225. 通過点
その戦局を捉えていた黒水鏡は、耳障りな爆音を残して沈黙した。名前通り真黒の鏡面となってそれきり、何の情景も伝えようとはしない。
『……向こう側の鏡が……割れよったな』
超越者ツェイリンですら、恐る恐るといった口調でそう呟いていた。
先ほどまでの熱狂が嘘だったかのように、観客席はしんと静まり返っている。
皆、待っているのだ。
闘いの様子が見えずとも、勝敗の分かるその部分。黒水鏡の脇に表示された、選手たちの名前。
ダイゴスとエンロカクの文字に、変化が訪れるのを。そこに輝く名前のどちららかが、消えるのを。
しばしの静寂を経て。
バシュン、と。
脱落者を告げる音が、会場に木霊する。
皆が注視していた名前のうち、その片方が――光を失った。
売店で購入したばかりの水を片手に、端正な唇の端を吊り上げて。パチン、と気障な仕草で指を鳴らす。
矛の次男、ラデイル・アケローンは笑う。己が想定した通りの決着に。
「――ホンット、死んでくれよ。いい加減調子に乗り過ぎなんだぜ? 『黒々とした大猿野郎』が」
――消えたのは、099番。エンロカクの名前だった。
「…………!」
絶句したベルグレッテは、思わず席から立ち上がる。
「……うむ、お見事」
その隣に座るデビアスが静かに脚を組み直して頷き、
「が、ふひゅっ……」
鏡を凝視していた国長カイエルは、胸を押さえて椅子からずり落ちかけた。
「く、国長様!」
「お……お気を確かに!」
怪物の敗北に自らも動揺する中、兵たちが慌てて主を支える。
そのすぐ脇では、同じように桜枝里が放心していた。
「…………大吾、さ……、え? ……勝っ……たの……?」
「サ、サエリ様もだ! 誰か水を!」
控えていた兵らは、戸惑いながらも要人たちの補佐に駆け回る。
「――――――」
ドゥエン・アケローンは立ち上がり、愕然とした視線を森へ向けていた。
『ほ、ほんに……勝ち……よった、のか?』
超越者ツェイリンも、その動揺を隠せていない。
国長に桜枝里、ドゥエンにツェイリンといった面々ですら驚愕を露にする結末。ただならぬ雰囲気を感じてか、観客席の熱気も爆発した。
『じっ……状況は未だ不明ですが! しかし! か……勝ったのはダイゴス! ダイゴス・アケローンだあぁ――――ッ!』
突き抜けるシーノメアの絶叫。
エンロカクという存在の『事情』を知る者が揃いも揃って硬直する中、この宣言を飛ばすことができたのは、素人娘のシーノメアだからこそといえるかもしれない。
『ドゥドゥドゥエンさん、ドゥエンさん! 弟君が勝利されましたが!?』
『……、あ、ええ、そうですね。――失敬』
ようやく我に返ったドゥエンが、素早く通信の術式を紡ぐ。
『待機班へ告ぐ。すぐさま現場に急行せよ。エンロカクの安否確認、及び確保を急げ』
『どうなったか見たいところですけど……ツェイリンさん、現場の様子は映せないんですか?』
『む……向こうの鏡が割れてしもうたようじゃからの。この森の深部とあっては、わっちの「眼」をもってしても覗くことは叶わぬ……』
『もう! 肝心なときにこれなんだから!』
『お、おう……すまぬ』
超越者をたじろがせた音声担当は、その勢いのまま朗々と通信を響かせた。
『激闘、決着! その瞬間を見届けることができなかったのは残念ですが、これまで猛威を振るってきた元・剣の家系、エンロカク選手がつ・い・に・ここで脱落! その素性、圧倒的な実力から優勝候補筆頭と言っても過言ではなかった戦士の敗北に、国長様を始めとした首脳陣の間にも衝撃が走っています。詳細は未だ掴めませんが、燦然と輝くはダイゴス・アケローンの文字! 未だ、消える気配はありません! 敗北でも相打ちでもなく、確かな勝利! 若き矛の戦士が勝ち残ったことを称えつつ、次の動きを待ちたいところですっっ!』
息継ぎすら惜しんで、場をまとめるようにそう締め括った。
――現実の光景なのか、これは。
これまで、数多の闘いを見届けてきた。そして自身もまた、優れた戦士である。そんな熟練した裏方として動く若き白服――ロン・バーテルは、ただ我を忘れて立ち尽くしていた。
破壊し尽くされた森の一角。まとめて倒壊した頑強なはずの木々。樹齢千年を越えるだろう巨木の幹は派手に抉れ、大地を這っていた根の一部は粉砕して散らばっている。
そして――
遠く離れた木の根元には、その身を投げ出し横たわる黒き巨人の姿。国が恐れ続けてきた、エンロカク・スティージェという怪物。あの忌まわしき魔剣が目を閉じ、意識を手放して転がっている。
「……、」
ロンは思わず唾を飲み込む。
広場の中央――肩で大きな息を繰り返している巨漢の青年に、恐る恐るといった様子で声を投げかけた。
「……ダイゴスよ……、大金星……なんてものじゃあ、ないぞ。今頃、外は大騒ぎだろう」
凄まじい術の激突に気付きやってきたロンだったが、所持していた黒水鏡はその余波を受け割れてしまった。この歴史的瞬間というべき光景を皆に届けられないことが残念でならない。
「む……ロンか……。フフ、大金星……で……、同時に、大目玉……じゃ、な」
不敵な笑みと共に、若き矛は膝をついた。
「ダイゴスっ」
間違いなく後世に語り継がれるだろう功績を残した戦士に対し、肩を貸したい心境のロンだったが、白服という立場上それは許されない。
ダイゴスは苦しげに息をつきながら、細い視線を横向ける。
「……ワシのことはええ……。奴の護送を。武祭の規定上、ワシが……止めを刺す訳にもいかんじゃろう……」
「……承知」
さすがというべきか、エンロカクはまだ息があった。首がねじ飛んでもおかしくないような一撃を受けてなお、ただ眠っているだけのようにも見える。しかしすぐ脇に落ちている紐状のリングこそ、この怪物の意識が断たれたことの証でもあった。
「……、ダイゴス。この際だ、勝ち抜いてしまえ」
「その……つもりじゃ」
熱くなった心のまま無責任に言い放てば、矛の末弟もまた不敵に笑った。
エンロカクの拘束に取りかかりながら、白服の若者は思う。
凄まじいものを見てしまった。閃光に包まれたあの瞬間、ダイゴスは――
ある意味、騙し手。それも究極と称して差し支えない、大博打だ。六王雷権現を知るエンロカクが相手だったからこそ、有効な。
(……信じられん。ダイゴスは……あんな真似が、可能だというのか……)
まず間違いなくドゥエンですら、あのような技は思いつかないだろう。否――思いついても、実行するはずがない。暗殺者としてはありえない所業。
(いや……誰だろうと、できはせん……)
仮に自分に同じことが可能だったとして、あの局面でやれるだけの胆力があるかどうかとなれば、それはまた別問題だ。
(この男……命が惜しくはないのか……? いや、)
ダイゴス・アケローン。
いつしか物静かな巨漢となってしまったが、昔は夢見がちで好奇心旺盛な少年だった。ガイセリウスに憧れ、いずれは自身も立派な戦士になりたいと願う子供だった。しかしアケローンというその環境こそが、そんな理想を早々と諦めさせる要因になってしまった訳だが――
ともかく。
これでダイゴスが優勝者となる可能性が、飛躍的に高まった。
(まるで……ガイセリウスの御霊を、その身に宿したかのような)
超人的なエンロカクが相手ゆえ変則的な手段を講じる必要があったが、そもそも他の者が相手ならば、『見せかける』必要がないのだ。正面から、ただ『あれ』を打ち放てばいい。
エンロカクが脱落した今、あの技を凌げる者など、まず参加者の中には存在しない。断言できる。いや。国中を探しても……あのドゥエンですら、もしかすれば――
「……フッ」
思わず笑みが漏れる。
実直に働き、正当な報酬を得て、何事もなく一日を終える。ひたすらにそれを繰り返す。皆が規律を守り、波風立てることなく慎ましく生きていれば、無用な事態が起こることもない。
レフェの王宮に古くから伝わる規律文言だ。皆、子供の頃からこれを聞かされて育っている。
この内容を説かれた幼少のダイゴスは、「そんなのおもしろくないじゃないですか」とのたまい、ドゥエンにこっぴどく叱られたそうだ。
「フ、ハハ……」
――ああ。何も、変わっていないのだ。
魔闘術士を誘導してエンロカクを消耗させろ、という命だったにもかかわらず。
(とんでもねえ。ブッ倒しちまいやがった……ッ)
心中ながら、思わず素の口調で呟く。
一見、寡黙な大男に成長したその矛は。あの頃と変わりない思いを、今も胸に抱き続けているのだ。強くなりたい。誰もが羨む戦士に、英雄になりたい。想い人に、勇姿を見せたい。そんな、きっと誰もが一度は想い描く理想。
――その絵空事を現実のものとするほどの力を、携えて。
「……、――む、っ」
意識を落としかけたダイゴスは、慌てて己の首に手を宛がった。リングは解けていない。危ないところだ。気絶でもしてこれが外れてしまえば、全てが水の泡になってしまう。
周囲には、すでに誰の姿もない。エンロカクは、救護班としてやってきた白服とロンが四人がかりで運んでいった。
太い木幹に背を預け、懐からアーシレグナの葉を取り出した。中央から半分に割き、一片をすり潰して傷口へ。一片を嚥下して腹の中へ収める。
「……ふー……」
もう、後戻りはできない。
長兄の命に背き、あの怪物を倒してしまった。こんなにも、ボロボロになりながら。あの生真面目な兄は、よくやったなどと褒めてはくれない。なぜ逃げずに闘ったのかと、さぞ憤激することだろう。
だが、構わない。全て、覚悟の上だ。
「ぐ……」
手応えが、今もはっきりと残っている。
右拳。腕。踏み込んだ左脚。バネを伝えた腰。全身に、軋むような反動が刻まれている。
博打ともいうべき、秘蔵の一手。
仮にもう一度エンロカクと対峙することがあるなら、次は通じないだろう。そんな、一回限りの見世物。
(……あと一、二発が限度……といったところかの)
奇しくもというべきか。この技を使わねば勝てぬだろう難敵も、現時点で二人ほど心当たりがある。
(……さて)
エンロカク・スティージェ。
桜枝里を救うために排除必須だった、呪われし魔剣。体格、筋力、技量、術者としての能力――全てが自分より上。逸話通り、前評判通りの相手だった。想像に違わぬ強さだった。それはつまり。
(まず、一つ……じゃ)
決して、想像以上――ではなく。
想定通りの、勝利だった。次兄ラデイルと共に、この苦戦を織り込んだうえで、想定した通りの。
(おかしな……もんじゃったの)
この一戦。
エンロカクは、ダイゴスなど意識していなかった。ダイゴスと術を交えながらも、来るべきドゥエンとの闘いを見据えていた。
そしてそれは、ダイゴスも同じだった。
エンロカクの、そのさらに『一つ先』を見据えて闘っていた。
互いにぶつかりながら、互いを見ていなかった闘い。何とも奇妙な交わりだったろう。
エンロカクの排除は必須だったが、それは最終目標ではない。あの巨人を倒しても、一時的な脅威が取り除かれるだけ。桜枝里が巫女の呪縛から解放される訳ではないのだ。
彼女を自由の身にするためには、優勝しなければならない。
そして、優勝を狙うならば。
きっと、『あの男』を倒さねばならない。
――のう。勝ち残っておるんじゃろう? アリウミ・リューゴよ。
「……ッ」
にわかに震え出す腕を、必死で押さえつける。
疲労や消耗だけではない。這い寄る不安が、その腕を震わせる。
エンロカクは、想定通り下すことができた。
では、あの少年を同じように打倒することは可能か?
当たれば倒れる――はず。エンロカクが倒れた以上、あの男にも『この技』は通じるはずだ。
だが。
もし、当たらなかったら? 倒せなかったら? それ以前に。あの目にも留まらぬ踏み込みを、邪竜すら屠った拳撃を、自分は捌けるのか?
「……、怖い……のう……」
負けることは怖くない。ただ。約束を守れず、桜枝里を落胆させてしまうことだけが、怖い。
あの少年が学院へやってきて間もなく。彼は、エドヴィンと決闘を繰り広げた。
その決着後。周囲に集まった級友たち。興奮しきりなミア、いつも通り静かなレノーレ。心配げな顔で駆けつけてきたベルグレッテ。負けたにもかかわらず、晴れやかな顔で横たわるエドヴィン。
あのとき交わされた、何気ない会話。
『ダイゴス……まさかあなたまで、リューゴと闘いたい、なんて言わないでしょうね……』
『フ……興味がないな。……と言うのは負け惜しみかの。正確には、勝てぬと分かっている相手と闘う気はない、といったところじゃな』
『あー。やっぱ、おめーでも無理?』
『無理じゃな』
アケローンの掟に従うならば、無理だと判断した。無傷で倒せる相手ではないと。
そんな黒髪の少年は、次々と多大な戦果を挙げてゆく。ドラウトローを粉砕し。伝説の邪竜ファーヴナールと渡り合い。ついには拳ひとつでレインディールの精鋭となり。
掛け値なしの強者。
では、なりふり構わなかったと仮定して。ありとあらゆる手段を講じたとして。
――ワシは、勝てるのか?
あの怪物に。
「……全く。怖い、のう…………たまらんわ……」
ダイゴスは己の肩を抱く。
そして、あの男だけではない。まず間違いなく、ディノ・ゲイルローエンも生き残っているだろう。
あんな怪物相手に、『この技』は……自分の策は通用するのか。もし仮に遭遇してしまったら。向かい合った数秒後、この身はどうなっているのか。
「難儀な話じゃな、全く……」
――誰も見ていないゆえ、知る者はいなかったが。
巨漢の口の端は、確かな笑みを象っていた。当人ですら、気付かぬままに。




