197. フォボス
『紫電一閃! 085番、ダイゴス・アケローンが堅実に決めましたー!』
巨漢の回した雷棍が円を描き、そのまま虚空へと消える。
まるで詰め将棋。危なげない安定した立ち回りで勝利したダイゴスは、いつもの不敵な笑みを浮かべていた。
(大吾さん……、やっぱり強いなぁ)
鏡を通してその姿を確認し、桜枝里は安堵の溜息をつく。
(……、)
その勇姿を見て。『もしかしたら』を、期待してしまう。
『それにしても十八歳とは思えない、落ち着いた物腰ですね。只今の戦闘も、全く危なげがありませんでした。ドゥエンさんの弟君だという点を抜きにしても、注目すべき選手かと思いますが……』
『いえ。まだまだ未熟です』
『そ、そうでしょうか。な、なるほど~』
ドゥエンの声はどこまでも冷ややかだった。
音声担当のシーノメアも何やら察したのか、それ以上ダイゴスについて言及することはなかった。
(……、大吾さん)
ドゥエンが冷淡な理由は、桜枝里にも予想がつく。ダイゴスら『十三武家』の若手が参戦している、今回の天轟闘宴。その目的は魔闘術士を利用し、エンロカク・スティージェの消耗を狙うことだ。
しかし何がどうなった結果なのか。ダイゴスは現在、単独で行動している。周囲に、他の『十三武家』の面々は見当たらない。
任務を考えるならば、明らかに上手くいっていない状況。にもかかわらずダイゴスは焦った素振りを見せるでもなく、まさにいつも通りの泰然とした様子で構えている。生真面目なドゥエンにしてみれば、それが気に食わないのだろう。
桜枝里には分かっていた。
ダイゴスは、そもそも指示に従う気がない。本気で、あのエンロカクを倒すつもりでいる。
『覚悟』を決めたつもりではいたが、『もし』を期待してしまいそうになる。
桜枝里としては、ひとまずダイゴスの無事を確認できて一安心、といったところだった。
(……、うん)
『覚悟』は、決めたはずなのに。それでもやはり、当たり前のようにホッとしていた。
場面が切り替わり、激しく攻撃術の飛び交う一幕が拡大される。交戦しながら移動しているようで、『映し』もそれを追うように次から次へと変遷していく。
(うわ、すっごいカメラワーク……。こんなこともできるんだ)
映画のアクションシーンみたいだ、と桜枝里も見入ってしまいそうになる。その臨場感溢れる演出に、観客たちからも歓声が上がった。
入り組んだ森を平行に走り抜ける影は二つ。交錯する術の色彩は赤と白銀。敵を討たんと飛び交う、炎線と水流。あるいは躱し、あるいは樹木を盾に防ぎ、双方鎬を削り合う。
その速度や立ち回り、身のこなし。巫術に詳しくない桜枝里でも一目で分かる。実力派同士の闘いだ。
『こ、これは激しい! 一進一退、息つく暇もない攻防です! 誰と誰の一戦でしょうか……!? 逃げる炎の術者を、水の術者が追っているようにも見えます』
木々の合間から、炎の使い手の姿がまろび出た。レフェ特有の民族衣装姿に、額でぱっつりと切り揃えた前髪が特徴的な青年。右手に携えた炎の得物は、杖の形状を象っている。
『我ら「十三武家」より出場している……ハザール・エンビレオですね』
『おおっ! なるほど!』
対峙する水の使い手が、木立の隙間から身を翻した。たなびく黒いマントは、どこか蝙蝠を連想させる。ギョロリとした大きな目と顎下まで伸びたモミアゲが目立つ、痩身の男。
『ふむ……魔闘術士の……確か、バルバドルフ氏でしたか』
ドゥエンも自信なさげにその名を口にする。魔闘術士は似たような見た目の者が多いため、さすがの覇者でも把握しきれていないのかもしれない。
このバルバドルフが映った途端、観客たちからわずかにブーイングが巻き起こった。桜枝里はあまりよく知らないが、この魔闘術士と呼ばれる一団はどうにも評判が悪いらしい。もっとも、流護と対峙した彼らの一員の素行を見れば、それも当然のことだったが。
『すごいすごい! 実力伯仲、ですね! しかし、その……ハザール選手が、バルバドルフ選手との戦闘を避けたがっているようにも見えますが……』
『そうですね。しかし彼もまた「十三武家」の一員。何か考えがあっての事でしょう』
その言葉を聞いて、桜枝里は思わず苦々しさを感じた。何とも白々しい。その作戦を命じたのは、他ならぬドゥエンだというのに。
ともかく、杖の家系の戦士であるハザールは、ドゥエンの指示通りに任務をこなそうとしているようだった。
しかし、食いついているのはバルバドルフただ一人。魔闘術士の集団を誘引したい彼らとしては、世辞にも上手くいっているとはいえない状況に違いない。
表向きはエンロカクを消耗させ、天轟闘宴が終わった後にドゥエンが止めを刺すという、桜枝里を救うための作戦。ハザールも上の指示で動いているだけであって、桜枝里を助けようとしている訳ではないのだろうが、それでも少女は申し訳ない気持ちになってしまった。
激しく交戦する二人は、そのまま森の奥へ――画面外へと消えていく。鏡の範囲外へと行ってしまったのか、映像がそれ以上彼らを追うことはなかった。決着を見届けることができず、観客席からは残念そうな声が上がる。
そしてまた場面が転々と切り替わっていき――
「……!?」
その光景を前に、桜枝里はただ絶句した。
『こ、これは……!?』
シーノメアや観客たちも同じだったようで、困惑したような空気が広がっていく。
場所は開けた草むら。これまでの森と違い、木々は疎ら。そのうちの一本に括りつけられた鏡が、その場面を捉えているのだろう。
「…………っ」
桜枝里の表情がこわばる。
映っているのは――あの男。
二メートル五十センチは優に超えそうな、地球ではありえないほど高い上背。黒々とした肌に、隆々と盛り上がる筋肉。獣の生皮を剥いでこさえたような荒々しい装束。
桜枝里にとっての悪夢の象徴、エンロカク・スティージェ。
交戦しているのは、三人の詠術士。
――いや。果たしてそれを、『交戦』と呼ぶのだろうか。
仁王立ち。
エンロカクは両腕を悠然と広げたまま、無防備に立ち尽くしていた。三人の詠術士は、そんな巨人に次々と攻撃術を叩き込む。一人は炎の剣で薙ぎ払い、一人は氷の槍で突き込み、残る一人は背後からありったけの雷撃を浴びせかける。
しかし、不動。
エンロカクは怒涛の攻撃に晒されながら――全ての攻撃を受けながらも、意に介することなく両手を広げ、ただ空を見上げていた。まるで、享受するように。
それどころか。自分が攻撃を受けていることに、気付いてすらいないかのようにも見える。
『これ、は……え? 攻撃……されてます、よね? でも……全然、効いてない……? 何が……どうなってるんですか……?』
『見ての通りです』
職務を忘れて素で呟いてしまっているシーノメアに、ドゥエンは変わらない口調で答える。
『効いていないんですよ。……正確には、』
懐かしむような口調で。
『――あの男が纏う「逆風の天衣」によって、全ての攻撃が弾かれている』
その言葉と同時。
戦局が変化した。
炎の剣で斬りかかってきた一人の顔面を、エンロカクはその大きな手のひらで無造作に鷲掴む。うっとおしい虫を握るかのようだった。捕えると同時に力を込めたのか、詠術士は一度だけビクンと跳ねた後、だらりと力なくその四肢を弛緩させた。首に巻かれていたリングが光を失い、解け落ちる。
「……ひっ」
首吊りを思わせる光景に、桜枝里は思わず息をのむ。
間髪入れず、氷使いが巨人の脇腹へ氷柱の槍を突き入れた。しかし当然のごとく、槍のほうが砕け散る。
驚愕に染まる氷の術者の頬を、エンロカクは両手で優しく包み込んだ。まるで口づけでもするかのように。
瞬間。
ばき、ごきん、と。
黒水鏡を通し、破滅の音が木霊する。エンロカクはそのまま、相手の首を横向きに一回転させていた。まるで車のハンドルを切るみたいな気軽さだった。
「――――、うぶ……!」
桜枝里は直視できず、鏡から顔を背ける。
しかし、視界の隅で捉えてしまった。最後の一人が何らかの術を受け、腹部を圧壊させる光景を。
それは風によるものか。破けた腹部から、派手に血飛沫と臓腑が撒き散らされるという、あまりに無残な光景を。
「……ぃ、ぃやあああぁぁぁ!」
「サ、サエリ様!」
身を丸めた桜枝里に、背後で控えていた兵士たちが駆け寄る。
さすがに客席からも、歓声以上の悲鳴が上がっていた。
鏡の向こうでは、エンロカクが草むらに悠然と佇んでいる。今しがたの殺戮が嘘のような静けさで。人を殺めたばかりとは思えない、不遜な笑みをたたえて。
桜枝里にとっては幸いというべきか。打ち棄てられた死体は高い草丈に埋もれ沈み、視界に入ることはなかった。
ようやくといった様子で、シーノメアが声を絞り出す。
『こっ……れは、何とも凄惨な……悲惨な決着となってしまいましたが……これもまた、天轟闘宴という舞台における……その……あっ、今、エンロカク選手の下へ白服が駆け寄っていきます……!』
『切り替えるぞよ』
白服が持っている黒水鏡からの視点へと移り、エンロカクを見上げるような図が映し出された。
斑点模様の返り血を浴びた黒い巨人は、丸いピアスの通った分厚い唇を歪め、どこまでも不敵に笑っている。
『……エンロカク。警告だ。無為な殺生は控えてもらおう』
『ン~……そう言われてもな。死力を尽くして、互いに潰し合う――ってぇのが天轟闘宴だろ。俺も、その規定通りに動いてるだけだぜ』
小馬鹿にしたように肩を竦め、笑う。
『ちっとばかし小突いただけで死んじまう方が悪いんだよ。まさか「手加減して闘え」なんて言いやしねえよなァ?』
『貴様……』
不快感も露わに何か言い募ろうとする白服へ、エンロカクは手にしたリングを荒々しく押しつける。屈強なはずの白服が、それだけでよろめいた。
『お、おい――』
『潰した数を把握するために一応回収はしてるが……リングなんざ別に狙ってねえんだよな。持っててくれや』
相手の都合などお構いなしとばかりに、巨人は背を向けて歩き出す。
『ま、俺も失格にはなりたかないんでね。従ってやるさ。……「見える範囲内」では、な』
太い声で言い残し、エンロカク・スティージェは悠々と去っていった。
白服が――黒水鏡越しに視聴する三万の人々が、その後ろ姿を見送る。
『……ドゥエンさん。あの選手は、一体……』
かすれたシーノメアの声。一拍の間を置き――かつてレフェ最強の両翼として、その片方を担っていたドゥエンは告げる。
『――あの男はエンロカク。今は苗字も剥奪されていますが……かつてはエンロカク・スティージェとして、剣の家系に属していた人間です』
『えっ!? 剣の家系……って!』
『はい。客席の皆様の中にも、ご存知の方はおいででしょう。彼は十年前、自らの意思で「十三武家」を……首都ビャクラクを去りました』
『そっ……、れが、そのエンロカク選手が、なぜ今になって天轟闘宴に……』
『十年間……各地を放浪し、実力に磨きを掛けたのでしょう。舞い戻ったその真意は不明ですが……腕試しの心算で参加したのかもしれませんね』
さらりと。ドゥエンはそんな嘘の回答で言い結ぶ。無論、言えるはずもない。あの男が、『神域の巫女』を――桜枝里を手に入れるために参加しているなどと。
それからしばし。ようやく客席の雰囲気も落ち着きを取り戻し、参加者たちの闘いが次々と取り上げられていく。
「サエリ様。お水をお持ち致しました」
「あ、ありがとうございます……」
しかし、桜枝里の顔色は優れなかった。
――ダイゴスや流護の活躍を見て。いけるかもしれない、と思った。
けれど、ダメだ。
あのエンロカクはやはり、次元が違いすぎる。あんな怪物と闘ってしまったら、二人は――
(……いやだ……、怖い。怖いよ……)
決めたはずの『覚悟』が、根底から崩壊しかかっていた。テレビで格闘技の試合でも見ている気になっていた桜枝里の認識を、エンロカクが一変させた。否、改めて知らしめた――と表現するのが正しいか。
これはルールに守られた試合などではなく、命を落とすこともありえる危険な武祭なのだと。他者の命を平然と奪う怪物が参加している、故郷ではありえない催事なのだと。
生々しいまでの『死』を見せつけられ、日本という土壌で不自由なく育ったいち少女でしかない桜枝里の決意などというものは、あっさりと折れかかっていた。
桜枝里は自らの肩を抱き、その身を小さく竦める。夏の空気はこんなにも暑いのに、自分の身体が震えているのが分かった。
「サ、サエリ様……少しお休みになられては」
「……大丈夫、です……」
全然、大丈夫なんかじゃない。
もう、嫌だ。
助けて……。
大吾さんを。流護くんを。私を。
誰か、助けて……。




