192. 序盤戦
『さて! 開幕から三十分が経過しました、第八十七回目となります天轟闘宴!』
響くシーノメアの声と同時。バシュンと音を立てて、黒水鏡の脇に表示されていた名前の一つが点滅し、やがて消失した。
『おぉーっとここで017番、スイヴチル選手が陥落ーっ!』
『映し』が切り替わり、その勝敗が決した場の情景が浮かび上がる。木立のわずかに開けた岩場、倒れた若い男――スイヴチルと、その傍らでリングを回収する中年男の姿。
勝者である中年の男は、自らが倒した若者を抱え起こし、回復の術を施す。
やがて意識を取り戻したスイヴチルと勝者の男は、笑顔で握手を交わし合っていた。
『おお、闘いの果てに生まれた絆とでもいいましょうか……フェアですね! 全ての試合がこう運ぶといいのですが』
場面が替わり、激しい術の撃ち合いが展開されている光景が映し出される。草薮や太い樹木を盾に、幾条もの火線や雷撃、水砲や氷弾が飛び交う。
『こ、これはまた激しい! 雨霰のような攻撃術の応酬! 遠距離かつ遮蔽物越しに交戦しているのもあってか、この場に何名が参加しているのかすらも分かりません!』
時折、木陰から木陰へ素早く移動する何者かの姿が見え隠れするが、後はひっきりなしに術が交錯している。特筆すべきは、これだけ激しく衝突していながら、脱落者が出ないことだろう。術士たちの高い技量が窺える。
そこからまた幾度か場面が転換し、森の中の黒水鏡によって捉えられている光景が複数同時に表示された。
『さぁ現在、三十分経過時点で十八名が脱落しております。残るは百七十一名! ドゥエンさん、このペースはどうなんでしょうか』
『比較的、早めですね。ですが――』
今回に限ってはそれも当然です、とドゥエンは付け加える。そもそも出場人数が多いため、その分だけ単純に敵と遭遇しやすくなっているのだ。
『ところでドゥエンさん。今回、注目の参加者などはおられますか? 私は……素人目線ながら、106番のディノ・ゲイルローエン選手が凄いなあ、と印象に残っているんですが……』
『ふむ。小娘は相変わらず美形に弱いのう。まぁ確かに、目を見張るような色男じゃったが』
横からツェイリンに茶々を入れられ、音声担当の若き乙女は『そ、そういうんじゃありません!』と慌てて否定する。
『そっ、そういえば。今回は、ドゥエンさんの弟君が参戦されているんですよね!』
そこで。これまで淡々としていたドゥエンの応答に、わずかな間が生まれた。
『……ええ。不肖の弟、ダイゴス・アケローンが参加しています。良い経験になればと思い、出場を薦めました』
『なるほどー。このダイゴス選手、普段はレインディール王国の学院に留学されているそうで……』
『はい。学院にて学んだ知識や技術を活かし、彼なりの結果を残してくれる事を期待しています』
バッサリと、会話を締め切ってしまうような返答。
『は、はい。なるほど、はい』
シーノメアも思わず言葉に詰まってしまった。
『……えーっと……、あ』
『他に何か?』
『あっ、いえ。手元の資料を見ていて、ずっと気になっていたんですけど……』
『この、099番の……エンロカク選手。どこかで聞いたことのある名前だなーってずっと気になってるんですが、なかなか思い出せなくて……』
またも生まれる、わずかな空白。
意を決したように、ドゥエンがその静寂を破る。
『……そうですね。シーノメアさんのような若い方はともかく……私と同世代か、それより上の年代ならご存知の方もおいでかと思います。彼は――』
そこで見計らったかのように、バシュンと鳴り響く音。出場者の名前の一つが点滅し、緩やかに消えてゆく。また一人、戦士が脱落した。
『おおっと! これは……173番、ベロリゲ選手が敗退です!』
鏡の場面が切り替わるも、しかしそこには森の景色が広がっているだけで、誰の姿もなかった。
『これは……また、範囲外での決着でしょうか?』
『無極の庭』内で起きたことを把握するべく無数に設置してある黒水鏡だが、全ての出来事を完璧に捕捉できる訳ではない。ツェイリンの能力をもってしても設置できる鏡の数には限りがあり、どうしても捉えきれない『死角』というものが生まれてしまう。
そこを少しでも補うため、白服たちも黒水鏡を携帯しているのだが、それでも逃してしまう場面は多い。
もっとも主催側としても、その死角を完璧になくしてしまおうなどというつもりは更々なく、こういった部分を利用して立ち回ることもまた戦略の一つということで、意図的に放置している面もあった。
実のところ、理由はそれだけではない。長丁場となるこの武祭である。参加者たちが用を足すための空間を確保する、という意味合いもあった。死角でない場所で『そんな光景』が映りそうになった場合は、ツェイリンが死力を尽くして三万人の目に入らぬよう配慮するのである。うだるような暑気の夏場、最長でも七時間。用足しなどしなくて済むよう身体を調節してくることはさして難しくないが、それでも人間、もしもの場合もあるだろう。
ともあれこれもまた、そんな死角を利用した決着の一つ――
『おっと! ここで、ちょうど獣道を歩いてくる人の姿が映り始めました! 足を引きずって……疲労の色も濃く、リングもしていませんね。奪われてしまったようです。ベロリゲ選手……でしょうか?』
『ええ。そうですね』
自信なさげなシーノメアの声に、ドゥエンが頷く。
ひげ面の大男――ベロリゲが、今にも倒れそうな足取りで歩を進める。リングが外れるほどの消耗だ。体力も限界だろう。
そんな満身創痍の男の下へ、草薮を掻き分けて裏方たる白装束がやってきた。
脱落者となった大男は、そのまま白服に付き添われ、森の外へ退出する――はずだった。
しかしベロリゲは白服の姿を見るなり憤った様子で何事かを喚き散らし、あろうことか拳を振り上げて殴りかかる。
『お、おーっとこれはどうしたことか!? ベロリゲ選手、白服に暴力行為です! これはいけません! ドゥっ、ドゥエンさん、これはどうしたことでしょう!?』
焦るシーノメアとは対照的に、ドゥエンは変わらず平坦な声で答えた。
『始まる前にも少し触れましたが……天轟闘宴における勝敗は、飽くまで首へ巻かれたリングによってのみ判定されます。原則としてリングは、命にかかわる程の損耗や、大量の出血……意識の断絶等を感知したなら外れてしまう訳です』
が……、と含みを持たせて続ける。
『闘争行為が齎す高揚によって、人は痛みや疲弊を感じなくなるという事がままあります。支給されたアーシレグナの葉にも、強い鎮痛作用がありますしね。これにより、「自分はまだ闘えるにもかかわらずリングが外れた」と不満を抱く者が現れる事態も起こり得ます』
『なるほど……! 今、このベロリゲ選手がまさに……』
頷き、解説を務める覇者は薄く笑う。
『恐らくは。ですがリングが外れた以上、危険な状態である事に違いありません。他者へ食って掛かる前に、まず傷の処置をするべきですね』
『な、なるほどー。……さてご覧の通り、「映し」では未だベロリゲ選手が白服に抗議と言いますか、ふらふらになりながらも拳を振り回して不服を訴えて……、ツェイリンさん、音声出せますか?』
『少々待っておれ。……この「映し」からでは拾えぬな。あの白服が持つ鏡に切り替えようか』
「ふざっ……、ふざけるなよ、この野郎……!」
息も絶え絶えになりながら、ベロリゲは拳を振り回した。
「落ち着け。リングが外れた以上、貴殿は失格だ。判定は覆らん」
いなしながら、白服は静かな声で大男を諭す。
「ざ……けるなよ、お前ら、グルだったって事じゃねぇか!」
「……何?」
「リング、わた、糞っ、……襲い、掛かってきやがって!」
ベロリゲは喚きながら飛びかかってくる。
埒が明かないと判断した白服は、伸びてきた太い腕を躱しざま、相手の首筋へ手刀を叩き込んだ。
「ぐっ……」
わずかな呻きを残し、ベロリゲの巨体が重く倒れ伏す。
荒々しい猛者が集う闘いの宴。時に、こうしたルール外の暴力行為に及ぶ者も現れる。そういった事態にも対応できるよう、武祭の裏方を務める白服たちは、いずれ劣らぬ精鋭兵で構成されていた。
(…………)
倒れた脱落者を見下ろし、白服の男はわずかに思い耽る。
こういった出来事は、別段珍しいことではない。……が、この男の言葉が気にかかる。
(グルだった……とは、どういう事だ? 襲い掛かってきた、とも言っていたな)
白服の中に、不正を働いている者がいる――とでもいうのか。
『千年議会』の総意として、国外の者を優勝させるか否か、といったような『大まかな方向性』を定めることは確かにある。
が、白服は飽くまで裏方。出場者に肩入れするようなことはもちろん、不正を働くなどありえない。選ばれた者たちの業務に臨む姿勢もさることながら、そもそも白服は皆、ツェイリンの黒水鏡を持たされている。妙な真似をすれば、彼女に筒抜けとなってしまうのだ。
(……となれば、考えられるのは――、ふむ……)
思い至ったその考えに、白服はわずか口の端を歪める。
何が起こるか分からない。荒れれば荒れるほど面白い。それが天轟闘宴。
そう、例えば――必ずしも皆が優勝を目指しているとは限らない。個別褒賞にすら興味を示さず、全く別の目的を持って出場している者もいるかもしれない。
闘い方も、目的も違う。そんな多種多様な戦士たちの交錯が楽しめるのが、この武祭。
(……ふ)
これだから白服は辞められぬ、と男は顔に出さずほくそ笑んだ。




