。

『怨魔補完書』によって定められている区分は、カテゴリーA。

 識別名は、プレディレッケ。

 人と人とが覇を競い合うはずのこの場所に、比喩でない正真正銘の怪物が姿を現していた。






 ざわめく客席、三万の人々。

 王族観戦席にて鏡を注視していた貴族たちは、


「……、な、ん、……じゃ? …………あれ、は」

「え……? なに、あれ……? カマ、キリ……?」


 国長や桜枝里を筆頭に、何が起きているのか分からないといった表情で硬直し、


『女性の下着予想は外すんだけどな……。こういう、ロクでもねぇ予想だけは当たりやがる』


 ラデイルが軽口とは裏腹に端正な顔を歪め、


『あの……、あれって……怨魔、ですよね……?』


 シーノメアは誰に尋ねるでもなく呆然と言葉を零し、


『馬鹿、な……、プレディレッケじゃと……? 有り得ん! 有り得んぞっ!』


 超越者であるツェイリンが、机を叩きながら立ち上がる。


『あんなモノが……どのようにして!? いつ!? わっちの目を掻い潜って森に……この「無極の庭」に入り込んだとでも云うのか!? 馬鹿な、有り得ん!』


 尋常でないツェイリンの取り乱しぶりだが、無理もないことだった。

 首都ビャクラクの西部に位置するこの森、『無極の庭』。鬱蒼とした雰囲気漂う薄暗い森ではあるが、ここは壁の内側。つまり厳密には『街の中』なのだ。

 さらにいえば、この『無極の庭』はレフェの中でも指折りの聖地。危険生物の類は棲息しておらず、日頃から厳重な警備体制が敷かれている。原則として立ち入りは禁じられており、怨魔はおろか、野良ネコの一匹とて迷い込む余地はない。

 人の手が入るのは年に二度の大規模清掃と、武祭の前後――その準備や後片付け作業においてのみ。それも、大勢の貴族や『千年議会』が立ち会ったうえで行われる。

 このように厳しく管理されている聖地に怨魔が現れるなど、塵ひとつない王族の部屋にゴキブリが這って出るよりもありえないことだった。

 当然、過去の歴史を遡ったとて、『無極の庭』に怨魔が現れたという例は一つたりとて存在しない。

 ――そのうえで。


『有り得ん……此奴、一体どこから湧いてきよったのだ!?』


 強力な霊場のため直接全容を見通せないとはいえ、今はツェイリンと黒水鏡によって監視状態にある黒き森。

 天轟闘宴も、すでに開始から四時間半が経過している。これほどの長時間に渡り、このような怪物が全く見つからず潜み続けていたとは考えにくい。

 かといって、武祭の最中にどこからか迷い込んできた可能性など、それこそ皆無だろう。この森は、三万もの観衆によってぐるりと囲まれているのだ。

 プレディレッケは羽こそ備えているものの、空を飛ぶことはできない。そのうえ、同ランクの怨魔と比して小さめではあるが、優に人間の数倍はある身体を有している。誰の目にも留まらず森へ入ることなど、できるはずがない。

 最初から潜んでいた可能性も、どこからか入り込んだ可能性もありえない。しかし怪物は、間違いなくそこに存在している。

 一体いつから。どこから。

 皆がそう認識し、混迷の渦中へと叩き込まれていた。


『大きい……ですね……』


 もはや何について言及していいか分からなかったのだろう。鏡の向こうで蠢く怨魔を見つめるシーノメアがぽつりと言葉にする。


『是非とも寝所で二人きりの時に言われたい台詞だね。それはともかく、事実デカいんだ。プレディレッケの体長は通常、大体二マイレ程度なんだけど……奴は、四マイレほどもある。およそ倍だ』

『そ、そうなんですか。それに、あの……右腕、といっていいのでしょうか。あれは一体……?』


 のそのそと動く怪物が鏡のほうへやってきたことによって、それが明らかとなった。

 カマキリに酷似したその怨魔が備えている、二振りの巨大な鎌。その片側――右の鎌には、一本の長剣が突き刺さっていた。品のよい意匠が施された、立派な細身の剣。


『いつ、誰が突き立てたのかは知らないけど……あれはもう、完全に鎌と一体化してるんだ。奴の右腕は、より凶悪な二枚刃になっちまってる。剣の持ち主も、さぞかし不本意だろうね』

『剣……、噂に聞いた覚えがあるぞ。まさか、奴が』


 ツェイリンが眉をひそめれば、ラデイルは「そう」と頷く。


『お客さんの中にも、名前ぐらい知ってる人はいるんじゃないかな。奴は、通称……「帯剣の黒鬼」。ここ十数年、レフェの中では最強最悪の怨魔とか呼ばれてる怪物さ』






「………………」


 ベルグレッテは思考すら放棄し、ただひたすらに視線を注いでいた。鏡に。突如として現れた、黒き怪異に。正確には、その右腕に。

 刺々しく凶悪な曲線を描く、二つの漆黒の鎌。その右側、鎌の先端部分に突き刺さる、一本の長剣。

 その闘いが遥か昔の出来事だったことを示すかのように。剣身は怨魔の体色と同じ漆黒に染まり、しかし朽ちることなく屹立している。剣が業物であることは無論、持ち主の心が最期まで折れなかった証であるようにも思えた。

 繊細に施された、派手すぎず上品な意匠。細くも強靭な、その剣身。ベルグレッテという少女にとってひどく見覚えのある、その剣。遠くからでも分かる、特徴的なその剣は――


 幼い頃に家族で訪れた、このレフェという国。

 ある森で遭遇した、プレディレッケという怪異。

 家族を逃がすため、単身で立ち向かっていった勇敢な騎士の姿。


「…………兄、さま………………」


 怪物の右腕に突き立っているそれは、間違いなく。

 兄が愛用していた、剣だった。

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